2022-10-12 16:15 /
作家Tags:三浦勇雄 斜守モル 達間涼 五月什一 サイトウケンジ かつび圭尚 海冬レイジ 小川晴央 綾里けいし あさのハジメ
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1、作家名
あさのハジメ
ASANO HAJIME

参加作品
生前クールだった高嶺のお嬢様が死後やけに俺に甘えてきます
生前クールだった高嶺のお嬢様が死後やけに俺に甘えてきます
 3ヶ月がたっても、柏木かしわぎ瑠利花るりかの死はこの私立神楽宮かぐらみや学院において色あせることはなかった。

 転入初日、俺はそのことを思い知ることとなる。



「滝村たきむらくんのこと、瑠利花様にも紹介したかったわっ」



 1時間目が終わった後の休み時間。

 そう言って前の席の西園寺さいおんじさんが涙を流した。

 神楽宮学院は国内有数の名門校。

 初等部から大学までの一貫教育。偏差値が高く、明治時代までは財閥や華族の子供たちを教育する機関として名を馳せていたそうだ。



「うちにはお嬢様が多いけど、その中でも瑠利花様は特別だったんだ」

「あの柏木グループ会長の孫娘で、成績トップの優等生で」

「生徒会役員で全校生徒から慕われてたの!」

「男女問わずたくさん交際を申しこまれてた!」

「誇り高く高潔な方だったわ! 写真がそちらにあるからお顔を見てあげて!」



 隣の席を見ると、そこは献花台となっていた。

 色とりどりの花々が祭壇に飾られ、真ん中には遺影写真。

 異国の血が入っているのかきらびやかな銀色のロングヘア。

 瑠璃色に輝く大きな碧眼。

 美術館の絵画から抜け出してきた西洋の女神のように完璧なプロポーション。

 思わず見とれてしまう淑女らしい静かな微笑み。

 

 3ヶ月たってもクラスメイトが彼女の死を受け入れられないのがわかるほどに、柏木瑠利花(享年・16)は美しかった。



「実はオレ、霊感があって」



 背の高い男子が涙ながらに告げる。



「瑠利花様はまだこの世界のどこかにいる。オレたちと話したいって泣いてる気がする」

「えっ、ホントに!?」

「成仏できないのも無理ないよ……あんな火事で亡くなったんだもん」

「ああ、瑠利花様! 私たちももう一度会いたい、お話がしたいです……っ!」

 

 死んだ少女への想いを吐き出す生徒たち。

 まるで映画のワンシーンのような感動的な場面だったけれど、



「みなさん、感傷的すぎます」

 

 とある事情から、俺はなんともフクザツな気分になってしまった。



「涙を流しくださるのはうれしいですが、転入生である未来みらいさんをほったらかして悲しみにくれているのは失礼極まりません」

《お気づかいありがとう》

「あら。当然ですわ。未来さんは唯一わたくしが見えるお方なのですから」



 俺がスマホに打ちこんだ文章を見て、彼女はクールに微笑んだ。

 その声は誰にも届いていない。

 というかやっぱり姿さえも俺以外には見えていないようだった。



 幽霊。



 世間一般的に言えばそんなオカルト的存在である。

 そう、柏木瑠利花は死してなおこの世界に留まっている。

 もちろん最初は信じられなかった。

 幻覚か何かだと思った。



「未来さん。スマホのdアニメストアを起動してくださいませんか?」



 ただ、彼女の言動は幻覚にしてはやけに生々しかった。



「か〇や様が観たいんですの」

《教室でアニメを見るのは校則違反なんじゃ》

「バレなければ問題ありませんわ。わたくしもこっそりやっていましたもの」

《さっきは誇り高く高潔とか言われてたのに……》

 

 そこで「ぐー」と腹の虫が鳴った。

 昨日は深夜0時すぎまで瑠利花セレクトのアニメを彼女と観ていた。

 結果寝坊して、朝食を取るヒマがなかったわけである。



《アニメを観るのはこれを食べてからでいい?》



 カロリーメイトのチョコ味を鞄から取り出す。

 空腹を堪えつつ、箱を開封して中身をかじると、



「わたくしも一口よろしいかしら」



 かぷっと。

 口にくわえたカロリーメイトの反対側を瑠利花が小さなお口に含んだ。

 思わずむせかけたけど、必死に耐えた。

 瑠利花は幽霊なのでカロリーメイトには触れられず、すり抜けてしまう。

 ただ、こちらは平静じゃいられない。



 数センチ先にある瑠利花の顔。長いまつげ。どこか艶めかしい薄桃色の口唇くちびる。真っ白で触ったら気持ちよさそうな柔肌。まるでキスするみたいにまぶたを閉じたままカロリーメイトに歯を立てるふりをする麗うるわしのお嬢様……。



(――ああ)



 他の人に瑠利花の姿が見えてなくて本当によかった。

 高嶺のお嬢様と教室でポッキーゲームしてるとバレたら羨望と嫉妬の的である。



「失礼しました」

 

 あくまでクールに瑠利花はカロリーメイトから口を離してから。



「うっかり自分が死んでいることを忘れていましたわ」

《おかげで俺の方も心臓が止まりかけたよ》

「まあ。どうして?」

《いや、あと少しでキスしそうになってたし》

 

 俺ができるのは瑠利花と話すことだけじゃない。

 彼女に触れられるのだ。

 視覚と聴覚だけじゃなく触覚でも幽霊を感じられる。瑠利花は『BL〇ACHの主人公と同じ体質、うらやましい!』とか言ってたっけ。



《それにポッキーゲームなんてしたことないしさ》

「……そんなことはありませんわ」

 

 えっ? と聞き返すと瑠利花はさっきあんな大胆なことをしたとは思えない恥ずかしそうな表情を浮かべていた。

 ただ意味深な顔をしてからかってるだけかもしれなかった。

 けど、俺たちがポッキーゲームをした可能性は捨てきれない。

 それどころかもっと過激なことをしていたのかも。



「そう言えば、あのウワサってホントなのかな?」



 ここに瑠利花様がいるとは夢にも思わないクラスメイトたちの会話が聞こえる。



「瑠利花様に恋人がいたって話」

「まさか! 根も葉もないゴシップだろ」

「もし本当ならうらやましすぎる! あの瑠利花様の恋人になれたなんて!」

「いつもクールだったけど、恋人にだけは違う顔を見せてたのかも!」

「けど心配。私が恋人だったら瑠利花様の後を追って絶対天国に逝っちゃう……」



 ご安心ください。

 柏木瑠利花の恋人は今のところ天国に逝っていない。

 なぜなら俺がその恋人だからだ。



(いや、正確に言うなら)



 恋人だったらしい。

 ひどく残念なことに俺はそのことを憶えていなかった。

 そう、柏木瑠利花が肉体的に死んで幽霊になったのとは対照的に。



 滝村未来は精神的に一度死んだのだ。




          /再会




「いわゆる記憶喪失です」



 さかのぼること2週間前。

 大学病院の病室で目が覚めた俺に白衣を着た壮年の医者が言った。



「お子さんは記憶のほとんどを失っています」

「そ、そんな……!」



 病室にいた女性が泣き崩れ、隣にいた男性が抱き支える。

 この二人は俺の両親らしい。

 だが彼らと過ごした記憶は何も思い出せなかった。



 こうなった原因は3ヶ月前に起きたショッピングモールの火災事故。

 一〇〇名以上が負傷し、一名が亡くなった大惨事。

 医者の話によると、俺はその火災に巻きこまれ一度死にかけた。

 なんとか命は取り留めたが3ヶ月間も昏睡状態だったらしい。

 そしてやっと目が覚めたと思ったら、記憶を失くしていた。

 

 つまりは精神がリセットされてしまったのである。

 

 ただ、生まれたままの赤ん坊になったわけじゃない。

 目の前にいるのが『医者』で『窓』の外に広がるのが『空』でここが『病院』だという最低限の知識は残っている。

 しかし、自分の名前も経歴も思い出せなかった。

 まるで思い出だけが死んでしまったようだった。



「大丈夫、未来はきっと治るっ」



 母を支えながら、父は気丈に告げた。



「記憶喪失以外は大丈夫なんですよね?」

「はい。検査の結果すこぶる健康でした。今すぐにでも退院できます」

「よかったですわね、未来さん」

「うん。ところでキミどなた?」



 病室にいた五人目の人物に話しかける。

 制服姿のまぶしいくらいに美麗な少女。

 両親の隣にいるってことは、俺の妹か姉だろうか? 



「えっ!?」



 彼女はまるでオバケでも見たみたいに驚愕した。



「……あなた、わたくしが見えるんですの?」

「もちろん」

「では、今はわたくしに話しかけるのはおやめになった方がよろしいですわ」

「どうして?」

「きっと入院が延長になってしまいますもの」



 彼女は聡明だった。 

 その証拠に医者と両親からしたら何もない空間に話しかけていた俺は「幻覚を見てる!」と診断されて様々な検査やカウンセリングを受けることになり、1週間ほど退院が延びてしまった。




          /約束




「やった、お迎えできましたわ!」

 

 転入初日が終わって自宅である一軒家の自室に帰ってから。

 俺のスマホに映った「GET!」の文字とヌイグルミを見て瑠利花が大はしゃぎ。

 オンラインクレーンゲームアプリ。

 ゲームセンターに行かなくても景品をゲットできる優れものである。



「あっ、失礼しました。わたくしとしたことが少々取り乱しました」

「少々?」

「仕方ないでしょう? しのぶさんはわたくしの推しの一人ですもの」

「相変わらずジャ〇プ作品が好きすぎる」



 俺が瑠利花の姿が見えるとわかったときもすごかった。 

 医者と両親が病室から去った後で『鬼〇っ! 今すぐ鬼〇の刃の最終巻を買ってきてくださいませんか!? わたくしまだ読んでいませんの!』と大騒ぎだったっけ。



「ところで、どうかしら?」



 生前隠れオタクだったお嬢様は、ふわりと幽霊らしく宙を舞いベッドに腰を下ろした。



「何か思い出せましたか?」

「いや、ダメだった」



 彼女いわくこのアプリは俺がよく遊んでいたものだったらしい。

 だからプレイすれば何か思い出すかと希望を持ったけど、



「現実はそううまく行かないか」

「『けど、だからこそ面白いんだよ』」

「? それ、アニメか漫画のセリフ?」

「いいえ。未来さんの言葉です。マ〇オカートで1位を取れずぐぬぬっとするわたくしに笑顔でそうおっしゃってくださったんですの」

「色々とツッコミどころありすぎだよね?」



 大企業の令嬢がマ〇カーやってたのもそうだけど、そんなクサいセリフを言うなんて。



「一体俺はどんな人間だったんだ……」

「完璧な殿方でしたわ。成績優秀でスポーツ万能な優等生。お友だちが多く人望にあふれ、前の学校では生徒会長。あだ名はタッキー」

「ヤバいくらい陽キャじゃん!」

 

 とんでもないハイスペック野郎だ。

 きっと幼いころに劇的なきっかけがあって陽キャになる努力を積んだんだろう。



「でなければ神楽宮の転入試験に合格できませんもの」

「憶えてないんだけど、俺が転入を決めた理由って……」

「もちろん恋人であるわたくしと一緒に学院生活を送るためですわ」



 自分が陽キャだったこと以上に信じられない事実だった。

 俺にこんな綺麗な恋人がいたなんて。



「ところで、リビングに行かなくてよろしいのですか」

「? 父さんや母さんと話をした方がいいってこと?」

「一家団欒に加わった方がいいのでは?」

「まだ二人と話すのに慣れなくてさ。二人はすごくよくしてくれるけど、なんだか他人と暮らしてるみたいで……あっ。すまない」

「えっ、なぜ謝るんですの?」

「こんな話キミにするべきじゃなかった」



 瑠利花は俺が記憶を失った火災に巻きこまれて死んでしまった。

 両親と話せないどころか死に別れてしまったはずで……。



「たしかに大事な人たちと会えないのはさびしいですわね」

「瑠利花……」

「わたくしも未来さんが目覚めるまで3ヶ月も推したちに会えず」

「待って。キミの大事な人って二次元の住人なの?」

「毎日がとても辛く生きた心地がしませんでしたわ」

「それを言ったらキミはもう死んでる!」



 ついツッコミを入れた後で、心の中で瑠利花にお礼を言っておく。

 今のは空気が重くなりかけたから冗談を言ってくれたんだろう。

 クラスメイトの評判だと瑠利花はクールで大人びたお嬢様だったらしいけど、こういう気づかいをされると実感する。



「瑠利花は優しいね。不思議とキミとは気軽に話せるんだ。恋人だったせいかもしれないけど、まるでずっと昔から知り合いだったみたい」

「光栄ですわ。ただ、わたくしよりもあなたの方がずっと優しいです」

「? 俺が?」

「わたくしは幽霊。あなたなしでは何もできません。漫画を読むことも、アニメを再生することも、推し活もできません。そんなわたくしを未来さんはこの2週間助けてくださいましたもの」

「俺はただキミにお礼がしたかっただけだよ」



 はっきり言って記憶がないのはとんでもなく不安だったのだ。

 けれど、



『あなたとわたくしは恋人同士でしたのよ?』

『よく一緒にアニメや漫画を観ていましたわ。だからまた二人で観ませんか? きっと記憶を失くした不安も少しはまぎれます』

『未来さんが好きだった作品、わたくしがすべて教えますわ。お礼はいりません。一緒にオタ活してくださることが、わたくしにとって何よりの幸福ですから』 



 病室で再会した日。

 彼女が口にした言葉は春の日の陽だまりみたいに温かった。

 瑠利花の言う通り、彼女と一緒に自分が好きだったという作品を観てるときだけは不安を忘れることができた。

 それに色々な作品を観て理解できたことがある。



「魅力的なキャラクターってみんな過去があるよね」

「? 突然何をおっしゃるんですの?」

「いや、色んな作品を観て思ったんだ。作中でキャラを深掘りするとき、そのキャラの過去の回想シーンを挟むことが多いって」



 過去を知ることで視聴者はキャラクターに感情移入できるんだと思う。

 過去……つまり記憶こそが人間の人格を形作っていると無意識に理解しているから。



「この世界に生まれて、色々な経験を記憶して、人格を形成して、成長する。人間はそうして生きていく。けど俺にはその記憶がない。忘れてしまっている」

「………」

「だから正直な話、俺は今の自分自身に感情移入できないんだよ」

 

 滝村未来が何を考えて、どんな風に生活していたかがまったくわからない。

 生きている実感がとぼしい。

 まるでロボットが必死に人間を演じているみたいだ。



「言うなれば今の俺は瑠利花よりもよっぽど幽霊みたいな存在で……あっ、暗い話がしたいわけじゃないんだ。むしろこれはすごく明るい話」

「えっ」

「だって記憶を取り戻せば、生きている実感を取り戻せるかもしれないじゃないか。だから――」



 瑠利花にはその手伝いをして欲しいんだ、と言ってから。

 俺はポケットから一枚の写真を取り出す。



「これ、たぶん瑠利花とデートにでも行ったときの写真だろ?」



 きらびやかな夜景をバックにした自撮り写真。

 写っているのは幸せそうに笑う二人の少年少女。

 

「前のスマホは火災のときに焼けちゃったらしくてデータが何も残ってなかった。それで色々探したら部屋から一枚だけ写真が見つかったんだ」

「懐かしい。これは初デートのときに撮りましたの。この日はとても楽しかったです。だからこそ――」

「こんな風に笑ってる。俺はまた、こんな風に笑えるようになりたい」



 それには記憶を取り戻すことが必要だと思う。

 経験という名の過去が人間を形作っているのなら。

 記憶を取り戻せば、昔の自分に戻れる可能性はある。

 この写真みたいに生き生きと笑える日がくるかもしれない。



「……驚きました。未来さんはポジティブですわね。記憶喪失になったら絶望して無気力になっても不思議ではないのに」

「かもね。でも俺には希望がある。瑠利花と恋人として生活すれば――」

「わたくしと過ごした思い出が蘇るかもしれない?」

「そういうこと。お礼と言ってはなんだけど、キミが幽霊になってからできなくなったことが実現するようにがんばるよ」

「未来さん……」



 瑠利花は蒼い瞳で俺を真っすぐ見つめてから。



「本当にわたくしの口から思い出を語らなくていいんですの?」

「もちろん。教えてもらうだけじゃ意味がない。それじゃただの情報だ。きっと重要なのは自分で思い出すことで――」

「あなたとわたくしが交際を始めたきっかけも?」

「!」

「どちらから告白したのかとか、キスはもうしたのかとか、男女としてどこまで進んだのかも教えなくてよろしいのかしら?」

「も、もちろん」



 いや正直すごく気になるけど!

 特に男女としてどれくらい進んだのかとか!



「変わりませんわね」



 何がうれしかったのか、瑠利花は頬をほころばせた。



「わたくしから聞くという近道を選ばずにあえて遠回りな道を選ぶなんて。尊敬するほどに努力家なところは記憶を失くしても変わっていません」

「そうかな?」

「ええ。わたくしは未来さんのそういうところを、愛しています」

「………!」

「だからこそ協力しましょう。生きている実感がない。わたくしよりもよっぽど幽霊みたいだとおっしゃるのなら……」



 ゆっくりと、瑠利花は俺の顔に自分の顔を近づけた。

 それこそ恋人にキスをするみたいに。

 あるいは人工呼吸でもするみたいに近い距離で――。

 

「わたくしがあなたを生き返らせてみせますわ」 

 

 死者となったお嬢様は、恋人の蘇生を約束してみせた。

 

 

          /テスト




 それから俺と瑠利花の恋人生活が再開された。

 と言っても、早速問題が起きた。

 実力テストが行われることになったのだ。

 試験問題はかなり難易度が高いらしく、記憶喪失なので赤点も覚悟した。

 幸い瑠利花が「こっそりサポートしますわ」とテスト前に言ってくれたけど、



「なぜすらすら解けるのですか……?」



 英語、数学、物理のテストを難なく突破した後で、隣にいた瑠利花が驚愕していた。



《俺も不思議だよ》



 国語の問題用紙の隅にシャーペンで返答を書きこむ。

 思い出は死んだけど知識の一部が生きていることが原因かもしれない。



(だから教わった憶えのない単語や数式を知っていて、解答を導き出せる)



 ただ、こんな知識よりも家族や瑠利花との思い出を憶えておきたかったので……人生うまく行かないものだ。



「せっかく答えを教えて差しあげようと思ったのに。――こんな風に」

「!?」

 

 突然、瑠利花が後ろから俺の体を抱きしめてきた。

 テスト中にもかかわらず、お嬢様は細いあごを俺の肩に乗せて、



「――問6の答えは、Aです」

 

 うっとりするような甘いソプラノで記号問題の答えをささやく。

 俺をからかってるんだろうけど、抗議はできなかった。

 下手に騒げばまた幻覚を見てると思われて病院送りである。



「――恥ずかしがらないで? 二人きりのときはよくこうしていましたの」



 背中にふくよかな双つのふくらみを押しつけながら微笑む瑠利花。

『よくこうしていた』って……本当ならうらやましすぎるぞ、俺。



「――問7の答えはG……失礼、Bです。Gはわたくしのおバストのおサイズでした」



 みんなが真剣にテストを解く中で暴露される驚愕情報。



「――誰にも見えていないのですから、好きなだけ甘えてもいいですわよね?」



 この子に羞恥心はないのか!

