半村良

  • 性别:
  • 生卒年: 1933年10月27日 - 2002年3月4日
  • 本名: 清野 平太郎

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    职业: 作家

    東京府東京市葛飾区生まれ。小学1年生の時に父を失う[1]。1942年から1945年まで石川県能登地方に疎開していた[1]。東京都立両国高等学校を卒業後、連込み宿の番頭やキャバレーのバーテンなど30近い職業を転々とした。広告代理店に勤務していた時代にはニッポン放送と密接な関係を持ち、5代目月の家圓鏡(後の8代目橘家圓蔵)をラジオパーソナリティとして発掘した。

    1962年、短編小説『収穫』が第2回ハヤカワ・SFコンテストに入選(第3席)し、作家デビューした。日本SF作家クラブの事務局長も務めるが、1960年代は数編の短編を『SFマガジン』に発表するのみで、ほぼ沈黙していた。これには、自由な作品を書こうとする半村と、当時『SFマガジン』編集長だった福島正実との対立もあったという[2]。

    福島が退職して森優が編集長となると半村に執筆が依頼され、1971年に刊行した『石の血脈』で「伝奇ロマン」や「伝奇SF小説」と呼ばれるジャンルを開拓した。この作風は、後の作家たちに大きな影響を与えた。この頃、早川書房で半村の担当だった竹上昭は、のちに退社して半村の助手となった(のち、翻訳家野村芳夫となる)。

    以降、旺盛な執筆活動を行う。自分の職業を「嘘屋」とよぶほどの「奇想ぶり」を発揮する一方で、下積み生活が長かったことを反映しての人情小説なども書いた。また『軍靴の響き』のような、再軍備に警鐘を鳴らす小説も発表している。財閥や政治家を巨悪として設定する物語が多く、『戦国自衛隊』末尾では痛烈きわまる皇室批判も語られる。ただし、左翼政党に肩入れするような活動は見られず、むしろ柿澤弘治や加藤紘一といった自由民主党リベラル派の政治家との交際があった。柿澤は高校の同級生である。

    1975年、SF作家としては初めて第72回の直木賞を受賞したが、授賞対象となったのは人情小説『雨やどり』であった。SF小説の直木賞受賞は1988年の景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回)まで出なかった。

    1980年、『妖星伝』完結編の第七巻の発売について、講談社と事件となり、発売延期。講談社から発売予定だった全集「半村良独演会」も発売が延期となった。

    1984年から1987年まで北海道苫小牧市に居住した[1]。

    1988年、人情物とSFとを融合させた作品『岬一郎の抵抗』で日本SF大賞を受賞した。1994年には雑誌連載が中断し未完だった『虚空王の秘宝』を完結させて刊行、1995年には単行本刊行が中断していた『妖星伝』を完結させる。しかし他にも、『太陽の世界』など未完に終わった長編・シリーズが多数ある。

    1998年、栃木県鹿沼市に移住する[3]。

    2001年、群馬県前橋市から、家族の住む東京・調布に戻る[3]。

    2002年3月4日、肺炎のため死去した。享年68。同年、第二十回日本冒険小説協会大賞特別賞を受賞。

    ペンネームは、イーデス・ハンソン(良いです、半村)に由来するのではないかとよく言われるが、実際は薬品のネーミング法などをヒントに語呂の良いものを選んだのだという[4]。イーデス・ハンソン説については、小松左京の言い出した冗談を、本人が特に否定しなかったために広がったという説が有力である。このほか、馬主として、自身のペンネームをもじって命名したハーフェンダールという馬を持っていた事もある。

    架空戦記の源流でもある『戦国自衛隊』は、1979年に映画化され、2005年にも『戦国自衛隊1549』としてリメイクされた。

    パスティーシュ小説で著名な清水義範は、学生時代に作った同人誌を通じて半村と文通が始まり、大学卒業時と同時に上京する際、半村を頼ったと述べている[5]。当時の半村は広告代理店を退社して専業作家に転身し、大きくブレイクしようとした時期にあたった。その後も清水に目をかけ、亡くなるまで交友が続いた。清水は、いくつかの自伝的作品で半村をモデルにした人物を登場させており、師匠と呼んでいる。

    2005年、戦後の焼け跡・闇市時代を描いた著書『晴れた空』が祥伝社より、戦後60年特別出版として、再刊された。

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