 周囲には認識されてないと頭ではわかっていても、真昼間の教室で恋人と密着してるって状況にたとえようのない背徳感が湧き上がって……。



《あれ? 問6の答えはCじゃない?》

「………っ!?」

《問7の答えもDだよね?》

「くっ……さすが未来さん。聡明ですわね」

《もしかして、あえて間違った解答を教えた?》



 問いただすと、瑠利花はすねたように薄桃色の唇をツンととがらせた。



「このままでは全問正解しそうなんですもの」

《結構なことじゃないか》

「驚愕されますよ? 『全教科満点!? まるで瑠利花様が取り憑いたみたい!』と」

《その返答は勘がよすぎる》

「『勉強を教えて~!』と女の子たちにせがまれてしまうかも。以前の未来さんは全国模試上位の成績で大変モテましたし」

《信じられない陽キャエピソードだね》

「本当のことです。もしまたそんなことになったら……」

 

 瑠利花はかすかに頬を染めながら、おずおずと、



「……二人きりで過ごす時間が減ってしまいますわ」



 急に恥ずかしがるお嬢様が可愛すぎて俺は返答できなかった。

 瑠利花の解答は間違ってたけど、その仕草は恋人として一〇〇点満点だった。

 

 

          /心霊現象




「ホラー映画を観ましょう」



 ある日の放課後。俺の部屋で恋人は高らかに宣言した。



「いいけど、ホラー好きなの?」

「ええ、とても。未来さんともよく一緒に観ましたわ」

「じゃあ俺も好きだったってことか」

「いいえ。あきらかに苦手でした。それでもわたくしの前で格好つけて『ぜぜぜ全然怖くないよ』と震えている姿が大変お可愛かったです」

「悪魔みたいなことを言うな」

「あら。むしろ悪霊では? わたくし、死んでますし」



 さぁ早く早く、と瑠利花はアマプラで映画を選ぶようにせがんだ。

 上映会が始まっても「怖かったら今夜添い寝してあげますわね」と余裕たっぷり。 

 いつも彼女は自分の屋敷に帰って眠っていたけど、幽霊なら恋人(高校生)の両親が在宅中でも問題なくお泊まりできる。

 ただ、こんなに綺麗なクラスメイトと一夜を共にしたら間違いなく眠れない。

 

「――ああ。よかった。この映画、全然怖くない」

「えっ」

「? もしかして瑠利花、怖い?」

「いいえ。それより、おかしいですわね。未来さんは子供向けのホラーですら怖がっていたのに」

「そんなに?」

「『子供のころに山で肝試しをして遭難しかけたんだ。ホラーを観るとそのときのトラウマを思い出す』とおっしゃって――」

「ならおかしくないでしょ。俺、記憶喪失だし」

「あっ」

「トラウマなんか思い出せない。だから怖くないんだよ」

「そ、そんなバカな……!」



 お可愛い未来さんが見られると思ったのに……! と銀髪を揺らして悔しがる瑠利花。



「ん?」



 そこでポケットに入れていたスマホが振動。

 なんだろうと確認した瞬間――背筋が凍った。

 まるで血でもぶちまけたみたいにスマホの画面が赤く染まっていたのだ。



「………っ」



 全身に鳥肌が立つ。

 タップしても何も反応せず、ただ真っ赤な画面のまま固まるスマートフォン。



(まさか、心霊現象?)



 恐る恐る見つめていると、赤一色だった画面に不吉な黒い文字が浮かび上がった。



【ぜぜぜ全然怖くありませんわ】

「………」



 この口調。

 ひょっとして……。



「瑠利花、やっぱり怖い?」

「なっ!?」



 瑠利花は「バカなことおっしゃらないで」とクールに否定したが、スマホには【なぜお気づきに!?】の文字。

 もしや、念写というヤツだろうか?

 心の中で念じたものを物体に映し出す超常現象である。



(よかった。ホラー映画につられて悪霊がきたわけじゃなかったのか)



 いや、この現象は隣にいる幽霊が無意識にやってるんだろうけどさ。



【……なぜ? ここまで怖く感じる理由がわからない……】

「瑠利花がホラーを苦手になったのは幽霊になったからかもね」

「えっ」

「生きてたころは幽霊なんて存在しないって思ってた。けど幽霊になってその根底が覆された。だからオバケを身近に感じて怖くなったんだよ」

「いいえ。わたくし、ホラーが大好きですわ」



 冷静ぶるお嬢様だが、スマホには【さすが未来さん的確すぎる推理けど今は感心できないオバケ怖い~!】と涙ながらのメッセージ。

 瑠利花には悪いけど、意外な弱点に微笑ましい気持ちになってしまった。

 ただ、上映会が終わった後で。



「わたくしはそろそろ帰りますわね」【今夜はお泊まりしたい……】

「えっ!?」

「あら。どうかなさいました、スマホを見つめて」【手をつないで一緒に眠って……】

「いや、瑠利花」

「用がないのでしたら帰りますよ? 早く実家のベッドで眠りたいのです」【お願い引き留めて~! まだ怖いの~! とても一人で眠れそうにありませんの~!】

「………。えっと、今夜は泊まってくれない?」

「えっ」【えっ!?】

「ホラーを観たせいか一人で眠るのが怖くてさ」

「――あら。未来さんったらやっぱり怖がりさん」【さすが未来さん! まるでわたくしの胸の内を悟ったようなお気づかい!】



 恋人と一夜を過ごすのは初体験。

 しかも二人が眠るのは同じベッド。

 彼女いわく「恋人同士なら問題ありませんわ」とのことだったが、



「問題大ありだ……」



 隣には「なんだか安心します」と早々に夢の世界に旅立った瑠利花の寝顔。

 お可愛すぎる恋人と添い寝という現実に俺はしばらく寝つけそうになかった。

 

 

          /親友




 恋人生活は学院でも続いた。 

 昼休み。誰もいない屋上。

 空は快晴。気持ちのいい初夏の風。隣には幽霊。

 瑠利花のお気に入りの小説(意外にも宮沢賢治。漫画だけじゃなく文学作品も好きらしい)のページをめくりながら昼食を取ってると、



「あれ、滝村くん、瑠利花みたいなことしてるね」



 クラスのギャルっぽい女の子、瑞原みずはら鳴めいさんに話しかけられた。



「鳴とは仲良くしてあげてください。彼女はわたくしの幼なじみ。子供のころから親友同士で、彼女の勤め先でよく一緒に遊びましたわ」



 懐かしむような瑠利花の口調。

『勤め先で遊んだ』という表現が気になって、スマホで質問しようとしたが、



「そういやうちのクラス、異常だって思わなかった? 死んで3ヶ月もたつのに宗教みたいに瑠利花を崇めててさ」

「えっ――」

「私は絶対あんなことしない。瑠利花を崇めるなんて、気持ち悪すぎる」

「――待って。その言い方はいくらなんでもひどいんじゃないか?」

「はあ? 転入生なんかに瑠利花の何がわかるの?」

「たしかに俺は転入生だけど、柏木さんは絶対にいい人だと思う」

「!? な、なんでそこまで迷いなく断言して……!」

「間違ってなんかいないはずだ」

「………っ!」



 瑞原さんは俺の制服のネクタイを乱暴につかんできた。



「落ちついて」



 ダメだ、瑠利花。瑞原さんにキミの忠告は聞こえてなくて――。



「落ちついて未来さん。話していませんでしたが、あなたは中学時代に空手の全国大会で優勝経験がありますの」



 えっ。



「前にわたくしが路地裏でヤンキー五人にからまれたときも返り討ちにしていましたわ。あのときはとても頼りになったのですが、今はどうか拳を振るわないで。ヤンキーたちのように鳴がオラオララッシュを喰らうのは……」



 どれだけハイスペックだったんだ俺!

 ただ、どうして瑞原さんは突然ひどい言葉を……。



「いい人だったことは私が一番知ってる! でも友だちは崇めるものじゃないでしょっ」

「――未来さん」

「瑠利花のバカっ。突然死んじゃうからこんなことになるのよ。おかげでお別れも言えなかったじゃんっ」

「――鳴を怒らないであげてください。急に乱暴なことをしたのはきっと動揺していただけ。鳴はとても優しい子で……」

「きゅ、急に取り乱してごめんっ。ただ、滝村くんがここで宮沢賢治を読みながらゴハン食べてるのを見たら瑠利花のこと思い出して……あの子もよくこんな風にゴハン食べてて……わ、私も本が好きだから、ときどき二人で読書しながら昼休みをすごして、互いにオススメの小説とか教え合ったりして……っ」

「――わたくしにとって一番の親友でしたの」



 瑠利花は涙をこらえる瑞原さんの肩に手を伸ばした。

 反射的になぐさめようとしたんだろう。

 けどその右手が瑞原さんに触れることはできない。



 柏木瑠利花はもう死んでいる。



「えっ、滝村くん?」



 だから俺は、瑠利花の代わりに瑞原さんの肩に右手を置いていた。

 瑠利花が幽霊になってからできなくなったことが実現するようにがんばる。

 自分が言った言葉を裏切りたくなった。

 恋人の親友の涙を止めたかった。

 

 そして何より、親友をなぐさめられなくて悲しむ瑠利花を見たくなかったんだ。



「――ありがとう。滝村くんって優しいね」

「わたくしからもお礼を言いますわ。ありがとうございます、未来さん」



 二人にお礼を言われてうれしかった。

 でもそれ以上に俺は瑠利花が親友からとても慕われていたと知ることができたのが、ただただうれしかった。




          /方法




「「5、4、3、2、1、0!」」



 瑠利花と出会ってから数週間がたった日。

 自室のベッドに並んで座りながら、俺たちは仲良くカウントダウンをしていた。

 楽しみにしていた漫画の新シリーズが始まる日がきたのだ。



 その漫画は第1部が完結ずみで、とんでもない傑作だった。

 待ちに待った第2部がWEB公開される前夜。

 朝まで待てず日付が変わる深夜0時にスマホ片手に待機していたのである。



「すさまじい一話だった、文句なしに面白かった……!」

「ええ! 冒頭からやりたい放題! 格好よすぎる新キャラ! またまた新しい推しが見つかってしまいましたわ!」

「キミって相変わらず幽霊なのに生き生きしてるよね」

「未来さんも以前よりもお顔に活力が戻った気がしますわ」

「瑠利花のおかげだよ。ありがとう、面白い作品を教えてくれてさ」

「未来さんにそう言ってもらえるほど光栄なことはありません」

「そう?」

「わたくしは一人で作品を楽しむのが好きです。けれど気心知れた方と作品の楽しさを共有するのも大好き。とある人のおかげで、そう思えるようになりましたの」

「とある人?」

「――はい。わたくしにとってかけがえのない方です」



 幸せそうにする瑠利花だが、何かに気づいたように「あっ」と顔を曇らせた。



「……ごめんなさい。わたくし、ついうれしくなってはしゃいで」

「いいんだよ」



 申し訳なさそうにする彼女をなぐさめる。

 そう、瑠利花のおかげで俺は誰かと一緒にオタ活する楽しさを知ることができた。

 だけど――過去の記憶はまったく戻らなかった。

 瑠利花はそのことを気に病んでいるのだ。



「大丈夫。いつか思い出せるよ。これからはもっと色々な方法を試すのもありかもしれないしさ。たとえば俺たちが昔行った場所を巡ってみるとか」



 彼女をなぐさめるために強がったが、正直いつまでも記憶を思い出せないのはひどく不安だった。

 それは瑠利花といるときも一緒。

 彼女は俺を好きだと言ってくれる。

 愛してくれている。



 でも俺にはその気持ちに応える自信がなかった。

 

 誰かを好きになること。かつての滝村未来だったら当然のように抱いていた感情を抱くことが、どうしてもできなかったのだ。



(もちろん瑠利花と一緒にいるのは楽しい)



 心が落ちつく。

 雪の降る寒い日に火のついた暖炉の前にいるような、幸福な温かさが胸を満たす。

 けれど、それが瑠利花を好きだということなのかはわからなかった。



「未来さんのおっしゃる通りかもしれませんわね」

「えっ……」

「『色々な方法を試す』ということです」

「もしかして、何かいいアイディアを思いついた?」

「はい。今夜はもう遅いので明日お話ししますわ。――では、おやすみなさい」



 そう告げて、瑠利花は部屋の窓をすり抜けて去っていった。

 しかし――翌日、俺が彼女のアイディアを聞くことはできなかった。 



 死んだ恋人は、まるで幻みたいに俺の前に姿を現さなくなった。




          /屋敷




 瑠利花が俺の前から消えてから1週間がたった。

 彼女がいない不安を押し殺しつつ様々な場所を探したが見つけることはできなかった。

 そして最後にたどり着いたのが――街外れにある巨大な洋館。 

 これまた大きな門の表札には「柏木」という文字。

 そう、柏木家の屋敷だ。

 困り果てた俺は瑠利花が生まれ育った場所を訪れていた。



(もう、ここしか思いつかない)



 仮説を立てるなら、何らかの事情で屋敷の敷地内から出られなくなってしまったとか。

 そうであってくれ。

 胸が不安で潰れそうになりながら願う。

 俺は――彼女に見捨てられたかもしれないのが怖かった。

 瑠利花はいつまでも記憶を取り戻せない恋人に見切りをつけたんじゃないだろうか?

 

(俺がいなければ瑠利花のオタ活は成立しない)

 

 けど、たとえば俺以外に幽霊が見える人間を見つけたとしたら?

 そうしたらいくら恋人だろうと記憶を失くした俺に必要価値はないのかも……いいや。違う。

 きっと彼女は――。



「――こっちですわ」



 不意に後ろから声をかけられて、驚きながら振り向いた。

 夕日に照らされた道路にたたずんでいたのは白いワンピースを着た銀髪の幼い少女。

 どことなく雰囲気が瑠利花に似ていた。



「……瑠利花の妹さん?」



 訊ねた途端、彼女は駆けだした。

 反射的にその小さな背中を追いかける。

 少女は屋敷の裏側にたどり着いたところで、塀の横に立った電柱を指さした。



「………っ!?」



 直後、頭を金属バットでフルスイングされたような痛みが襲ってきた。

 思わず地面に片膝をつくほどの頭痛。

 激しい痛みにさいなまれながらも、俺は奇妙な違和感を味わっていた。



(この電柱……)



 前にも見たことがある。

 痛みをこらえながら再び前を向くと、少女は幻覚みたいにいなくなっていた。

 まさか、この電柱を登って屋敷に入ったのだろうか?



(普通に訪ねても入れてもらえるかはわからない。それなら……)



 覚悟を決め、周囲に人気がないことを確認してから、電柱を登る。

 高い塀を乗り越えると、足元に感じたのは芝生の感触。

 裏庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。

 手入れの行き届いた素晴らしい庭園。

 でも、見とれている余裕はなかった。

 再びの違和感デジヤヴ。

 ――俺はここに来たことがある。



「ぐうっ!?」



 一歩踏み出すだけで頭痛が激しさを増す。 

 頭蓋骨の中身を丸ごとミキサーにかけられている気分。

 それでも歩く。

 彼女に会いたい。

 この先に進めば会えるはず。

 目指すは裏庭の隅にある大きな樫の樹。



「……暑い」



 頭が割れそうな痛みと容赦なく照りつける日差しのせいで汗が止まらない。

 思わず手で拭おうとして、ハッとした。

 今は夕方だったはずだ。

 なのに天に広がるのは澄み切った青空。真っ白な入道雲。灼熱を謳歌する蝉たちの歌声。風に乗る夏草の香り。まぎれもない真夏の空気。

 その中で――。



「お待ちしていましたわ」 

 

 樫の樹の下。

 さきほどの少女が幻影みたいに現れた瞬間、俺は意識が薄れるのを感じた。




          /過去




 それはまだ僕が幼かったころの思い出。

 小学校の夏休みに行われた、クラスの男子たちとの度胸試し。

 街で一番大きな屋敷に忍びこもうということになったのだ。そして勇敢な冒険者を決めるジャンケンに負けた僕は一人電柱を登り屋敷の裏庭に忍びこんで、



「あなた、どなた?」



 彼女と出会った。

 同い年ぐらいの銀髪の少女。

 彼女は裏庭にある大きな樫の樹の陰で静かに涙をこぼしていた。

 侵入がバレたことに焦りつつも、僕はつい彼女に訊ねてしまった。



「どうして泣いてるの?」

 

 素直な性格だったんだろう。

 彼女は涙をぬぐいながら答えてくれた。

 自分の祖父はとても躾けが厳しくていくつもの習い事を強要されていること。そのせいで友だちを作るヒマもないこと。生きてても何も楽しくなんかないこと。まるで毎日が死んでるみたいだって思っていること……。



「いっそ、幽霊になりたい」



 そうすればおじいさまに叱られずにすむのに……と幼い少女は再び涙をこぼした。



「そんなこと言わないで!」



 僕が彼女をはげました理由は一つ。

 涙を流す彼女に共感したからだ。

 当時の僕は気弱な泣き虫だった。学校でいじめられることも多かった。ここに入る人間を決めるジャンケンも僕が負けるまで行われた。

 僕は彼女の涙を止めてあげたかった。

 だから自分の生きがいを教えることにしたのだ。



「よかったら、読む?」



 鞄の中にあったこの国で一番有名な少年漫画雑誌を彼女に手渡す。

 きっとこれを読めば世界が変わる。泣きたいようなことがあっても笑えるようになる。だって僕がそうだったから。

 幼い僕はそう信じて疑わなかった。



「わたくし、漫画というものを読んだことがなくて」

「ならぜひ読んでみて!? もし面白かったら今度コミックスも持ってくるから」

「ホントですの?」

「もちろん! キミが生きてても何も楽しくない、毎日が死んでるみたいだって言うんなら――僕がキミを生き返らせてみせる!」



 そうして二人だけの夏休みが始まった。

 僕は何度もこの屋敷に忍びこんだ。彼女は僕が貸した漫画を気に入ってくれて、もっと色々な作品を教えて欲しいと頼んできた。

 いじめられていた僕に漫画の魅力を語る相手なんていない。

 だから彼女はすぐにかけがえのない友だちになった。

 誰かと一緒に好きなものについて語り合う楽しさを――初めて知ったんだ。



「お待ちしていましたわ!」

「待たせたね、××ちゃん」

 

 樫の樹の下で出迎えてくれた彼女に、すっかり日常となったあいさつを交わす。

 僕らはときには互いの悩みも打ち明けた。



「漫画はとても面白いですけど、おじいさまの前では読めませんの」

「だったら読んでも叱られない小説を教えるよ! たとえば宮沢賢治! 銀河鉄道の夜がすごくオススメで……あっ、小説ばっかり読むのはよくないか」

「えっ、なぜ?」

「えっと、僕みたいに学校でからかわれるかも」

「それはあなたが優しすぎるせいですわ! からかう相手が悪いのです。もっと自分に自信を持って……あっ、よろしければ護身術を教えましょうか!? いじめっ子なんて5秒でオラオラですわ!」

「あはは。その言葉づかい、この前貸した漫画の影響を受けたでしょ?」



 でも、僕も彼女から影響を受けていた。

 彼女は名家の令嬢で成績優秀な優等生。

 僕は少しでも彼女にふさわしい人間になりたかった。いじめられっ子じゃなくて彼女を守れるような人間になろうと決めた。



 友だちを増やそうとした。

 勉強や運動をがんばって成績を上げようとした。

 内気でいじめられっ子な性格を変えようとした。

 もちろん最初は絶望的な結果ばかり。でもひたすら努力を続けるうちに少しずつ変わっていったんだ。



 秋、冬、春、再び夏と季節が一周するころ。

 友だちが増えていた。

 成績は学年で上位に入った。

 いじめられないよう自信ありげに振る舞うことを憶えた。

 そう、すべては彼女のため。



「決めたんですの」



 そして変わったのは僕だけじゃない。

 ある日、彼女は僕に約束してくれた。



「あなたの前ではもう泣いたりしません。あなたのおかげでわたくしは変われました。だからもしいつか――あなたが困ることがあれば、わたくしが助けてみせますわ」

 

 二度目の夏休み。

 出会った日よりほんの少し大人びた彼女が樫の樹の下で泣くことはもうない。

 涙の代わりに彼女の顔を彩るのはとっておきの笑顔。

 

 その微笑みを見た瞬間、僕はやっと理解した。

 

 ああ。

 僕は彼女のことが――。

 

 

          /蘇生




「おはようございます、未来さん」



 目を開けた瞬間、視界に映ったのは見知らぬ天井。

 お高いホテルの客室みたいに立派な部屋。

 大きなベッドに寝かされた俺の顔を、瑠利花がのぞきこんでいた。



「憶えていますか? 裏庭で倒れたんですよ? 軽い貧血だったようですが」

「………」

「本当にごめんなさい。倒れてしまうのは想定外でした。鳴があなたを見つけてくれてよかったですわ」

「………」

「実は、瑞原家は代々わたくしの家の使用人をしていまして。学院では隠していましたが鳴の職場はこの屋敷。そしてわたくし直属のメイドでもありましたの」

「………」

「鳴はあなたを見つけてすぐにこの客室にかくまってくれたのですわ。忍びこんだことへの弁解は考えてあります。鳴がこの部屋に戻ってきたら話してあげてください」

「………」

「……あの、未来さん? なぜ何もおっしゃってくださらないんです? やっぱり、わたくしのことを怒ってらっしゃるのですか……?」

「そんなことないよ。瑠利花のこと、信じてたから」



 俺を見捨てたんじゃない。

 姿を消したこと自体が彼女が言った『方法』なんじゃないかって。



「瑠利花はあえて俺の前から消えたんでしょ? そして俺をこの屋敷に忍びこませようとした。そうすれば記憶が戻るんじゃないかって考えたんだ。だって、俺とキミはそうやって出会ったから」

「!? 未来さん、では――」

「うん。ほんの少しだけど思い出せた。キミはあの夏の日の約束を果たしてくれたんだね。困った俺を助けてくれた。昔俺がキミを助けたときと同じように、俺に自分の生きがいや誰かとすごす楽しさを教えてくれたんだ」



 ベッドから体を起こして、彼女の瞳を真っすぐ見つめながら、



「待たせたね、ルリちゃん」



 あの夏の日の日常だったあいさつを口にした。



「――ええ」



 瑠璃色の瞳が潤む。 

 瑠利花は泣き笑いの表情を浮かべながら、涙にぬれた声を振り絞った。



「お待ちしていましたわっ」



 ポロポロとこぼれる涙。

 彼女はそれをぬぐおうともせずに、俺の体に抱きついてくる。



「未来さんはずるいですっ」

「いきなり何を言うんだ」

「約束したのに……あなたの前では泣かないって……それなのに……!」

「すまない」

「あなたが昏睡状態から目覚めたときも、うれし涙をごまかすために鬼〇の最終巻をせがんだのにぃ……!」

「そのごまかし方は瑠利花らしすぎる」

 

 泣かせるつもりはなかったんだと涙が伝う彼女の頬に触れる。

 俺だけが瑠利花に触れられる。

 その事実を今までで一番うれしく感じた。

 恋人の涙をぬぐうことができたから。



「責任は取るよ」

「……責任?」

「泣かせちゃった分、これから先キミのことをたくさん笑顔にする。記憶を取り戻したっていってもほんのちょっとだけど、それでも思い出せたから。滝村未来は――」



 柏木瑠利花に恋をしてるって。

 なんて、格好よく告れればよかったんだけど。



「未来さん?」



 きょとんと不思議そうに首をかしげる瑠利花。

 可愛い。

 瑠利花が好きだ。大好きだ。好きだからこそ心臓が壊れそうなくらいに騒いで口にすべき言葉がなかなか出てこない。

 だけど俺はそのことがどうしようもなくうれしかった。

 抱き合い触れ合ってるせいか余計に胸が高鳴る。

 きっとこの高鳴りこそが……。

 

 ずっと探していた、生きている実感なのだから。
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2、作家名
綾里けいし
AYASATO KEISHI

参加作品
魍魎探偵今宵も騙らず
魍魎探偵今宵も騙らず
 とんからりんとん、からんからん、ぴしゃん。

 とんからりんとん、からんからん、ぴしゃん。

 

 奇妙な音が、軽快に鳴る。提灯の並ぶ宵闇の中へ、不思議なひびきは明るく広がった。それでいて調子はずれの歌のごとく、その音色は悲しげでもある。

 とんからりんとん、のくりかえし。

 それに惹かれたのか、ひとりの青年が足を止めた。

 彼はくたびれたスーツを着て、山高帽をかぶっている。骨のめだつ手にはキセルが持たれていた。その先からは細く煙が流れている。くいっと、青年は整った顔をかたむけた。



「おや、まあ」



 そう言う視線の先には、不思議な音の出どころがあった。

 見世物小屋の店先に、アサガオ形のトランペットと木製の歯車、車輪がいっしょくたにされた、ヘンテコリンな手回しオルゴールが置かれている。調教された猿の手で回されて、それはずっと同じ調子で歌をつむいだ。

 

 とんからりんとん、からんからん、ぴしゃん。

 とんからりんとん、からんからん、ぴしゃん。

 

 音で飾られたうえに、見世物小屋は色とりどりのペンキで塗られている。だが、全体を囲う板はといえばペラペラだ。なんともうら寂しく、うさんくさい風情がある。入り口を塞ぐ分厚い幕の隙間からは、今日の出し物がちらり、ちらりとと覗いていた。ぎらりとした鱗。たらりと垂れた乳房。海藻のようにからまった髪。そして濃くも生臭い魚の香り。



「人魚、か……」



 カチリッ、青年はキセルを噛んだ。

 ひと吸い、ひと吹きして、ひと言。



「今日も、人は騙かたっているねぇ」



「おい、デクノボー! かわいい俺様が見ていないと、おまえってやつはすぐにこれだよ。そのまま、ぼーっと眺めてたらよぅ!、モンドームヨウで、見物料をとられるんだぜ!」



 少年のような口調で、中性的な声が言った。だが、それを口にしたのは十四歳程度の少女だ。彼女は黄色の布地に、茶のひまわりが描かれた着物姿で、背中には紅い帯をリボン風に大きく結んでいる。長い髪は白。おおきな目は紅。服装は色鮮やかなのに体には色素がない。

 顔立ちはおそろしく美しい。だが、見る者に混乱を招くような立ち姿だった。

 彼女の忠言に、青年はうむとうなずく。



「それは困るねぇ。なにせ、ほら、僕には人の金の持ちあわせはないもんでして」



「ほれ見たことか。ならさ、俺様についてきな! こういうときは逃げるが勝ちよ!」



 パッと、少女は青年の手をかっさらった。獣じみたすばやさで、彼女は勢いよく駆けだす。少女の下駄のカラコロ鳴る音と、男の革靴のカッカッと鳴る音がかさなった。

 二人が離れた直後のことだ。見世物小屋の中からあこぎそうな店主がでてきた。

 間一髪、少女と青年は難を逃れる。太い腕を振り回しながら、店主は大声で叫んだ。



「バッカやろうが! うちの人魚を見たなら金を置いてけ! ただじゃねぇんだぞ!」



「やなこった! そっちこそバカやろうでぃ! 小屋に入ってもいない客からふんだくろうなんざ、でっぷり重たい腹ん中が黒いぜ! それに、その人魚、どーせ偽物だろう!」



「本物の人魚は高級品なだけあって、あそこまで嫌な魚の臭いはしないからねぇ」



 走りながら、青年はのったりのたのた口にした。だが、声の調子に反して、彼は駆けるのが速い。あれよあれよという間に二人は店主を置き去りにした。そうして足を止める。

 屋台街は遥か後方。気づけば、あたりは濃い闇に包まれていた。

 ここらへんは、道も十分に舗装されていない。石ころを蹴っ飛ばして、少女は言った。



「よぅ、皆崎みなさきのトヲルよう!」



「なんだい、ユミさんや」



「今回は、その人魚から手紙がきたんだろう?」



 人魚からの手紙。さも当然のごとく、ユミと呼ばれた少女はそのことを問う。

 皆崎トヲルと呼ばれた青年もまた、あっけらかんと応じた。



「ああ、あなたさんの言うとおり、人魚からの手紙をもらいましたよ」



 手にたずさえたままのキセルを、彼はガチリと咥える。走りながら振っていたというのに火は絶えていなければ、灰もこぼれてはいない。皆崎はひと吸い、ひと吹き、ひと言。

 



「今にも食われそう……とのことでして」



 

 人魚から救いを求める手紙を送られる。

 皆崎トヲルにとってそれはなんら異常事態ではない。それどころか、この世にはもっと摩訶不思議なことがあふれていた。その中のきれっぱしをあつかうのが、皆崎のやくわりだ。

 

 人は、妖怪は彼をこう呼ぶ。

『魍魎もうりょう探偵』、皆崎トヲルと。

 

    ***



『魍魎』とは、山や石や水に宿るもののことを指す。だから、正確には『妖怪』探偵が本当だ。けれども、『字面に威力が足りねぇや。もっと複雑怪奇なほうがいいぜ』という、ユミの希望により、皆崎は『魍魎探偵』を名乗ることとなった。

 もちろん、そんな職業が成立する時点で、ちょっとばかし世がおかしいのである。

 人魚――水妖が人間に手紙をだすなど昔は夢幻の御伽噺おとぎばなしのただの伝説。あるいは誰かの妄想だった。つまり、あってはならないことである。だが、常世とこの世が『ひょんなことから』繋がり五年――幽霊も妖怪も幻獣も精霊もあらゆる怪異は人間の隣人と化した。

 日本にだけ起こったこの珍事を前に、時の政府は見事に麻痺。今、この国は終戦直後くらいに逆戻りしたような状態にある。夜市が立てられ、人々が粥をすすり、一部の富豪は憂さ晴らしの道楽に奔る。そしてあちらこちらのチンドン騒ぎには時折、妖怪が巻きこまれた。

 妖怪は時に人を食らう。だが、それ以上に、人間は悪食だった。

 あちこちで妖怪絡みの犯罪は後を絶たず、人はさまざまな嘘を騙った。

 妖怪の売買、捕食、殺害行為――そして妖怪を使った犯罪も様々に起こされた。やれこれは妖怪の仕業だ、あれも妖怪の仕業だと、犯罪者は嘘を吐つく。それらの事件は、たいがい人の手には余る怪異とセットだ。そのため、元々国家権力が崩壊状態にあることからも、警察の力には頼れず、専門の解決家が求められた。



 今回も、また、そうだろう。

 カランカランカランカラン。




「すみませんです。よい晩で。どなたかいらっしゃいませんでしょうか?」



 声をはりあげ、皆崎は鉄門に下げられた鐘を再び鳴らした。カラカラカラン。虚しい音がひびく。遠くに見える屋敷は静かだ。人の応える気配はない。ユミは腕まくりをした。



「ええい、めんどくせぇ! おい、皆崎のトヲルよう! いっそ押し入っちまおうぜ!」



「ユミさん、あなたさんねぇ。ちょっと気が早いですよ。そいつは悪い癖ってもんです。我々みたいなのは招かれて入るのが一番……おっと」



 そこで、ギギッと目の前の門が開いた。

 暗がりから、着物姿の女がひょっこりと姿を見せる。粉白おしろいの塗られた顔は美しい。結いあげられ、象牙の櫛で飾られた黒髪から、毛皮を巻いた肩を通って爪先まで、たんまりと金がかけられていそうな外見だ。見るからに、上流階級に所属する女である。

 皆崎は、山高帽を胸に押し当てた。意外そうなおももちで、彼は口を開く。



「おやおや、これは驚きましたね。メイドさんか、女中さんの出てくるのが、こういった屋敷の定石ってもんだと、僕なんかは思うのですが?」



「使用人は存在がなにかとわずらわしく、全員に暇をだしました……そういうあなたは、誰なのです? 当家になんの御用でしょう? もしや、主人の知り合いで?」



「いやあ、僕はね。ご主人の知りもしないような生き物でして」



「あら、ならば物売り? 歌唄い? 夜語り? お帰りなさいな。当家には必要ありません」



 そう、夫人はシッシッと手を振った。彼女は鉄の門から離れようとする。

 細く、女の自信をたたえたしなやかな背中。それに、皆崎は呼びかけた。



「まあ、お待ちなさいや。僕が頼まれたのはあなたさんじゃない。人魚です。人魚に頼まれごとをしたのです。『今にも食べられそうだ。助けて欲しい』と。水妖の求めるところ、人の手には負えない異常事態が起きているはずだ……ああ、それなのに、それなのに。ここではなにも起きていないと、あなたさんは言い張るおつもりで?」



「ええ……なにも、なにも起きてなどおりませんもの」



 ことり、女は首をかたむける。白く塗られたその顔は、まるで闇に溶けかけた半月だ。

 分厚い唇に、女はふてぶてしい笑みを浮かべる。



「本当に、ほほっ、異常など。ほほっ、なにも」



 ガツンと、皆崎はキセルを噛んだ。

 そうして、ひと吸い、ひと吹き、ひと言。



「騙るねぇ、人間は」



「ええ? あなた、なにをおっしゃって」



「――――『魍魎探偵、通すがよかろう』」



 不意に、皆崎は言い切った。今までのどこか眠たげな口調とはまるで違う。命令するかのごとき物言いで。瞬間、夫人はぐるりと目を回した。ぐる、ぐる、ぐるぅり。あちこちに眼球は向く。そうして混乱する彼女へと、皆崎はふぅっと細く灰色の煙を吹きかけた。



「僕を通すこと。それすなわち、必ずあなたさんのためにもなるんです。行きはよいよい。帰りはあなたさんの知ったことじゃない。さあ、さあ、僕を通すがよかろう」



「あ……い」



 かくりかくりと、うなずき、夫人は門を開いた。どうぞと、彼女はお辞儀までする。

 あーあと、ユミは頭の後ろで手を組んだ。呆れたように、彼女は頬をふくらませる。



「ほぅらけっきょくこうなるんじゃねぇか! だったら勝手に押しいったって似たようなもんだったろ! 皆崎のトヲルがひと吹きすりゃ、揉めようがそれでしまいなんだぜ!」



「ユミさん、乱暴を前提にするのはよくありませんよ。僕はそういうのは好きません」



「ケッ、よく言うぜ、トーヘンボク!」



 バンッとユミは皆崎の背中を叩いた。結果、自分の掌のほうが痛かったらしい。きゃあっと彼女は飛びあがった。やれやれと皆崎は肩をすくめる。そしてカツンと歩きだした。

 邸内へと向かう、くたびれた背中。

 それに夫人の声が追いかけてくる。



「あっ……でもぉ」



「なんでしょうか、ご夫人」



「人魚でしたよね……人魚、人魚、人魚でしたら」



 そして、夫人はツィッと笑った。

 妙な猫撫で声で、彼女は続ける。

 



「一年前に、家族みんなで食べてしまいましたよぉ」



   ***



 銀糸で唐草模様の縫われた壁紙。そのうえに、金の額縁がかかげられている。

 中にはバーンッと墨絵に似たものが飾られていた。人間の上半身に魚の下半身。豪快かつどこかマヌケな、人魚の魚拓である。この家の主人が釣ったあと記念にとったらしい。

 うへぇっと、ユミは舌をだす。



「魚じゃねぇんだぞ」



「まあ、人魚は食べられる水妖ですからね。しかも美味で、副次効果のオマケもつく。マグロなんかよりは、立派な釣果と言えなくもないですよぉ」



「んじゃ、クジラと比べたらどうなんでぃ」



「ユミさん、クジラを人間の手で釣れたらねぇ。あなたさん、そりゃすごいですよ」



 のんきものんきに二人は『人魚の魚拓』を前にあれこれ言葉を交わす。皆崎たちは階段踊り場にいた。そのとき一階から声がかけられた。夫人改め――立蔵美夜子たちくらみやこ夫人である。



「皆崎様、ユミ様。家族がそろいましてございます」



「おー、そうですか。あなたさん、わざわざすいませんです。ご苦労様です」



 皆崎は応える。首を伸ばして、ユミも一階を覗きこんだ。

 緋色の絨毯のうえには、美夜子夫人の他に数名が集まっている。

 口髭の立派な、肥満気味の主人、成人済みの息子、片方は車椅子に乗った双子の姉妹。

 両腕を広げて、美夜子は家族のことを誇らしげに示した。



「こちらに集うはみながみな、人魚の肉を食べたものたちでございます! ですが、言葉だけでは信じがたいことでしょう! 今から、その事実をお見せいたします」



「いやあ、嫌な予感がするので、僕は見たくないなぁ」



「まあ、まあ、まあ、ご遠慮なく!」



 そう言い、美夜子夫人は手を伸ばした。いつの間にかぶらりと垂れていた鎖を、彼女はえいっと引く。みしみしっと嫌な音がした。

 瞬間、どーんっと、一階の天井が落ちた。



「うわー」



「あれま」



 皆崎とユミは、二階に続く階段上から動いていなかった。二人は難を逃れる。だが、一階にぽつり、ぽつりと立っていた面々は、哀れ下敷き。ペッシャンコだ。やがてキリリ、キリリと歯車の回る音が鳴った。自動的に、吊り天井は持ちあがっていく。それは元の位置へともどった。

 みょーんと潰れた肉が伸びる。

 したしたしたと、血が滴った。

 だが、それは動いた。粘菌生物のごとく血と肉は蠢うごめく。やがてそれらはふたたび人の形を構成した。潰れた車椅子はそのままで服もまたくしゃくしゃだが、全員が生きている。

 ユミはほへーっと言った。

 ガツンと、皆崎はキセルを噛んだ。



「ああ、なるほど、わかりやすい。人魚を食べればそのときから副次効果で不老不死になれる。なるほど、なるほど。つまり、あなたさんたちは本当に食らっちまったんだねぇ」



「ホホホッ、そうですわ。一年前に、みなで美味しくいただきましてよ。だから、こんなドロボウだって一網打尽な、便利なカラクリも造りましたの。でも、使用人もぺしゃんこになってしまうものですから、私たちだけで暮らしたほうが不便がないのです、ほほっ」



「ゲゲッ、暇を出したんじゃなくって、殺してんじゃねぇかよぉ」



 イーッと、ユミは嫌そうに口をひん曲げた。

 その頭を、皆崎はぽんぽんと撫でてやる。両手をあげて、ユミはジタジタした。



「あーっ、皆崎のトヲルの野郎め! 俺様を子供あつかいしやがってるな! てやんでぇ、ちくしょうめぇ、いいぞ、いいぞ、もっと撫でろぃ! ナデナデしまくれぃ!」



「うーん、あいかわず、ユミさんは撫でられるのが好きなのか嫌いなのかわからないもんですねぇ。で、さてはて皆、死なないと見せられた以上、人魚を食った証明は終わった」



 ひと吸い、ひと吹き、ひと言。

 皆崎トヲルは、細く吐きだす。




「なら、誰が人魚を騙ったっていうんだろうねぇ」



   ***



「どーすんだよ、皆崎のトヲルよぉ」



「なにがですか、ユミさんや」



「人魚に助けを求められたってのに、ソイツは一年も前に食われちまってるんだぜ?」



 美夜子夫人に案内された客間にて。腰に手をあて、ユミは言った。それから、俺様にはもうお手上げだぜーっ! と立派なベッドに飛びこむ。もふもふの羽根布団を、彼女はぞんぶんに両手でモミモミした。それから大の字になって、皆崎にたずねる。



「まさか、手紙の住所をまちがえてましたなーんて、オチはねぇよなぁ?」



「ユミさんねぇ。あなたさんは僕をどんなまぬけだと思っているんだい?」



「かわいい俺様がいないとまるでダメな、トーヘンボクの皆崎のトヲル野郎」



「ふむ……まあ、確かに、僕にはユミさんがいないとダメなところはありますね」



 揺り椅子に腰かけつつ、皆崎はうなずく。おおっと、ユミは顔を跳ねあげた。

 見えない尻尾をブンブンと振りつつ、彼女は言う。



「なんでぇ、今日はやけにすなおじゃねぇか! おっちつかねぇなぁ! もっと褒めていいぜ! ほらほらぁ、かわいい俺様が、こんなに喜んでやるからよぉ!」



「ユミさん、褒められるとすぐにぐにゃんぐにゃんの骨抜きになっちまうのは、あなたさんのよくない癖ですよ。まあ、僕はそんなところを嫌いじゃないですが」



 くすりと、皆崎は口の端をあげる。ガチンと、彼は続けてキセルを食んだ。

 フゥッと、皆崎は煙を宙に吐きだす。揺り椅子を意味なく前後に漕いで、彼は語った。



「住所はまちがいござんせん。僕の貞操にかけて誓いましょうか」



「ソイツは固ぇな」



「固いよ。それに人魚の希少性を考えれば、二匹も三匹も、いろんなところで釣れるのは話がおかしい。なら、助けを求めてきたのは、『この家の人魚』に他ならんでしょうね」



「ケッ、なら、胃袋の中から手紙を書いたってか?」



「そう、今だとそういう話になっちまうんですよね。『声』とは違って、『手紙』は生きているもんがだすものですから……だからね、さてと、ユミさん」



 ぐっと、皆崎は後ろに体重をかける。ぎりぎりまで彼は揺り椅子を倒した。それから、ぐらりんと戻す。勢いをつけて、皆崎は立ちあがった。そうして山高帽をかぶりなおす。




「ちょっと、ひと調査、行こうじゃありませんか?」



   ***



「真実の愛、というものをごぞんじでしょうか?」




 応接間に、これ以上なく真剣な口調がひびいた。真面目で、真剣な、重い問いかけだ。

 こっそり、皆崎とユミは視線をあわせる。そしてどちらからともなく前を向き、ふるふると首を横に振った。二人は真実の愛も恋も贋作の愛も恋もまるで知ったことではない。



「ダメですね、あなたたちは」



 皆崎たちの前に座った男性は、深々とため息を吐ついた。濃い隈くまと痩せすぎの体が特徴的な、美夜子夫人の長男だ。名を一輝かずきという。ふたたび、彼はハァッと当てつけじみたため息を重ねた。



「まるで生きている価値のない愚物。血と糞が詰まっているだけのぐずぐずした肉袋だ」



「おいおい、一輝の兄さんよ。そいつは言いすぎってもんじゃねぇのかい? 本来は温厚な、かわいい俺様が万が一にでもブチキレちまう前に、謝ったほうがいいってやつだぜ」



「ユミさん、あなたさんね。腕まくりをしながら言う時点でもうキれてやがりますって」



「……ああ、確かに。私が悪いな。くっそ、ダメだ! もうしわけない!」



「おや、あなたさんもかなりすなおに謝りますねぇ」



 感心と呆れが半々の声を、皆崎はあげた。そのまえで一輝は自身の肩を強く掻き抱く。

 ふむと皆崎は眉根を寄せた。その理由は一輝の顔があまりにも恍惚としていたからだ。

 声をはりあげ、一輝は語る。



「愛しい人と永遠にひとつになれた! しかも、彼女の血肉は私を老いさせず、殺さず、強く生かし続けている! この歓喜が、この恍惚が、この真の愛が、食わないものにわかるわけがありませんでしたね! 恵まれたものとして、私は神のごとく寛大であるべきでした! いやはや愚物を愚物とバカにして本当にもうしわけない! 謝罪しましょう!」



「……おい、皆崎のトヲルよぉ。コイツはマズイ域にいってるやつだぜぇ」



「うん、僕もそう思うとも。人魚に恋する人間は別に珍しくはないがコイツはちょっとうっとうしいや。それに語りはするが『騙り』ではない。おいとまするとしやしょうか?」



「そいつがいいや」



 皆崎とユミは、そっと椅子を立った。同時に、一輝も流れるように腰をあげる。だが、彼は皆崎たちの様子を見てはいなかった。宣誓するように片手をあげ、彼は語り続ける。



「私という人間ハァッ! まず水槽に入っている彼女を見たときに、運命の恋に堕おちたのであります! ならば、人魚たる彼女の捌さばかれる運命を悲しむべき? いいえ、それは凡人の発想であります! 食とは愛しき人といっしょになること! つまり、究極の求愛行動! その証拠に、彼女のうす桃色の肉はプルプルと震え、私に食われることを切望しておりました! そう、刺身のあの醤油の弾きこそ、彼女の私に対する愛の証なのであります! この崇高かつ汚し難き、純粋な愛の形を私は論文にまとめ然しかるべき学会へ……」



 一輝の声は遠ざかる。ばたり。ユミが扉を蹴り閉めても、気づきもしない。

 あきれたように、ユミは大きく肩をすくめた。



「学会ってさ。どこの学会にそんな酔狂なモンを投げるつもりなんだ?」



「うーん、妖怪食の学会はありますから。内容次第じゃぁ、歓迎される可能性も……」



「あんのかよ。ぶっそうだな、おい!」



「さて、ユミさん。我々は次へ行くよ」



 クイッと、皆崎はキセルの先を揺らす。

 はいよっと、ユミは投げやりに応えた。



   ***



「う……っ……あっ……あぐっ……ああっ……アアア……」




 男のうめき声が聞こえる。

 だが、それだけならば、べつにどうということはない。

 皆崎もユミも、人間の悲鳴のたぐいなんぞ、聞きなれている。今の問題は『だからこそわかる』のだが、その声が苦痛というよりも、快楽と恍惚をうったえていることだった。

 館の奥にもうけられた扉を前に、ユミは眉根をよせる。



「なぁんか、嫌ぁな予感がするぜぇ。皆崎のトヲルよぉ」



「ハハッ、きもちはぞんぶんにわかりますけどねぇ、ユミさんや。あなたさん、虎穴に入らずんば、虎児を得ずって言葉は知っているでしょう?」



「虎の子なんてかわいいもんが、いるとは思えねぇんだよなぁ」



「まあ、まあ、そう言わず……では、失礼をして」



 ガチャリと、皆崎は扉を開いた。

 美夜子夫人が振り向く。はてさて、先ほど聞こえた声は男のものだったが……。そう首をかしげたあとに、皆崎とユミはある異常に気がついた。



「えーっと、美夜子夫人。その姿は、僕の知るものとは違うようですが?」



「こちらは、舞台衣装のようなものですわ」



「舞台衣装」



「あるいは真の姿とも言えます」



「真の姿」



 美夜子夫人の服装は、しとやかな着物から革製の衣装に変わっていた。しかも、面積が少なく、局部しか隠れていない。そして部屋の奥、濃い暗がりのなかにもなにかがいた。

 それを見て、ユミはゲーッと蛙が潰れたような声をあげた。

 控えめに表現するのならば、そこにいたのは『百舌鳥もずの早贄はやにえ』であった。杭で貫かれた裸の人が、蠢いている。ガツンと、皆崎はキセルを食んだ。ふうっと、彼は煙を吹きだす。



「ふーむ、『後ろ』のは、ご主人さんですねぇ。まさかのまさか。串刺しとは。そのような目にあわせるとは、憎しみでもおありで?」



「まさか! なにをおっしゃいますの! 夫はいつでもかわいい、大切な私のベイビーちゃんですわ。それよりも! いかにお客様といえども、夫婦の営みにいきなり土足で踏みこむのは、私、いかがなものかと思いますわね!」



 ツンッと、美夜子夫人は鼻を高くあげた。キーキーバタバタ。賛同するように、串刺し中の旦那氏も両腕を振り回して暴れる。ケッと、ユミは口を挟んだ。



「もてなしもなんもないまんま、客を放って、勝手におっぱじめといてなにを言ってやがるんでぇ! それよりも、こんな物騒なことが夫婦の営みたぁどういうことなんだぁ?」



「サディズムとマゾヒズムですか?」



 ぼそっと、皆崎はたずねる。

 ぱああっと、美夜子夫人は顔をかがやかせた。堂々とうなずき、彼女は誇り高く語る。



「そのとおりですわ。ご理解いただけて助かります」



「えーっと、こういうことをやるようになられましたんは、人魚の肉を食べて以来で?」



「ええ。普通の肉体のときは鞭打ちていどで満足をしていたのです。しかし、今や死なない体を得たのですもの。私たちは、究極に挑戦しているのですわ」



「究極に挑戦」



「今日は肛門から口までを貫いて意識を保てるかどうかを試す約束でして。朝からワクワクしておりましたのよ。お客様のために予定は変えられなかったのです。ね、あなた?」



 後ろの裸身がジタジタと動いた。どうやら、同意らしい。美夜子夫人の言うとおりだ。

 シミのない頬についた血も鮮やかに、美夜子夫人は恍惚と語った。



「アア、人魚の肉は、心からすばらしいわ!」



「なるほど、なるほど。合意ならばケッコウ、ケッコウ、まことにケッコウ。ここには『騙り』もない。次に行きましょうか、ユミさんや」



「……おーっ……まったく、かわいい俺様は疲れちまったぜ」



「それでは、おじゃましましたね。ごゆっくり、お楽しみを」



 ひらひらと、皆崎は手を振った。美夜子夫人はうなずく。するりと、ユミは外に出た。皆崎も後を追う。しばらくして、快感ここに極まれりといった叫びと共に、頭か内臓だかが床に落ちる濡れた音がひびいた。全身をぶるりと震わせて、ユミは言う。



「痛そうじゃねぇかぁ! ひんひん、わかんねぇ趣味だぜ」



「まあ、ユミさんはそうでしょうねぇ。あなたさんは、それでいいんですよ」



「おっ、おっ、褒めてんのか? もっと褒めるか、皆崎のトヲルの野郎よぉ」



「その前に、次の部屋に行くとしませんかね?」



 ガチリ、キセルを食んで、皆崎は提案する。

 このトーヘンボクとユミはその足を蹴った。



   ***



 続けて、皆崎たちは二階へ向かった。館の持ち主である夫妻は『お楽しみ』のまっさいちゅう。ならば、ためらいなどは必要ない。バンバンと、皆崎は扉を次々に開けていく。

 やがて、彼は『当たり』を見つけた。



「まあ、無作法ね!」



 ガチャリッと、その一室を大きく開いた瞬間だった。

 鈴を鳴らすような声が、コロコロと転がったのだ。



「あいさつをして、それから開いてくださるものよ。無理に押し入るなんて、初夜のベッドでの振る舞いも知れるというものですわ」



「これは失敬しました。でも、僕の貞操はそんじょそこらの女子よりも確かなもんでして。つまりは、いらぬ心配はご無用というやつです」



 皆崎は山高帽を持ちあげた。

 それを見て双子の少女の片方――姉のみどりはくすくすと笑った。ごてごてしく、砂糖菓子のように飾りつけられた子供部屋の中心。そこに座す車椅子へと彼女は身を寄せる。



「あら、私の思ったよりも、おかしな殿方なのね! 身持ちの固い男なんて、つまらないにもほどがあるじゃないの!」



「それはよぉ、おもしろいのか、つまんねぇのか、いったいどっちなんだい……ッタク、この屋敷の連中は。全員わけがわからねぇぜ」



「ねぇ、碧みどりもそう思うわよね?」



「……うん」



 車椅子のうえの妹――碧はちいさくうなずいた。ぺったりとみどりは張りつくように彼女へ腕を回す。白くまろやかな頬に頬をつけ、産毛を触れさせて、みどりはささやいた。



「見てわかるとおりに、私たちはとっても仲良しさんですのよ。そうでしょ、碧?」



「ええ……姉さんは、飛び降りて、半月前に足を切断した私を支えてくれているのです」



「飛び降りたんですかい? 半月前に? それで、足はダメに?」



 くるり、皆崎はキセルを回した。

 こくり、碧はうなずく。じっと、彼を見つめながら、彼女は語った。



「ええ、高いところからまっすぐに落ちて、足で着地しましたの。いつもなら、体はすぐに治るのに、足だけは回復が起こらなくて……二本ともずたずたになって、ちょっきん、切るしかなくなったのです」



「あら、なんでまたそんな」



「碧をいじめないであげて! そんなこといちいち聞くものじゃなくってよ! お兄さんは、こなれた女に対して、なぜ処女じゃないのかを、いちいち問いつめるタイプかしら」



「あなたさんねぇ。それは男性にとっても、女性にとっても、よくない発言ですよ」



 眉根を寄せ、皆崎は苦情をていした。対して、みどりはコロコロと笑う。

 不意に、碧が口を開いた。意を決したかのように、彼女は声を押しだす。



「……あのう」



「さっ、さっ、もう行っておしまいなさいな。人魚を探しにきたというけれども、おあいにくさま。あの肉は、二度と食べれはしないのよ。帰ってちょうだい」



 ガチリと、皆崎はキセルを食んだ。

 ひと吸いひと吹き、そしてひと言。



「見つけた。『騙り』だ」



「『騙り』?」



 なんのことかと、碧は目を細める。その前で、ユミはぴょんっと跳びあがった。

 見えない尻尾をブンッと振って、彼女は声を弾ませる。



「なら……やるってのかい? 皆崎のトヲルよぅ!」



「ああ、そうですともさ」



 皆崎は、山高帽をかたむけた。双子の姉妹はきょとんとしている。

 パンッと、ユミは手を叩いた。

 パンッ、パンッ、パパパパパパパパパパパッ、パンッ!

 柏手のごとく、音のひびく中、『魍魎探偵』は宣言する。




「これより、『謎解き編』に入る」




 一年前に、美味しく食われた人魚から。

 なぜ、助けを求むる手紙が届いたのか。



 パンッと、ユミは音を鳴らした。




「乞う、ご期待!」



   ***



「あれ?」



「あら?」



「うぐ?」



「あら?」



「あら?」




 五つの声が集まった。

 未だ、片手をあげて直立している一輝、革で局部を隠しただけの美夜子夫人。今は両手足を落とされている旦那氏。そして、双子の姉妹のみどりと碧。

 人魚を食べた家族のみんなが、玄関ホールへとそろえられる。

 だが、彼らは自力で移動したわけではない。摩訶不思議な力で飛ばされてきたのだ。そして奇怪な行為をなしたものはガツンとキセルを食んだ。ひと吸い、ひと吹き、口を開く。



『魍魎探偵』は騙らぬ。

 ただ、語るばかりだ。



「そもそも、『人魚とはなにか』?」



「べべんべん」



「『人魚を食うと不老不死になる』。まず、ここからしておかしいんですよ。妖怪とはいえ、人魚も生き物。生物はおしなべて、自らに有利となる方向へと進化する。しかし、『人魚自体は不死ではない』。のに、自身の肉を食べた相手に対しては、『不老不死という副次効果』を授ける――――これはなぜか。種族にとって、その事実がなんらかの利益をもたらすのでなければ話にならない」



「べべんべんべんべん」



 皆崎は語る。その前で、ユミは三味線を弾くまねをした。さらに、口で音を添える。

 人魚を食べた家族は、まず理解する。どうやら、ユミのたてる音に特に意味はない。

 問題は『魍魎探偵』がなにを語っているのかだ。



「また、『不老不死になった人間が、最後にはどうなるのか』を見届けたものは誰もいない。洞窟に入った尼さんはいましたがね。アレも、最後の姿は誰も知らない」



「べんべべん」



「つまり、ですよ。ここからは、あるひとつの結論が導かれる。『人魚とは食べられるため、進化を遂げた生き物である』。そして、生物のもっともたる目的は増殖です。果実が美味しくなったのはなぜか。花が蜜をたくわえるのはなぜか。人魚も同じだ。『食われることによって、人魚は増える』んですよ」



「べんっ!」



 いっそう強く、ユミは空の三味線を鳴らした。

 ふぅっと皆崎は細く煙を吐く。そしてひと言。




「『不老不死に変わった人間は、最終的に人魚になる』。それが答えでございます」




 食ったものは、やがて己も食われるものとなるのだ。

 そう、皆崎は人魚という美味な肉の真実をつむいだ。

 

   ***



 賞賛は、ない。

 歓声も、ない。

 だが、悲鳴もなかった。

 動揺のうめきもあがりはしない。

 家族の反応を言葉にするのならば、『あっ、そう』といったところだった。

 どうやら実感がともなっていないらしい。だが、二人だけは様子が違った。姉のみどりと妹の碧。みどりは皆崎をにらみつけている。碧は瞳に涙を浮かべていた。彼女は言う。



「わかってくださるのですか?」



「碧、あなた……!」



「わかってくださっているのでしょう?」



 みどりの制止を聞くことなく、碧は言う。問いかけに皆崎は笑ってみせた。くいっと唇の端をひきあげるやりかたは、ずいぶんと色男めいている。ぽっと碧は頬を紅く染めた。

 一方で、ユミは不機嫌に空三味線を弾く。



「べべんっ」



「続きを語るとしましょうや。人魚を食った人間は、不老不死を経て、人魚に変わる。ならば、僕に此度こたび『食われそうだ』と手紙をだした人魚とは、『人魚を食った、家族の誰か』ということになりましょう。しかも、その人には『人魚に変わりつつある自覚があった』……適応が、異様に早かったんでしょうなぁ」



「でも、どんな変化が家族にあったと言うんですの? 見てわかるとおりですわ。私たちに異常はございませんことよ」



「飛び降りて、足を潰した人間がいらっしゃいまさあ。そこは、あきらかにおかしいでしょう。だって、あなたさんたちは不老不死。本来ならば、足は復活するはずなのですよ」



 美夜子夫人の問いに、皆崎は応える。バッと家族の視線は碧に集まった。

 車椅子の肘置きを、彼女は強く握っている。それこそ、骨が浮かぶほど。



「人魚自体は不死性をもたないせいですな。不老不死の恩恵に与れるのは、増える途中の個体だけ。もう変化が終わりかけていたせいで、あなたさんの足は潰れても元にはもどらなかった。足が復活しないことに賭けて、あるいは変化前の足が生えてこないかと狙って、あなたさんは飛び降りた。その動機は……家族が人魚に憑かれているせいだ。バレたら食われると危機感を覚えて、あなたさんは尾になりかけの足を潰した。だが……実はもうある人に『早急に人魚に変わりつつある』という事実はバレていた。そうでしょう?」



「……はい」



「このままではどのみち遠からず食われてしまう。あなたさんはそう危惧して、僕に手紙をだしたんだ。これ以上、多くの家族にバレないよう、名前を伏せて、『人魚』を騙って。そうして、僕が到着したらすべてを話し、助けを乞う予定だった……だが、できなかった」



「……はい」



 キラキラと碧の目から涙がこぼれた。ポロポロと、彼女は泣きだす。

 ついっと、皆崎はキセルを動かした。そうして、姉のみどりを示す。



「お姉さんが……『あなたが人魚に変わりつつある』と知ってる人ですね。彼女がどこにいても、べったりと張りついてきたもんだから……ですね」



「べべんっ!」



 口で、ユミは音をたてる。三味線を胸前にかかげるかのように彼女はポーズを決めた。

 そのまま拍手を待つかのごとく、ユミは動きを止める。だがうん? と首をかしげた。



「なあなあ、皆崎のトヲルよう」



「なんだい、ユミさんや」



「それなら、姉のみどりは、『もっともっと人魚への変化が進んだら、妹の碧を食おうとしてた』ってぇことなのかい?」



「そういうことになりますねぇ」



「妹を食うなんざ、鬼畜の所業じゃねぇか! いったいぜんたいどういうことだよ!」



 見えない尾を立てて、ユミは跳びあがった。

 彼女の視線の先で、みどりは恥じらう様子もなく嗤わらった。にぃっと彼女は唇を歪める。その全身からは処女特有の残酷さと美しさが放たれていた。可憐に、みどりはささやく。



「だって、人魚のお肉は本当に美味しかったのですもの」



 軽やかに、みどりは歩きだした。そっと、彼女は碧の肩に手を置く。びくっと碧は震えた。その柔らかな頬を、みどりは舐める。べったりとヨダレ跡をつけて、彼女は語った。




「アレがもう一度味わえるっていうなら、妹だろうと食べちゃいますね」



   ***



「えっ、碧が人魚になりかけている、と?」



 口を開いたのは姉妹以外の誰であったか。



 そこに哀れみのひびきはなかった。進行度が異なるだけで自分たちもやがては同じになる。だというのに同情もふくまれてはいない。それどころか、家族は目をギラつかせた。



「つまり」



「つまり」



「つまり」



 あの肉が、もう一度食える?



 食欲に、どろりと溶けた声は、誰のものか。もはや、判断する意味はない。

 どろどろどろり。煮つめられた飴に似た熱と粘着性をもって声はひびいた。



「この舌で、私の恋をふたたび味わえるとは」



「不死性がさらに高まったりはしないかしら」



「アア、限界の限界の限界を超えた快楽を!」



「あなたの味方は家族にはいないのよ、碧。だから、私たちの糧におなりなさいな」



 皆崎の長話の間に旦那氏の手足は生えてきていた。四組の腕が碧に迫る。ガッシャンと音をたてて、彼女は車椅子から落ちた。必死に這い進みながら、碧は皆崎にうったえる。



「助けてくださいまし、『魍魎探偵』様。風の噂であなたのことを聞きましたの。妖怪と人の間の揉めごとを解決してくださる御方だと。だから、あなたに手紙をだしたのです」



「そうですな、ただ、ひとつ、あなたさんに言うべきことがありまして」



「なんでしょう?」



「あなたさんは『食われそう』ですが、まだ『人魚』ではない」



「ええっ? もしや、だからお助けいただけないとでも?」



「まさか。ただ、此度の『騙り』を並べているだけでして」



 ガチリ、皆崎はキセルを食む。

 ひと吸い、ひと吹き、ひと言。



「邸内での、今宵の『騙り』はふたつ」



「べべんべん」



「『食らわれるもの』のついた嘘と、『食らいたいもの』のついた嘘」



「べべんべんべん」



 すっと皆崎は手をだした。くるりと彼はキセルを回す。それはすうっとなめらかに、あるべきカタチに戻るように溶けた。歪み、曲がり、キセルは奇妙な銀色の天秤へ変わる。

 低い声で、皆崎は語った。



「人と妖怪の揉めるとき必ず『騙り』がある。さて此度の『騙り』はいかほどの重さか」



 歌うような声に合わせ、ふわりとした黒いものが現れた。それは片方の皿のうえに載る。カクン、カクンッと二回、天秤の腕は下がった。

 くいっと、皆崎は口の端をあげる。



「二分。なれば」



「おうともさ!」



 皆崎の求めに、ユミは応じた。彼女は胸を張る。ご覧あれ、とユミは床を蹴った。

 ひとつ回ると、狐耳が生える。ふたつ回ると、ふさふさの尻尾が生える。彼女は人間ではない。化け狐だったのだ。みっつ回ればその姿は細い刀に変わった。

 それは、皆崎の手に落ちる。銀の刃やいばをかまえ『魍魎探偵』は宣言した。




「これより、今宵は『語り』の時間で」



   ***



「語ってひとつ。むやみに妖怪を食ってはならぬ」



 ふわりとひと薙ぎ。彼は一輝を切る。血は出なかった。

 だが、きぃっと白目を剥いて、彼は倒れる。踊るように、皆崎は動く。



「語ってふたつ。むやみに人を殺してはならぬ」



 さくりとひと切り。彼は美夜子夫人を薙ぐ。やはり、肌には傷もつかない。

 それでもばったり、彼女は倒れた。舞うように、皆崎は動く。



「語ってみっつ。むやみに悦楽にきょうじてはならぬ」



 かきんとひと太刀。彼は旦那氏を断つ。怪我などない。

 しかし、きりきりと独楽こまのごとく回って彼は倒れた。拍子を踏むように、皆崎は動く。



「語って最後」



 その視線の先にはみどりがいる。一連の狂騒を前にしても、彼女は未だに笑っている。

 おだやかとすらいえるほほ笑みは、草原に立つ乙女のごとく。のんびりと彼女は言う。



「ああ、残念」



「妹を、姉は食ってはならぬ」



「本当に、食べたかったのに」



 皆崎が迫る。みどりは逃げない。ただただ、可憐に立ち続ける。

 あるいはそれが、妹すら食らうと決めたものの矜持だったのか。



 その首を、皆崎は裂いた。糸が切れたかのようにみどりは倒れ伏す。

 皆崎は本来『皆裂き』と書く。それはユミだけが知っている事実だ。




「これにて、今宵の語りは仕舞」




 スッと、彼は刀を下ろす。カチッと、壁際の柱時計が動く。

 ちょうど、二分が経過した。どろんっと、ユミは元に戻る。

 

 彼女は歌う。




「べべん、べんべんべん」




 お後がよろしいようで。



   ***



 此度の『騙り』は人魚にまつわるもの。



 皆崎が切ったのはそれへの執着だった。これで、碧がすぐに食われるということはなくなったといえる。だが、人の妖怪への欲望は、またいつ新しく火がつくか知れなかった。



 そのため、彼の勧めに従って、碧は家をでた。



『魍魎探偵』の力をもってしても人魚の侵食はおさえられない。食った事実は消せないのだ。だから彼はある妖怪専門の医者を碧に紹介した。その施術を受け、彼女は海にいる。



「なにからなにまで、お世話になりました」



 新しくつけた魚の尾で、碧は波を叩いた。銀の鱗は美しい。じっと、彼女は皆崎を見つめる。山高帽を、彼は少し持ちあげた。心底残念そうに、皆崎は謝る。



「あなたさんを人に戻せなくて、もうしわけないのです」



「いいのです。私も人魚を食いましたもの。それならばこれが当然の罰なのです。いつか漁師に釣られたとしても……ええ、運命だと思うばかりで、けっして怨うらみはしませんわ」



 パシャン、パシャンと、彼女は音をたてる。だが、そこで碧は顔を陰らせた。

 パシャンと物憂げに波を弾いて、彼女はささやく。



「私の家族も……いつかは人魚になるのでしょうか?」



「ええ。そうです。しかし、それはもっとずぅっと、ずぅっと先の話でしょう。不老不死にも飽いたころです。あなたさんが心配する必要はなにもありませんで」



「……そうですね。ねぇ、『魍魎探偵』様」



「なんでしょう?」



「あなたは化け狐……妖怪をおそばに連れていらっしゃる。よろしければ、私のことも」



 艶をこめた目で、碧はささやく。

 その唇を、皆崎は指で塞いだ。必死で、確かな熱のこもった告白に、彼は言う。




「さようなら、『あなたさん』」




 そこで碧はハッと息を呑んだ。今まで、誰一人として、彼は人魚を食った家族の名を呼んではいない。ユミというひびきだけを、彼は親しげに口へと乗せていた。その事実に気がつき、碧はひどく傷ついた顔をした。そしてバシャンと皆崎に水をかけ、海へ潜った。



 あたりには、波ばかりが残る。

 海にいるのは、あれは人魚ではないのですと、言うように。



   ***



「あーあ、いいのかよぉ、皆崎のトヲルよぉ。ありゃ、なかなかの美人だったじゃねぇか。あっさり袖にしちまいやがって。コンチクショウ、もったいねぇなぁ」



「いいんですよ。僕はユミさんで手いっぱいなんだから」



「ん、ん? どういう意味だ? 喧嘩売ってんのか? それとも褒めてんのか?」



「どっちでもありゃあしませんよ。ただ、事実を言ってるだけです……僕は人としての心はがっつり欠けてんで。誰かを大切にするのなんざ、ユミさんだけでいっぱいいっぱい」



 応えながら、皆崎は山高帽をかたむけた。端に溜まっていた海水が、たーっと落ちる。

 首を横に振って、彼はユミにたずねた。



「それより、ユミさんはいいんですか? 昔は九本あった尾を、悪さがすぎて、常世の裁定者たる僕に切られたってのに。怨みはないんです?」



 そう、皆崎はこの世にあふれでた妖怪の訴えで、常世から遣わされたもの。世にもまれなる裁定者だ。彼は人の『騙り』を測り、その罪の重さのぶんだけ力を振るう。遠い昔、尾を切られて以降、ユミはその手伝いをしていた。ケッと言って、彼女は鼻の下を擦る。



「だってよぉ、かわいい俺様がいねぇと、皆崎のトヲルはまるでダメなトーヘンボクじゃねぇか。おまえがあんまりダメだからよぉ。俺様ってば、情が湧いちまったのさ!」



「まあ、ユミさんがにぎやかしてくれないとこんな旅、やってられないですけどね」



 くすりと皆崎は笑う。それは本心だ。ユミが手を叩き、空三味線を弾き、刀に変わる。そうして、はじめて皆崎の旅は成立していた。そうでなければ無味乾燥でしかたがない。

 褒められたと、ユミは見えない尾を振った。嬉しそうに、彼女は胸を張る。



「だろぉ。おまえは俺様がいなきゃダメダメだもんな! 自覚があるのはけっこうなこってぃ! これからも、優しい俺様はおまえのことを手伝ってやるぜぇ! 感謝しろい!」



「はいはい、わかりましたよ。感謝しましょうともさ。でも、僕がこうして働いているのも、ある意味ユミさんのせいというか……なんというか……」



「ああん、俺様のせいにすんのかよ! ケッケッ、確かに、俺様の血を浴びたせいで、おまえは完全に人間じゃなくなっちまったさ! だからって、そんなこと知るもんかい!」



「『騙りを暴いて、善を積め。さすれば人間に戻って、おまえはようやく眠ることができる』とは……やれやれ、常世の神様も適当を言いなさるもんだ」



 ふうっと、皆崎はため息をついた。ケッケッと、ユミは笑う。



「いいじゃねぇかよ、俺様とずーっと旅をしようぜぇ、皆崎のトヲルよぅ!」



「ユミさんねえ、僕はもう少々疲れてるんですよ……って、言ってもしかたがない、か」



 くるり。皆崎が手を回すと、キセルが現れた。頭から海水をかぶったというのに、やはり火は絶えていない。それを、彼が食もうとした。そのときだった。



「……うん?」



 夜闇から、紙が一枚飛んできた。それを、皆崎は片手で受けとめる。

 書かれた文字と住所を、彼は読んだ。跳びあがってユミはたずねる。



「なんでぇ。次の依頼かい?」



「ああ、そうさ。やれやれだ」



 ガチリ、皆崎はキセルを食む。

 ひと吸い、ひと吹き、ひと言。




「今宵も騙るねぇ、人間は」




 そして、彼らは並んで歩きだす。

 今宵も、『魍魎探偵』は騙らない。
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3、作家名
小川晴央
OGAWA HARUO

参加作品
かいじゅうのせなか
かいじゅうのせなか
 爪の上に宇宙ができた。薄く伸ばされた紺色のカラージェルに星のようなラメがちりばめられている。会心の出来だ。満を持してスマホのカメラを起動する。青空をバックにしたくて、私は窓から腕を伸ばした。持ち前の指は少々短いが、加工してからアップするので問題はない。



「うん、きれ――」



 感嘆とともにシャッターを切ろうとしたその時、私と太陽の間に武骨な迷彩ヘリが割り込んだ。耳元でハリセンを鳴らされ続けているかのようなプロペラ音が私を襲う。

 HO-3。全長13メートル。主回転翼直径は11.6mで、青樽あおたる駐屯地に配備されたヘリコプターの中では唯一の国産機――なんだそうだ。昨日ネットで調べた。



「うる! さい! なー! もう!!」



 騒音とともに強風が部屋へ吹き込む。風にあおられたカーテンを押さえようとした拍子に、スマホが手から滑り落ちて床へ落下した。



「あー! 傷! 買い換えたばっかなのに!」



 すると突然あたりが暗くなった。夜になったのではなく、大きな影が私の家とヘリコプターを覆ったのだ。高層ビルほどの大きさがある影の主はぬらりと動き、ヘリコプターの横を通り過ぎていく。その巨大な存在にあおられたヘリは、左右に揺れながら地上へと帰っていった。



「ナイス」

 

 私は親指を立て、ヘリを追い払ったことをねぎらう。

 まぁ、あれは尻尾なので、そんなことをしても彼には見えないのだが。



「モモモー! お昼できたよー!」



 階下からの声に返事をし、私はリビングダイニングへ向かう。扉を開けると、東条とうじょうエメリがぴょんぴょんと跳ねながら私を迎えた。



「ごっはんー! ごっはんー!」



 私がマスカラやアイプチで力を尽くしても叶わないほどの大きな目、ゆるふわパーマのかかった色素の薄い長髪に、140を超えない身長。東条エメリは、まるでおとぎ話に出てくる小人のようだ。愛嬌があって、可愛らしい。傍からは私たちが同じ十七歳には見えないだろう。だが――。



「きょーは、れーせーパスタだよ!」



 エメリが指さしたテーブルの上には、山盛りの氷が載ったパスタの麺と、ケチャップだけが置かれていた。しかも器はラーメン用のどんぶりだ。

 対岸に珍しい蝶を見つければ迷わず川に飛び込み、迷い猫を探して隣県まで歩き自分が迷子になる。後先考えない豪快さと、ちょっと足りないオツム。可愛い見た目とは裏腹に、内面に難があるのが彼女だった。

 出された料理に文句を付けるのは私の流儀に反するので黙ってテーブルにつく。私は右手でフォークを取りながら、左手でリモコンを操作した。



「テレビみるの? ご飯しながら? おぎょーぎ悪いんだぁ」



 手をグーにして握った箸でパスタをすすっているエメリには言われたくない。



「別に誰かが見てるわけでもないでしょ。ヘリもどっか行ったし」



 テレビ画面に深緑色をした巨大トカゲが映し出される。ワイン樽だるに四本の足が生えたようなフォルムで間抜けさを感じるが、爪の一つだけでも民家ほどの体積がある。



『先ほど! 陸自のヘリがタルゴンの尻尾と接触しました!』



 尻尾とヘリはぶつかっていないのだが、アナウンサーは血相を変えたまま続ける。



『あの巨大生物が地中から現れて、今日で三週間が経過しました! しかし、救助活動の進展は未だに欠片も見られません!』



 タルゴンを真後ろからとらえた映像に切り替わる。それと同時にカメラはぐいんとズームを開始し、タルゴンの背中へ近づいてきた。



「げ……」



 タルゴンの胴体は横から見ると分度器のような形をしている。そのちょうど百二十度にあたる部分に民家が引っかかっている。白い壁と黒い屋根の平凡な一軒家が背びれに挟まっているのだ。

 カメラはリビングの窓へとさらにズームを続けた。



『背中に取り残された少女たちは、今も不安に怯えていることでしょう!』



 エメリが笑顔で外に向かって手を振る。するとテレビに映る少女も手を振り出した。

 私が慌ててリビングのカーテンを閉めると、エメリが残念そうに眉をハの字にする。



「怒られるから? テレビみながらのご飯」



「今すっぴんなの!」



 私、水守桃香みなもももかの家は外界と断絶されている。怪獣の背中で元親友の東条エメリと救助を待っている。



    1

 

 タルゴンが現れた日、私は自室で水着姿の自分を撮影していた。

 その前の週に読者モデルとして載った雑誌が発売され、フォロワーが百人近く増えた。だがそれ以降は伸び悩んでいたので、サービスショットをSNSにアップすることにしたのだ。現在のフォロワーは1954人。二千人を超えるためにあと一押しが必要だった。

 水着は今年の流行に合わせて選んだ。正直好みじゃなかったけれど《センスがない》だとか否定的なコメントが来るよりはましだ。

 地響きが聞こえてきたのは、撮影を終えてから加工作業に移ろうとベッドに倒れ込んだ時だった。あまりのタイミングのよさに私が原因かと疑ったが、地響きに続いて揺れが起こり、それはどんどんと大きくなっていった。



「なになになになに!」



 私はひっくり返りそうになりながら、カーテンを開けた。正確にはしがみついたカーテンが外れて、外の景色が見えた。

 正面には隣家があったが、窓を開けて横をのぞき込むと町の様子がうかがえた。

 私はすぐに異変が起きていることを察する。元々我が家のある住宅地は小高い丘の上にあったのだが、その高度がぐんぐんと上がっていたのだ。地平線が下へと移動し、周りの建物が崩れ視界から消えていく。



「なんなのよこれ!」



「モモモ!」



 向かいの家の窓が開き、そこから隣に住む東条エメリが顔を出した。最後に見た時から顔つきは大分変わっていたが〝みなもももか〟の真ん中三文字で私を呼ぶのは彼女だけだ。

 セーラーワンピを身につけたエメリは、きらきらとした目で私を見つめていた。この異常事態の中で彼女はなぜかニコニコと笑っている。

 その時、一際大きな揺れが私たちの家を襲った。それを合図にしたかのようにエメリの家が急速に沈んでいく。



「エメリ!」



 私が手を伸ばすのと、彼女が窓枠を蹴り部屋から飛び出すのは同時だった。

 天変地異と呼んで差し支えないほどの状況の中で私が思い出していたのは、ここ数年会話すらしていなかったエメリとの過去だった。

 引っ越しの挨拶に行った時、彼女は捕まえたアオダイショウを見せびらかしてきた。

 林間学校で遭難したかと思ったら、翌朝鹿にまたがって現れた。(しばらくあだ名がアシタカになった)

 互いに自分の部屋を持ってからは、毎日のように窓を飛び越え私の部屋へ遊びに来た。

 まさに今のように――。

 あれ? エメリと話さなくなったのって、いつ頃からだったっけ?

 エメリは小柄な体からは考えられない跳躍力で私の部屋へと飛び込んできた。だが私に彼女を受け止められる筋力などあるわけもなく、二人揃ってベッドから落ち、気を失った。

 

 目を覚ましたのは、翌朝のことだった。

 すべて夢だったことにしたかったが、私の隣ではエメリがよだれを垂らして眠っていた。

 窓から外を確認すると、眼下に青樽市が広がっている。町が沈んだのではなく、私の家の高度が上がったのだ。



「エメリ! エメリ起きて!」



「あー二度寝って気持ちいーもんねー。私も好き~」



「なに起きる前から二度寝について語ってんのよ!」



 エメリはあくびをしながら体を起こし、目をこすり、最後にまたあくびをした。



「家が! なんか家が浮いてんのよ!」



 さすがのエメリでもこの光景を目の当たりにすれば驚くだろうと思ったが、彼女は窓から見える風景を確かめたあとで笑い出した。



「タルゴンの背中に引っかかったんだねぇ。あははは!」



「は? タルゴン?」



「さっき地面から出てきた怪獣のことだよ」



「頭打ってどっか壊れた? いや、あんたは昔から変わったとこだらけだったけどさ!」



 エメリの妄言を否定しようとスマホでニュースサイトを検索する。だが、その結果出てきた見出しには《青樽市に巨大生物現る!》とあった。

 新しい映画の宣伝かと思ったが、消防庁のサイトでは青樽市全域からの避難を呼びかけていたし、ツイスタグラムには巨大トカゲの動画や写真がたくさんアップされていた。その中には、巨大トカゲの背中に引っかかっている我が家が写りこんでいるものもあった。



「ぴったりはまってるねー」



「呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ!」



 私は救助を呼ぶために、混乱する頭を必死に働かせた。電話は繋がらなかったがネットは生きていたので、ツイスタを起動する。先週飲んだスタハの限定ハニークリームフラッペ、撮影時のオフショット、それに続いて私はタルゴンの背中から見える風景を投稿した。

 

 09/12 08:33[タルゴンの背中に取り残されてます。助けてください]

 ∟うける

 ∟青樽市だからタルゴンって安直過ぎだろ

 ∟今回の件で怪我した方もいるのにこんな冗談言うなんて不謹慎ですよ

 

 プチ炎上した。



「なんでなんでなんで! こっちは本気で困ってんのに!」



 私はSNSで助けを求めることをやめ、家の周りを飛ぶヘリへ手を振った。見つけてくれたのはテレビ局のヘリコプターだった。電気が止まっているのでテレビは見られなかったが、ネット経由で手を振る私の映像がニュースで流れたことを知った。

 するとその途端ツイスタの通知が濁流のように押し寄せた。そのほとんどは心配や励ましのメッセージだったが、それによって自分がこれだけ心配されるほどの危険な状況にいるのだと自覚し、不安はむしろ増していった。

 その日の夕方になってようやく青樽市の消防署と電話が繋がった。電話はそのまま〝青樽市桜ヶ丘さくらがおか区トカゲ様極大生物被害対応対策室〟なる長ったらしい名前の部署へと繋げられた。だが、はしご車でも届かない、ヘリは近づけない、タルゴンの体表も登れない、と救助できない理由を並び立てられた末に『自宅待機をお願いします』とだけ言われ電話は切られた。



 タルゴンの出現から約24時間。電力を失った真っ暗な部屋でふてくされているとお腹が鳴った。緊急事態で忘れていたがタルゴンの出現以後なにも食べていなかったのだ。



「あ、お揃い! あたしもお腹ぺっこぺこ! でもひとんちの冷蔵庫勝手に開けるのはダメだから我慢してた!」



「あんた昔からそういう無駄に律儀なところあったよね……」



 私はエメリと一緒に部屋を出て、台所へ向かう。今私の家は怪獣の背中に偶然引っかかっているだけだ。次の瞬間に崩れたり、床が抜けたりしてもおかしくはない。十年以上生活してきた我が家にもかかわらず、一歩進むごとに冷や汗が流れた。



「でもこいつ、地面から出てきただけで動かないのなんで……?」



「二度寝してるんだってー。今はまだ眠いみたい」



「どこ情報よそれ」



「夢の中で教えてくれた。あたしたまにタルゴンと夢で遊んでたから。タルゴンって名前もあたしがそこでつけてあげたんだよ」



「はは、それウケる……」



 不安な相手を気遣って冗談を言うなんて、彼女も成長したものだ。

 階段を降り一階の壁へ手を伸ばす。すると、手の平に氷を触ったような冷たさを感じた。



「うわひゃ!」



 冷房もついていない室内の壁にしては不自然なほどの温度だった。私はスマホを取り出し、ライトで壁を照らす。



「あれれ、モモモんちの壁の色、こんなのだっけ?」



 昨日までは白い壁だった一角が、崖の岩肌のようにでこぼこしている。その色は窓から見たタルゴンの体表と同じ深緑色だった。



「違う、これ、あいつの背中だ……」



 ライトで照らすと、足下には元々あった壁の残骸が散らかっていた。タルゴンの背中と壁の間からは隙間風も吹いている。引っかかる際にタルゴンの背中がめりこんだようだ。



「背中!? すごい!」



 エメリがタルゴンの背中に抱きつく。頬ずりをしながら「ひゃっこいー」と目を細めた。

 すると、突然タルゴンの肌に紫色の光の筋が浮かんだ。筋は枝分かれしていてまるで血管のようだ。いや、実際タルゴンの血管に発光する液体が流れているのかもしれない。



「ふぎゃ!」



 発光と同時にエメリが後方へ吹き飛ぶ。向かい側の壁にぶつかり彼女は頭を打った。



「エメリ!? 大丈夫!?」



「なんかビリビリした。びっくり」



「なんでもすぐ触る癖直ってないの!? 昔クラゲ触って死にかけたのに!」



 青樽市は海に面している。海岸は昔の私たちにとって遊び場の一つだった。



「えへへ、その時は、モモモがあたしを病院まで連れてってくれたんだよねー」



 思い出した。病院での治療が終わった時も彼女は「モモモの髪いい匂いした」とヘラヘラしていたのだ。彼女の脳は危機感を司つかさどる器官がちょっとアレなのかもしれない。

 その時、音もなくスマホの明かりが消えた。



「え、待って待って待って嘘でしょ!」



 スワイプしても、電源ボタンを長押ししても、うんともすんとも言わない。バッテリーが切れたのだ。それはつまり外界との連絡手段を失ったということでもある。



「そんな……」



 ぎりぎりのところで抑えていた不安や絶望が一気にあふれ出す。今の私にそれを途中で止められるだけの精神力は残っていなかった。



「あぁ~…… 私ここで死ぬんだぁ~」



 全身から力が抜け、目から勝手に涙がこぼれた。子供のように泣き叫ぶ今の様を誰かに見られたら恥だな、と頭をよぎったが、今近くにいるのはエメリだけだ。



「助けは来ないうえ連絡までできなくなるなんて! ツイスタだって更新できないし!」



 他人に馬鹿にされないために勉強もスポーツも努力をしてきた。なめられないために身だしなみやスタイルに気を遣ってきた。嫌いな先輩にも愛想笑いはかかさなかった。自分なりに世の中から認めてもらえるように頑張ってきた。なのに。



「そりゃ写真は盛ってるし、部屋の写らない側はド汚いけど、こんな死に方しなきゃいけないほど、日頃の行い悪くなかったはずでしょ!」



 エメリは号泣する私に戸惑いながら「えいや」と私を抱きしめた。



「だいじょぶ、だいじょぶ! きっとなんとかなるよー!」




 気が付くと私はジャングルの中にいた。湾曲した木々が生い茂っていて、遠くには茶色い岩山も見える。だが暑さも湿気も感じなかったので、夢の中だと気が付いた。



「泣き疲れて眠っちゃったのか……」



 もしくは天国かもしれない。そんなことを考えていたら、すねになにかがぶつかった。

 見下ろすと、足下にいたのはタルゴンだった。だがその全高は私の膝下くらいまでしかなく、まるでぬいぐるみのようなサイズだった。



「うわっ!」



 私が声を上げて尻餅をつくと、ミニタルゴンも驚きのけぞりそのままひっくり返った。ずんぐりむっくりとした体に対して足が極端に短いタルゴンは、亀のようにじたばたしたまま起き上がれずにいる。



「えぇ……」



 いたたまれなくなり、彼(?)を助け起こす。

 するとタルゴンはキューイと甲高い声を上げて私の足に抱きついてきた。



「いや、現実じゃあんたに殺されかけてんだけどね……」




 ツッコミとともに瞼まぶたが開く。あたりを確認すると、私はリビングのソファで横になっていた。すぐ隣ではエメリが膝をついて私の顔をのぞき込んでいる。



「どんくらい寝てた? 私」



 尋ねると、エメリが手元のスマホの電源を入れた。



「んー、二時間くらいかなー」



「あーやば、絶対目ぇ腫れてる。つーか今変な夢を……。ってあれ? いやちょっと待って! なんであんたスマホ!」



 エメリが手に持っているスマホは私のものだった。バッテリー切れだったはずなのに、今はその画面が煌々と輝いている。私は彼女の手首を掴み画面を確認した。



「バッテリー43パー!? さっきまで死んでたのに! どうやったの!」



 エメリは「これ」と充電器を取り出す。私の部屋から取ってきたもののようだ。



「充電器があったって電気が来てないじゃん」



 するとエメリは得意げに笑って立ち上がり、私をタルゴンの背中が露出している廊下へと連れていった。背中は今もぼんやりと紫色に光っている。



「さっきタルゴンの背中でビリビリってなったでしょ? だから試してみたんだー」



 エメリがなんの迷いもなくタルゴンの背中へプラグを突き刺す。



「いや! あんたなにやってんの!」



 痛みに驚いたタルゴンが暴れ出すのではないかと身構えたが、数秒待っても異変はなかった。あの巨体にとってはこの程度、蚊に刺されるのと変わらないのだろうか。

 エメリが「で、こう」と、タルゴンの背中から伸びるコードをスマホへ接続する。すると小気味よい音が響き、充電が開始された。



「え、なに、こんなことってある?」



「充電くらいできるよ。ビリビリしてたんだから」



「いや電気ってそんな単純なものじゃないでしょ!? よく知らないけどさ!」



「でも、できてるよ。モモモ、これでできる? ついすたってやつ」



「ツイスタどころか……」



 ここから電気が取れるなら延長コードさえあれば冷蔵庫もエアコンも動くわけで……。



「あれ、これ、もしかして……。なんとかなる、かも?」



 

 09/13 12:48[電気なんとかなりそうです]

 ∟ストレスでついに頭おかしくなったか

 ∟写真のアロマディフューザーマジで動いてね?

 ∟バッテリー無駄遣いすんなってコメントしようとしたら怪獣の背中から充電してて草



   2

 

 対策室からは毎日三回状況報告をするようにと指示されていたが、返ってくる言葉は『進展はないので待機を続けてください』だけだったので連絡をとるのをやめた。

 それよりも私は〝怪獣の背中生活〟へ適応するのに忙しかった。

 検証の結果、タルゴンの背中に流れているのが電気だけではないと分かった。冗談半分でLANケーブルを挿してみたところWi-Fiが復活したのだ。これで格安SIMの速度にわずらわされることなくツイスタグラムができる。

 テレビのアンテナ線を刺してもうんともすんとも言わなかったが、ネット番組を画面に映すことができたので問題はなかった。



 怪獣の背中生活四日目、私は水に関する問題に悩まされていた。食料は買い溜めしておいたインスタント食品やレトルト食品があったのでなんとかなっていたのだが、飲料水が底をつきそうだった。ちなみに冒険と称して家のあちこちを動き回り、汗だくになって戻ってくるエメリに水を飲ませていたのもその一因だ。

 ネットで水の調達法を調べると、出てきたのは砂利で雨水を濾過ろかする方法だった。



「むしろ砂利がないんだけど……ここ」



 私がソファで愚痴を漏らすと、ダイニングで牛乳を飲んでいたエメリが口を挟んできた。



「もいっこ下の背びれに土残ってたよ? とってこようか?」



 腰にロープを巻きつけたエメリを窓からぶら下げるイメージ映像が頭に浮かぶ。



「んな危ないことさせられるわけないでしょ。あとヒゲできてる」



 ワンピースの袖で口元についた牛乳を拭ったエメリがぽんと手を叩く。



「あ、そだ。あたし、水見たよ?」



 エメリは私を脱衣所へ連れていった。家の西側(もしタルゴンが動けば西も東もないのだが)にあるその部屋は、家を左右から挟み込んでいるタルゴンの背びれに面していた。



「ほら、ここ」



 彼女は脱衣所の窓を開け放つ。窓から五十センチ程度のところにタルゴンの背びれがあった。その表面の凹凸によって作られた溝の一つに、ちょろちょろと水が流れている。



「え、なにこの水」



 ここ数日雨は降っていないはずだ。窓から顔を出して背びれの上の方を確認してみたが、水がどこから流れて来ているのかは分からなかった。



「水は水だよー」



 エメリは洗面台に置いてあったコップを手に取り、水の流れる溝に押しつける。三十秒ほどで満杯になった。



「無色透明……。見た感じ汚くはな……」



「んぐっ!」



 私が水質を確認しようとした矢先、エメリがコップを勢いよく口元へと運んだ。



「いやっ! ちょ! なにやってんのよ!」



 ごくごくと喉を鳴らしてコップの中の液体を飲み切ると、彼女はぷはーと満足げに息を吐いてみせた。



「あんたこれ毒だったらどうすんの! 怪獣の体の表面を流れてたものなのよ!」



「たぶんタルゴンの汗かなにかだよ」



「その想定ならなおさら飲むのおかしいでしょ!! 変な味とかしなかった!?」



「んー……。薄めたポカリ」



 一晩経っても、エメリの体に異常は表れなかった。それどころか心なしか肌つやが良くなっている気さえした。

 私は空になったペットボトルを繋げて筒を作り、脱衣所の窓からタルゴンの背びれに立てかけた。先についたキャップを開けば、筒から引き込まれた水が洗面台に流れ込むという仕組みだ。

 そうして集めた〝タルゴンの天然水〟を煮沸したあとで、私は恐る恐る飲んでみた。



「どう? 美味しいでしょ?」



 きらきらと目を輝かせてのぞき込んでくるエメリに私は答える。



「薄めたポカリの味がする……」



  

 09/15 19:20[トカゲの汗って飲んでも大丈夫ですか?]

 ∟トカゲは変温動物なので汗をかきません

 ∟体表につく水を飲んで生きてるトカゲがオーストラリアにいますよ



   *

 

 09/17 16:45[行政の方がドローンで物資を運んでくださるようです。運べるのは軽いサプリや食品だけのようですが助かります]

 ∟明日にでもタルゴンが消えてくれたらいいんですけどね #青樽市を取り戻せ



 09/22 14:14[支援物資で発炎筒? もらったんですけど、いつ使えと?]

 ∟もらったものに文句言うの失礼ですよ



 09/26 15:23[ツレがタルゴンの背中でキノコ見つけたんですけど食べれますか?]

 ∟三十年細菌学者やっていますがこんなキノコ見たことありません。



 09/26 20:56[ツレに薬を飲ませたいんですけど、食間っていつ飲めばいいんですか?]

 ∟キノコは食うなとあれほど……

 

   *



 タルゴンの背中に取り残されてから二週間が経った。

 電気と水は確保されていて、物資の供給も受けられるようになった。生活の土台が安定し、あとは救助を待つのみ……かと思いきや、予想外の案件にぶち当たる。



「お風呂に! 入りたいっ……!」



 傾いた床で乾電池を転がして遊んでいたエメリが顔を上げる。



「お風呂なら入ってるじゃん」



 エメリが言っているのはペットボトルに穴を開けたお手製シャワーのことだ。私たちは電気コンロで温めた水をそこにいれて体を洗っていた。



「あんなもんシャワーとすら呼べないでしょ……」



 コンロで沸かした水を浴槽に溜めることも試してみたが、満杯になる頃には最初の方にいれたお湯は冷めていて、結局水風呂にしかならなかった。



「あー半身浴したいリンパマッサージしたいストレッチしたいぃ……」



 私が呪文のように愚痴を垂れ流していると、エメリがぽんと手を叩いた。



「そうだ! あれが使えるかも!」



 エメリが駆け足で向かったのは屋根裏部屋だった。引き出し式のハシゴを登った彼女は、奥にある採光用の窓を指さす。



「この窓、タルゴンの背中の穴に繋がってるんだよ」



 方角的にはタルゴンの背中と接している面だったが、窓から外を覗くと、確かにそこには洞窟のような空洞があった。

 窓から這い出す。洞窟の横幅と高さは学校の教室くらいあった。すぼまった入り口を私の家が蓋しているので太陽光はほとんど入ってきていないが、代わりに壁面に生えた苔のようなものがぼんやりと光って穴の中を照らしている。



「たぶんタルゴンの鼻の穴だよ! ここ!」



「いや、背中に鼻はないでしょ……」



「あ、モモモ止まって! そこ危ない」



 エメリが奥へ歩いていこうとした私の髪を掴む。目を凝らすと、進もうとしていた先には半径二メートルほどのくぼみがあった。

 エメリがぴょんとくぼみに飛び込む。深さは彼女の腰のあたりまであるようだ。



「よく分かんないけどここね、なんかあったかいんだよ」



 エメリに促されてくぼみの底を触ると、確かに表面はじんわりと熱を持っていた。



「嘘、なにこれ、床暖房でも入ってんの?」



「ここに水を溜めたらさ、お風呂みたいにならないかなー」



「あのね。そんな都合のいいことが――

 

 ――あったかぁーい!! 生き返る~!!」



 ホースやバケツを駆使して体表を流れる〝タルゴンの天然水〟をくぼみに引き込み、待つこと数時間。想定以上の癒し空間が完成した。溜めた水は底からの熱でちょうどいい湯加減にまで温められている。インテリアとして買っていたオイル式のミニランタンに火をつけると、ちょっとしたアウトドアをしている気分にすらなった。



「うりゃ!」



 私が手で作った水鉄砲でエメリの顔を濡らすと、彼女はけたけたと笑いながら反撃してきた。しかし彼女の水鉄砲は自分の顔に飛んでいき、それを見て今度は私がお腹を抱えて笑った。

 タルゴンの背中に引っかかってから、いや、多分ここ数年でも、ここまで馬鹿笑いをしたのは初めてのことだった。



「あたしそろそろ出ようかな」



「ダメ。もっとちゃんと温まりなさい」



 エメリは口を尖らせたが、結局くぼみの縁に座り、膝から先だけを湯船につけた。



「あんたさ、大きくなったわね」



「モモモのえっち」



 エメリが私よりもアルファベット三つ分は大きいであろう胸をタオルで隠す。



「そっちじゃないわよ! 身長の話! 今も小柄だけど、昔はもっと小さかったでしょ」



 エメリは「そうかなぁ」と呟きながら、足を揺らして水面に波紋を作った。



「自分じゃ分かんないや。でもモモモからしたら三年とか四年ぶりくらいだもんね」



 エメリの言葉が私の脳を刺激する。それによって思い出された記憶は苦い味がした。

 中学に入ってから私とエメリは別々のクラスに分かれた。それでもエメリは毎日一回は私の教室へ遊びに来て、捕まえた虫を見せびらかした。

 そんなことがひと月くらい続いた頃、エメリが自分のクラスへ帰るのを見計らってクラスメイトが呟いた。

 ――エメリさんって、ちょっと変わってるよね。

 周りのみんなもその意見に同調し、エメリの奇行の暴露大会になった。

 ――今持ってきてたのって蛾? 気持ちわる。

 ――俺、あいつがドブに手を突っ込んでなんか取ってんの見たぜ?

 それまで私にとっては当たり前だったエメリの行動をあげつらい、嘲笑し、蔑んだ。

 ――家が隣だからって〝やっかい者〟の相手させられて、桃香も大変だね。

 クラスの全員とエメリの間に引かれている線。その内側と外側、どちら側に立つのかが、次の一言で決まることを私は悟り、

 ――わ、私もエメリには困ってるんだぁ。

 ぎこちない笑顔とともに、その線を踏み越えた。

 本当に言いたかったことは「生き物を大切にする、優しい子なんだよ」だったのに。

 私の陰口が叩かれている場面が頭をよぎった。中学で得た友達を失う恐怖を感じた。

 そんな罪悪感から来るモヤモヤをエメリにぶつけてしまったのは、ひと月ほどあとに彼女が窓から私の部屋へ飛び込んできた時のことだった。

 私はその時、下着の試着をしていた。エメリの知らない友達と出掛けて買ってきたものであることとか、初めてつけるスポーツブラではない下着だったこととか、そういう後ろめたさや恥ずかしさもあり、私は思わず彼女に叫んでしまった。

 ――周りから自分がどう見られてるか、もっと考えなよ!

 突然怒り出した私に戸惑うエメリへ、私はさらに追撃をした。

 ――私がカーテンを閉めてる時は、部屋に入ってこないで。

 それ以来カーテンをずっと閉めっぱなしにしていたので、エメリが私の部屋に来たのはこの時が最後だった。

 彼女が元親友になった瞬間だった。



「モモモはなんだか、すごくきれいになった!」



 エメリの声で意識が今に引き戻される。彼女は屈託のない笑顔で、茶色に染めた私の髪を眺めていた。



「モデルさんやってるって聞いたよ。すごいねぇ」



「ただの読モだよ」



 私は湯船の縁に置いていたスマホを手に取る。ファスナーつきの袋で防水済みだ。

 ツイスタを開くと、私のアカウントのフォロワー数は一億を超えていた。国外の人も怪獣の背中に取り残された私のことをフォローしているらしかった。

 私たちは悲劇の高校生として話題になっていて、テレビ出演の依頼もきていた。有名な芸能事務所から本格的なタレント業務を始めてみないかとの打診もあったし、ファンになりましたというコメントもたくさん寄せられていた。

 でも、なぜか満たされない。なぜか寂しい。

 怪獣の背中に取り残されたからじゃない。もっと前からずっと、私はこの寂しさを感じていた。読者モデルにスカウトされた時やツイスタのフォロワーが千人を超えた時、その瞬間瞬間は幸せで充足感があった。でも、それはすぐに消えてしまい、時々自分がすごくみじめに思える瞬間があった。そんなみじめさを誤魔化すために、私はまた着飾った自分をネットに投稿した。



「すごいねー。だからモモモは変わったんだね」



 屈託のないエメリの言葉が、なぜか私をバカにしているように聞こえた。みじめさを感じている私の被害妄想だと分かっていたのに、口が勝手に動き始めた。



「だって、認められたいじゃん。自分はここにいていいんだって、思いたいじゃん……」



 私はコミュニティからはみ出さないために自分を変えてきた。好き勝手に振る舞うことなくその場に溶け込み、尊敬を得るために努力をしてきた。



「でも、そのままの自分で世の中に認めてもらえる人なんてごく一部でしょ。だったら努力するしかないじゃん。自分を変えるしかないじゃん。じゃないと弾かれるだけじゃん。エメリだって、子供みたいに好き勝手してないで中学の時に一緒に変われてれば今も――」



「でも私は認めてもらうために生きてるんじゃないからなぁ~」



 エメリは洞窟の奥の方を見つめながら、気の抜けた笑みを浮かべた。

 さっき食べたアイス美味しかったなぁ~、みたいな言い方だった。彼女にとっては至極当たり前のことを口にしただけなのだ。

 なぜか目の奥がじわりと暖かくなる。私はお湯で顔を洗った。



「エメリは、ずっとなにしてたの? てか高校どこ?」



「高校は行ってないよ。ちょっと行ってたけど、すぐやめちゃった」



 エメリはばつが悪そうに肩をすくめた。



「友達できなくて、つまんなかったから」



 頭に浮かんだのは、珍しい蝶の入った虫かごを抱えて一人立ちすくむ彼女の姿だった。



「あ、でも海の方にある水族館知ってる? あそこ研究も一緒にやってて、今そこでアルバイトしてるんだー。そこにいるのはおじさんばっかりだけど」



「あんた、それ、寂しくなかったの?」



 私は内心で「好きなことできて楽しかったよ」と答えてくれるのを期待していた。だが、エメリは困ったように「んー」と喉を鳴らした。



「でもタルゴンがいてくれたから」



 期待外れで、そのうえ予想外の答えに私は眉を顰ひそめてしまう。



「夢の中でタルゴンとよく遊んでたの。それで話もいっぱい聞いてもらってた」



「あんたそれ、冗談じゃなくてマジで言ってたの?」



「え、本当だよー。ジャングルみたいなところに小さなタルゴンがいてさ」



 ジャングルに、小さいタルゴン。私が前に見た夢と同じ状況だ。



「家の真下でずっと眠ってたからって、そんなの、あり得ないでしょ……。いや、あり得ないを言い始めたら巨大怪獣がいることがそもそも、なんだけどさ」



「あのジャングルはタルゴンの故郷なんだって。大昔にあの島から海に投げ出されちゃって、ここに流れ着いたんだってさ」



 だからタルゴンもここでは一人ぼっちみたい、とエメリは眉をハの字にした。



「だからたぶん、二度寝が終わったらタルゴンは故郷を探しにいくんだと思う」



「じゃ、じゃあ、それまでにここから脱出しないとね」



 私の発言にエメリは目をぱちぱちとしばたたかせた。



「その時は私ついてこっかなーって思ってるよ! タルゴンに。友達だし!」



 風呂に浸かっているのに鳥肌が立った。エメリに私の常識は通用しないのだ。



「まぁ、タルゴンが動き始めてからの話は、またそのうちってことで……」



 結論を先送りにし、私はタルゴンの湯を出た。

 ルームウェアに着替え、ドライヤーが欲しいなと思ったちょうどその時、洞窟の奥の方から生暖かい風が吹いてきた。



「そういえばこの先って、どこに繋がってんの?」



 スマホのライトで洞窟の奥を照らす。暗くて分かりにくかったが、少なくともすぐそこで行き止まりになっているわけではなさそうだった。



「あたしもすんごく気になってたんだけど! すんごく面白そうだから、冒険はモモモと、って思ってたんだー!」



 冒険に興味はない。だが、奥から化け物や酸性の液体が出てこないとも限らないわけで、ある程度の安全確認は必要なのではないだろうか。



「エメリ、手握って」



「モモモは怖がりなんだからー」



「あんたがどっか行かないようにするためだっての!」



 私がスマホ、エメリがランタンを持ち奥へと進んでいく。十メートルほど先で、洞窟は下り坂になった。奥に行けば行くほどその傾斜はきつくなっていく。



「青樽公園にあるローラーすべり台思い出すね」



「すべんないでよ! 胃袋に繋がってる可能性だってあるんだから!」



 エメリの腕を引っ張って一歩下がらせる。その拍子に、彼女の手からランタンが滑り落ちた。ランタンはかしゃんかしゃんと音を立てながら、下り坂になっている洞窟の奥へと転がっていった。



「あー! ごめん! あれモモモのやつなのに!」



 ランタンの火はどんどんと小さくなっていき、最後には暗闇に沈んだ。



「すごい先まで続いてんのね……ってあれ、なんか揺れてない?」



 足の裏に感じた揺れが大きくなっていく。それはタルゴンが出現した時よりも細かく、揺れと言うよりも震えに近いものだった。

 私はスマホを起動し、タルゴンを24時間映し続けているライブカメラのURLを呼び出す。タルゴンが動き出したのかと思ったのが、その巨体は昨日までと変わらず画面の中央に収まっている。だが彼の上顎がゆっくりと動き始めていた。野球場でも一飲みしてしまいそうな口がぱっくりと開く。

 ボウ、ボウ、ボウ、と大型船の汽笛のような音が洞窟の奥から聞こえ――、次の瞬間、ボウックシュン! と爆音のようなものが洞窟に響き渡る。

 同時に映像の中のタルゴンが火球を吐き出した。



  3



『タルゴンの口から火球が発射されて、今日で三日が経ちました。火球が通過した青樽海水浴場は今も黒い煤すすで覆われています』



 テレビでは火球を吐き出すシーンが何度も繰り返し流されていた。ガマ口財布のようなタルゴンの口から放たれた火球はその頭部と同じくらいのサイズで、専門家によると東京ドーム数十個分の体積があったそうだ。青樽市全域は今も避難区域になっているので犠牲者は出なかったが、海岸では焼け焦げたカニが見つかっているらしい。



「鼻の奥になんか入ってきて、くしゃみが出ちゃったんだろうねぇ」



 エメリが朝食代わりのクラッカーをポリポリとほおばる横で、私はソファのクッションを抱えたまま冷や汗をかいていた。

 私たちがランタンを落としたことが発端だとは誰も気付いていない。だが、タルゴンがくしゃみをしてから、ツイスタへと集まるコメントが明らかに変化していた。

《タルゴンが有害生物だと確定しましたね》《あなたたちがいるせいで駆除が進まないんですが》《タルゴンによる経済損失はこちら》

 くしゃみ事件によってタルゴンに不満を持つ人間が増えたのか、今まで見えていなかった人たちの声が大きくなったのかは分からない。だが、苛立ちや不満を理論武装でラッピングしたようなコメントが私のアカウントにも届くようになった。



「タルゴン、嫌われちゃったのかな?」



 いつの間にかエメリが私のスマホをのぞき込んでいた。慌てて画面を閉じる。



「いや、そういうわけじゃ……」



 言いかけてから、フォローをしようとしている自分に疑問を抱く。私たちはタルゴンのせいでこの家から脱出できなくなっている。だから、タルゴンを排除しようとする風潮が強まることは私にとって悪いことではないはずなのに。

 エメリが俯き、唇を尖らせる。ランタンを落としたことを悔いているのか、タルゴンが嫌われたことが悲しいのか。おそらくその両方なのだろう。

 彼女にかける言葉を探していると、スマホが鳴った。画面には《なんたらかんたら対策室》と表示されていた。

 自分の部屋へと戻ってから通話を開始する。電話の向こうにいたのは、今までやりとりを交わしていた年配の女性ではなく、自衛隊の人だった。



「お待たせしました。あのやっかい者を駆除する準備が整いました」



   4



「ねぇ、モモモ暑いよ……」



「サウナなんだから暑くないと意味ないでしょ」



 私とエメリは浴槽の中で寝転がっていた。蓋は閉じられていて、その上には布団を載せてある。入ってから一分と経っていないのに額を汗が滴っていた。



「汗かくなら温泉でよくない?」



「ダメ。ここにいて」



 ここにいて。心の中で繰り返す。

 スマホで時間を確認すると、自衛隊の人から指定された時間まであと八分ほどだった。

 ――タルゴンの頭部にミサイルを撃ち込みます。

 野太く無機質なその声に、私は「はぁ」と相槌を打つことしかできなかった。

 それから計算によればタルゴンが横へ倒れることも、衝撃で家が崩れることもないはずだと、難しい言葉や数式を交えながら説明された。

 私にちゃんと理解できたのは、攻撃の間、万が一に備えて浴槽に隠れていてほしい、という指示だけだった。

 エメリにはこのことを話していない。ダイエットのために手作りサウナで汗をかこう、と提案した。そして彼女はそんなバカな嘘を信じ込んだ。

 ミサイルが外れてこっちに飛んでくるんじゃないかとか、タルゴンが暴れて振り落とされるんじゃないかとか、そういう不安は別になかった。偉い人が大丈夫って言ってるんだから大丈夫なんだろう。そんな感覚だ。

 なのに、心はざわざわとして落ち着かず、今まさに家が燃えているかのような焦燥感だけがあった。

 自分に言い聞かせる。私は間違ってない。これがみんなの、世の中のため。むしろ私は危険を受け入れて駆除に協力しているのだ。褒められるべきだ。これが終わったら、みんなが私を拍手で迎えてくれるはずだ。



「モモモ? 怖いの?」



 いつの間にか、私はエメリの手を握っていた。



「ううん。ただ、ここ数週間のこと思い出してた……。あんたには助けられたなって」



 ひょんなことから始まった元親友との共同生活。怪獣の背中の上ではエメリの向こう見ずな性格が危機を切り開いてくれたし、楽観的な気質が私の心を支えた。

 背中に引っかかってよかった、とは口が裂けても言えない。でも、こんな状況になったからこそ私は思い出した。



「私、昔からあんたのそういうところに憧れてたんだよ……」



 エメリは小さいのに強くて、バカなのに私よりもずっと広い世界を見ていた。彼女の瞳はいつも輝いていて、一緒に過ごす時間は私にとって宝物だった。

 だからこそ、クラスメイトにエメリを否定された時、心の底から怖かったのだ。私がこんなにも認めている相手を拒絶する人が、こんなにもいるのか、と。

 だから私は自分を変えた。変わってしまった。



「そういや、タルゴンが出てきた時もあんた笑ってたよね。怖くなかったわけ? あ、もしかして夢の中でタルゴンにいつ起きるか聞いてたとか?」



 エメリは「そんなことないよぉ」と笑う。



「私もびっくりしてたけど、それよりもね、嬉しかったから」



「嬉しかった? なにが?」



「モモモの部屋のカーテンが、開いてたから」



 時間が止まったような気がした。彼女の言葉を理解するのにそれだけの時間がかかった。



「あたしね、毎日見てたんだよ。今日はカーテン開いてないかなーって」



 ――私がカーテンを閉めてる時は、部屋に入ってこないで。

 三年以上も前の苛立ち紛れに押しつけた約束。彼女はそれを律儀に守っていたとでもいうのだろうか。そんなバカな。いや、そんなバカをするのが東条エメリだ。



「だから久しぶりにこうしてモモモと話したり、ご飯食べたり、お風呂入ったりできて、すんごく嬉しかったんだぁ」



「バカじゃないの。なんで、そんな……」



 声が震え、エメリの顔が涙で歪んだ。



「私なんて、臆病で、いいかっこしいで、卑怯な、嘘つきなのに……」



 エメリが浴槽の中で体を起こす。蓋に頭を打ち付けながら、私に覆いかぶさった。



「やめてよ」



 大きな二つの目で彼女はまっすぐに私を見つめた。



「あたしの親友を、そんな風に言わないで!」



 私は思い知る。元親友だと思っていたのは私だけだったのだ。彼女は今も――。

 そうか。だからきっと私は――。

 理屈や理由を言葉にする前に体が勝手に動く。心の底から湧き上がった衝動を足に乗せて、私は浴槽の蓋を蹴り飛ばした。



「モモモどしたの? サウナ終わり?」



「終わりよ! こんな狭いところでじっとしてる場合じゃないの!」



 私は涙と汗を一緒くたに拭き取り、エメリを抱き上げながら立ち上がった。



「救いにいくよ! あんたの友達!」



「すくうって、どゆこと?」



「ミサイルから! タルゴンを助けるの!」



 スマホで時刻を確認する。もうミサイルの発射まであと数分というところだった。もう時間はない。救うって言っても、どうやって?

 逡巡の末に思いついたのは自分でもバカらしく思える一つのアイディアだった。



「ええい、一か八かだけど、やらないよりはましでしょ!」



 浴室を飛び出し階段を駆け上る。途中ですねをぶつけたが痛がっている暇などない。



「エメリ、私の部屋から発炎筒取ってきて!」



「はつえんとー?」



「この前ドローンが運んできた、ダイナマイトみたいってあんたが振り回してたやつ!」



「あぁ、あれね! 分かった!」



 エメリを待つ間、私はスマホを操作しニュース画面を表示した。そこではヘルメットをかぶったレポーターが鬼気迫る顔でタルゴンを指さしていた。レポーターの横ではタルゴンが駆除されるところを見にきた野次馬がごった返している。



『あそこに見えるのが、海上自衛隊のミサイル搭載型護衛艦〝すずは〟です! 甲板の大きな筒が動いているのが見えますでしょうか!』



「モモモ! とってきた!」



 私はエメリが投げた発炎筒を受け取り、スマホをポケットに突っ込む。それから廊下を駆け抜け、屋根裏へ続くはしごに飛びついた。



『あぁ! たった今! ミサイルが発射されました! 1、2、3……、五基です! 五基のミサイルが打ち出されました!』



 はしごを登り切り窓を目指す。屋根裏の低い天井に頭をぶつけないように這っている自分は人と言うよりもトカゲの仲間のようだった。



『上空に打ち出された五基のミサイルが角度を変え、一直線にタルゴンの頭部へ向かって飛んでいきます!』



 レポーターの声の後ろからは、たくさんの人間の歓声と拍手が聞こえた。



『今! 今世紀最大の〝やっかい者〟が駆除されようとしています!』



「やか! ましぃー!」



 窓から這い出し、タルゴンの背中に空いた洞窟へと飛び出す。そのままの勢いでエメリと作った温泉を飛び越え、発炎筒のキャップを外した。

 着火部を地面にこすりつけると、発炎筒の先から真っ赤な炎が噴き出した。

 手持ち花火のように煙と炎を吹き出す発炎筒を思い切り振りかぶる。その刹那。火花で髪が燃える匂いがした。

 私を親友だと言い切ったエミリを見て気が付いた。どんなにフォロワーが増えても、学校のヒエラルキーを上り詰めても、寂しくてみじめなままだった理由が分かった。

 私自身が、私を認めていなかったからだ。

 エメリに憧れて、エメリのことが大好きで、そのことに一ミリも疑問を抱いていなかったあの日の私が、今の私を蔑んでいたからだ。

 きっと今、親友の友達を助けられなかったら、私は一生自分を認められないだろう。

 ――家が隣だからって〝やっかい者〟の相手させられて、桃香も大変だね。



「二度も! 間違えてたまるかぁ!」



 周りなんてどうでもいい。

 私はもう、親友を見捨てたりしない――!



「いっ……けぇえええええぇえぇ!!」



 発炎筒を洞窟の奥へ向かって力の限り放り投げる。

 赤色の炎を噴き出しながら発炎筒が飛んでいく。描かれた自由落下による放物線は洞窟の傾斜とぴたりと一致し、炎は回転しながらタルゴンの体内へと落下していった。

 やがて赤い光が闇に消え、私の周りには煙の残り香と静寂だけが残される。



「モモモ!」



 一足遅れて私に追いついたエメリが抱きついてくる。状況をなにも理解していないはずなのに彼女は興奮気味だった。まるで楽しそうな飼い主につられてテンションが上がってしまった大型犬のようだ。



「なになに! なんでくしゃみさすの!?」



 ランタンを落とした時と同じように洞窟が揺れ始める。私がスマホを取り出すと、エメリも私の頭にごちんと頭突きをしながら画面をのぞき込んだ。



『あぁ! タルゴンが口を開けております! 飛んでくるミサイルに向けて大きく口を開けております!』



 洞窟内にボウ、ボウ、ボウ、と汽笛が響く。私は心の中でそれに重ねて呟いた。



「3、2、1……」



 ボウックシュン!

 洞窟内を熱風が吹き抜ける。同時に、画面の中のタルゴンが火球を吐き出した。火球は前回よりも一回り大きい。真っ直ぐに進んでいった火球は、海の上で対面から飛んできたミサイルを飲み込む。すると、火球の中で小さな爆発が起こった。

 ミサイルの中の一基は火球に飲み込まれることなくその横をかすめた。だが、すれ違うと同時に穴の開いた風船のようなめちゃくちゃな軌道を描き、最後には海に落下した。火球の衝撃や熱がなんらかの影響を与えたのだろうが、私の目にはミサイルが火球に驚き逃げ出したように見えた。



「タルゴン、守ってくれたの?」



「友達の友達、だからね……」



 エメリは目をうるうるとさせながら私に抱きついた。



「嬉しい。ありがと、モモモ」



「いや、褒められるようなことじゃないんだって」



 一度は見捨てようとしていたことを打ち明ける。しかしエメリは怒ることなく私の胸の中でずびびと鼻水をすすった。



「それでも、すんごくありがとう、だよ」



 なんと返すべきか考えていたのだが、途中で異変に気が付く。おかしい。前回火球を吐き出した時にはすぐ収まった揺れが、今もまだ続いている。



『あぁ! なんということでしょう! タルゴンが!』



 スマホからレポーターのものとは思えない裏返った声が響く。



『タルゴンが動き出しています! 瞼が! 瞼が開いて、え! そこが目だったの!?』



「起きたんだ! タルゴン!」



 画面の中のタルゴンが短い足を動かすたびに、ずしんずしんと洞窟も揺れた。タルゴンは青樽市の中心部から、ほんの八歩で海岸線へとたどり着いてしまう。



「待って待って待って待って! え! いくの!? 海!」



 私は揺れに何度も転ばされながら家へと戻った。たどり着いた自分の部屋の窓から外を覗くと、もうタルゴンの体の下半分は海に浸かっていて、蛇行する尻尾のその先に小さくなった青樽市が見えた。



「嘘、でしょ……」



 遅れてエメリがやってくる。彼女はぴょんぴょん跳ねながら、遠ざかっていく青樽市に手を振り始めた。

 二つ隣の背びれの間から海水が吹き上がる。



「わっ! クジラみたい! あ、そか、やっぱ背中の穴は鼻なんだよ! 息継ぎ用だ!」



「いや、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」



 タルゴンが自衛隊の護衛艦とすれ違う。陸上にいる間は遥か彼方に地面があり飛び降りることはできなかったが、タルゴンが泳いでいる今は窓からほんの数メートルの位置に海面がある。今飛び込めば、きっと彼らが助けてくれるだろう。

 私の考えに気付いたのか、エメリはしゅんとしながら上目遣いで私の顔をうかがった。



「モモモは、帰る?」



 タルゴンが進んでいる方角を振り返る。見えるのは私の部屋の汚い一角だけだった。でも私は想像する。その先に広がる、青く広い海を。



「帰るもなにも、ここ、私の家」



 エメリの額にデコピンをかます。



「あんたのことも心配だし、こいつを家に帰すまでは付き合ってあげるよ」



 その時エメリが浮かべた笑顔は、今までネットにあげたどんな写真よりも映ばえていた。

 でも、アップなんてしてやらない。これは、私が独り占めするんだ。
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4、作家名
海冬レイジ
KAITO REIJI

参加作品
少女人狼ガール ル ガルー♥愛されピンク
少女人狼(ガール ル ガルー)♥愛されピンク
      1



 頭のオカシイやつというのは、いるものだ。

 とても常人の理解が及ばない、筋金入りのイカレ野郎というものは。



「ジンローって、見たことあります?」



 12月のある夜、冴え冴えとした満月の下、ひと気のない路地裏で。

 唐突な血だまりの中に突っ立って、そいつはピンク色のガムを膨らませていた。



 周辺の建物から漏れた光が、美しく整った横顔を照らす。

 パピヨン犬みたいな、ふわふわの盛り髪が目立つ。深夜にもかかわらず制服姿で、その上から飛龍のスカジャンを羽織っている。鞄の代わりにギターケースを背負い、拘束具を思わせる無機質なチョーカーをつけていた。



 コンバースの靴が踏むのは、今しがたそうなったばかりの、新鮮な死体。

 雑に引き裂かれた胴体から、臓物がはみ出ている。強烈な鉄の臭気が、腐った魚、猫の尿、暖房の油煙、排気ガスなんかと入り混じり、ひどく臭い。



 ――こいつは一体、何者なんだ?

 夜の殺人現場で、ガムを噛んで、わけのわからないことを言っている。



 僕が答えられずにいると、そいつはガムを引っ込め、唇を不満げに突き出した。



「無視すんなし。返事くらいしてくらさ――」



 途中で目を見張る。それから僕を指差し、くるくると空中をかき回した。



「あ、あ~、生徒カイチョーの……貴村たかむらリビト――センパイだ❤」



 にっと口角を上げる。発達した犬歯がのぞいた。



「うちのコト、知ってます? 先週、転校してきたばっかの~」



「……四方霧よもぎり」



「ざくりっす。ヨロシク~☆」



 ピースサインをあごに当て、片目をつむる。鮮烈にも思える、まぶしい笑顔。恋に落ちてもおかしくなかった。ここが殺人事件の現場でなければ。



 膝の震えを自覚しながら、僕は血だまりの中を示した。



「……足もとの、それは……おまえがやったの、か?」



 ざくりはカカトで死体を蹴たぐり、きゃっきゃと楽しげに笑った。



「そんなん、JKには無理っしょ~! ジンローの仕業っすよ、ジンロー」



 あまりに唐突な単語だったので、漢字に変換されるまで、かなりかかった。



「ジンロー、って……人狼? 人狼ゲームの人狼?」



 ざくりは答えず、天に電話をかざし、おそらくは僕と並んだフォトを撮る。



「チェキ♪」



 ――それは『チェキ』ではないだろう。あるいは『check it』と言ったのか。……いや、そんなことより。



「何……撮ってんだ?」



「今夜ここで見たコト、ナ・イ・ショ、にしてくぇません?」



 言葉のキャッチボールを拒否して、頭のオカシイ女は僕に身をすり寄せた。

 イチゴ味の甘ったるい吐息が、熱く僕の耳にかかる。



「ね? いーれしょぉ? セ~ンパイ❤」



 ゆるめ過ぎの胸元から、桃&黒の派手な見せブラがのぞいた。



 ……そんなものに釣られたわけではない。そうではないが、ともかく僕は拒絶するタイミングを完全に逸した。



 そうして、何だかわからないままに。

 得体の知れない美少女かいぶつと、おかしな縁を結んでしまったのである。




      2



「でねでね! その子の正体は、実は宇宙人だったの!」



 月曜の朝、僕は生あくびを噛み殺しながら、自分の教室に向かっていた。

 ここのところ、寝つきが悪い。無論、あの夜からだ。平穏を愛し、退屈な日常こそ尊いと思う僕のような凡人にとって、四方霧ざくりの存在は劇毒だった。



「その宇宙人はね、男が女を食べちゃうことで繁殖するの! もともとがそういう生き物を、地球の倫理観で裁けますか、っていうおはなしなんだけど――」



 聞こえていた声が途切れる。次の瞬間、目の前に怒った顔が現れた。

 黒髪の清楚な美人。僕よりも頭ひとつ背が低く、小動物的な可愛らしさがある。



「リビトくん、聞いてます?」



 黒目がちな眼でにらむ。すねた顔もたいそう可愛い。

 僕はおぼろげな記憶をたどり、とりあえず話を合わせた。



「大昔、そんな漫画があったって話だろ?」



「そ、そうなんだけど……うっすら、聞き流してたでしょ!」



「まさか。僕が占賀うらがのことを雑にあしらうわけないじゃないか。何たって、小中高ずっと一緒の幼なじみなんだぜ?」



 彼女――占賀るみあとは家も近い。当然、親同士も顔見知りだった。中学で疎遠になりかけたが、同じ高校に入ったことで、再び距離が縮まった。結果、僕が愛する『平穏な日常』に少々カゲが落ちることになるのだが……それはさておき。



 幼なじみの気安さで、僕はいい加減な軽口を叩く。



「いつだって君のことを考えてるし、君の声に耳を傾けてるよ。側にいなくてもね」



「うぅ……だまされてる……わたし絶対、だまされてるよぉ……!」



 頭を抱えて苦悩する。そんな占賀を微笑ましく思っていると、ぽんと背中を叩かれた。



「おはよ、貴村!」



 振り向くと、元気印のポニテ女子が、爽やかに笑っていた。



「おはよう、逢坂おうさか」



「どしたん? 廊下の真ん中で――」



 逢坂は僕の前、占賀をちらりと見たようだったが、何も言わずに顔を戻し、



「予鈴、鳴ったよ。早く行こ?」



 はねるような足取りで歩き出す。実に溌剌はつらつとしている。一方、占賀は急に塞ぎ込み、口をつぐんでしまった。



 教室に入るまでに、僕は数人の級友と挨拶を交わした。が、占賀に声をかける者は一人もいなかった。それどころか、誰も視界に入れようとしない。



 あの事件があってからというもの、占賀の存在は腫れ物扱いで、皆に無視され、いない者として扱われている。

 事情が事情だけに、仕方がないとも思う。彼らにとってはそれが自然なのだろうし、僕自身、あの惨劇を蒸し返すようなことは……したくない。



 とは言え、僕は占賀の友人であり、彼女の味方でいたいと願う一人だ。

 だから、教室にそれを見つけたときは、黙っていられなかった。



 窓際の一番後ろ、占賀の机の上に、一輪挿しの白い花瓶がのせられている。

 生けられているのは、しおれ、枯れた花――



 さすがに見過ごせず、僕は思わず声を荒らげた。



「何だよ、これ! さすがにこれは――」



「おーす、ホームルーム始めっぞー」



 間の悪いことに、クラス担任が教室に入ってきた。

 この際、彼に訴えるべきだ。僕は教壇に向かって踏み出しかけたが、僕が何か言う前に、占賀がきびすを返し、廊下を走り去るのが見えた。



「何だ、貴村? はよ座れー」



「っ……保健室、行って来ます!」



 無神経な担任にそう言い捨て、僕は教室を飛び出した。



 ひと気のない廊下を走り、占賀の背を追う。料理部所属のくせに(?)占賀はかなりの俊足を発揮し、すぐに見えなくなった。



 階段に駆け込んだところまでは見えていたのだが、上に行ったのか、下に行ったのか、それがわからない。耳を澄ましても、足音などは聞こえない。



 少し迷ったが、僕は上を目指した。この学校は屋上が開放されている。ネットをかけ、虫かごのように覆って、運動場にしてあるのだ。放課後はバレー部が練習に使っているほどで、もちろん安全ではあるのだが……。



 ネットを突き破る手段があれば、飛び降りることはできる。



 最悪の想像に怯えながら、僕は階段を駆け上がる。占賀を取り巻く状況が、こうなってしまった原因――半年前の事件を思い返しながら。



 半年前の6月、校内で一人の女子生徒が死んだ。

 ……死んだ?

 いや、違う。殺されたのだ。頭のオカシイ殺人鬼によって。



 あまりに強烈な光景ゆえに、今でも僕の頭に焼きついている。

 場所は放課後の家庭科室。床は一面、血の海だった。投げ出された白い肉――それが右足であることは、上履きの向きでわかった。断面はケチャップをディップしたソーセージのようで、胴体とは繋がっていなかった。



 その切断された足の前に、占賀るみあが座り込んでいた。

 殺人の現場に。一人きりで。



「う、占賀……!? なん、で……こんな……っ」



 血の臭いにむせてしまい、上手く言葉が出てこない。勝手に呼吸が速くなり、僕は溺れかけた人のように、酸素を求めて激しくあえいだ。



 子どもの頃から知っている彼女、よく知っている友人が、今ではもう、知らない何かになってしまったような、そんなおののき――

 それを否定したくて、僕は血の海に踏み入り、彼女を揺さぶった。



「何が……あったんだ?」



 逆流する胃液をこらえながら、犠牲者の遺体を一瞥いちべつする。

 ボタンをむしり取られ、むき出しになった乳房。鉤爪で力任せに引き裂いたような、雑な傷痕が縦に走り、中身が一部、舌のように飛び出している。



「占賀! 何とか言っ……言ってくれ!」



 耳元で怒鳴っても、占賀は答えてくれなかった。



 透明な涙が頬を濡らしている。占賀はガラス玉のように虚ろな瞳で、いつまでも自分の手元――両手で握りしめた、銀色の包丁を見下ろしていた。

 血の一滴もついていない、誰も傷つけていないはずの、その刃を。



 あれから6か月が経つというのに、事件は未解決のままだ。

 凶器がわからず、殺害方法もわからない。熊の仕業だとほざく無責任なコメンテーターもいたが、校内にいた者も、近隣住民も、誰もそれを見ていない。



 無論、占賀が犯人であるはずはない。それは、あり得ない。包丁などでは絶対につけられない傷に見えたし、彼女が握っていた包丁には血も脂もついていなかった。



 そもそも、あれは人間にできる所業か?

 どんなイカレ頭だろうと、人間の膂りょ力では難しい。放課後の校舎に入り、誰にも見られず実行できるとすれば、それはやはり人間ではない、別の何かだ。

 そう、たとえば――



 先日聞いた単語が脳裏をよぎり、僕は自嘲した。



「……馬鹿な。何を考えてる」



 理屈に合わないから、人狼の仕業だと? それは推理とは言わない。オカルトマニアがよくやる妄想。自分が好きな空想に、現象をあてはめているだけだ。



 ――だが。

 ざくりが踏みつけていた、あの遺体。半年前のそれと、似ていなかったか?



「……つうか、そもそもあいつは何なんだ?」



 膨らんだガムを割るように、一発で僕の平穏をブチ壊した。おかげで僕は調子が狂い、占賀も見失って――いや、これは八つ当たりか。



「四方霧ざくり、か……」



「ほい?」



 聞き覚えのある声に、僕は飛び上がった。



 いつの間にか、屋上に出ている。冬の屋外は当然寒く、切りつけるような風が吹いていたが、そいつは階段室の屋根に座って、平然とガムを膨らませていた。



 ガムを引っ込め、「にししっ」と犬歯を見せて笑う。



「こんちっす☆ リビトセンパイ❤」




      3



「いーけないんだ♪ 生徒カイチョーが朝イチ、サボリとか~」



 小悪魔っぽい笑みを浮かべ、ざくりは僕をはやし立てた。



 盛り髪が揺れる。太陽の下で見るその髪は、正気を疑うピンク色。メッシュなのかハイライトなのか、ところどころが金色で、インナーカラーはエメラルド。何て派手なカラーリングだ。おまえの頭はサーティーワンか。



「会えるなんて、らっき❤ せっかくですし、デートしません?」



「どのへんが『せっかくですし』だ。切腹も切迫流産もあるか」



「せっくす?」



「言ってねえええ!」



 僕は早くもヤツのペースにのまれ、ざくりはますます調子づく。あはー、と馬鹿笑いする彼女に業を煮やしつつ、僕は冷静ぶって声を抑えた。



「……あのな、四方霧」



「ざ・く・り。いー加減、名前で呼んれくぁさいよぉ」



 なんて? と確かめたくなるくらい、舌っ足らずのしゃべり方をする。これがコイツの平常運転であり、脳にダメージを負っているわけではない。



 と言うか、それ以前に――



「距離感が壊れてるぞ。いい加減なのはおまえの測距計だ」



「え~? センパイ、ノリ悪~。オクテのヒト~?」



「黙れパリピ。……つうか、大丈夫なのか、その顔」



 ざくりの左頬に、ペンキでもはねたかのように、赤い飛沫が飛んでいた。

 萌え袖にしたスカジャンで、ざくりはこしこしと頬を擦る。あらわになった頬はつるりとして、傷のようなものは見当たらなかった。



「あえ? うちの血やないれすね」



「返り血……? また誰かバラしたのか? 登校中に?」



 僕が冷ややかに問うと、ざくりはむすっとして、唇をとがらせた。



「しーまーせーんー。センパイ、うちのコト何らと思ってるんぇす?」



「『悪目立ちする転校生』だったが、先日『頭のオカシイ殺人鬼』に昇格した」



「しっつれー! でもま、当たってるカモ❤ にししっ」



「ついでに『関わりたくない危険人物ランキング全一』だ。じゃあな」



「やぁ~ん、まだイかないれぇ!」



「妙な声出すな! 何が『やぁん』か!」



 鼻にかかった甘い声が、あらぬ誤解を生みそうだ。僕はあわてて視線を巡らせたが、幸い、と言っていいのか、占賀の姿は見当たらなかった。



 占賀の姿が見えないならば、ここに長居する理由もない。だが、ざくりは玩具おもちゃ――僕を逃がすつもりがないらしく、ひょいっと身軽に屋根の上から降りてきた。

 短いスカートをギターケースが噛み、尻のくまチャンがコンニチワする。指摘するのも野暮かと思い、僕は気付かなかったふりをした。



 ざくりは急にしおらしくなり、恥ずかしそうな上目遣いをした。



「あの……実はセンパイにお願いがあってぇ……」



 もじもじと至近距離から僕を見る。まるで、隙だらけの胸元を見せつけるように。――コイツは絶対、わかった上で挑発している。のせられるのは癪なので、僕は理性を総動員し、平常心を保ってざくりを見返した。



 派手な顔だが、印象よりもメイクは薄い。ラメ入りのアイラインと、ピンクのリップが目につくくらい。長いまつ毛は自前のようで、自然なボリュームだ。



「センパイのコト、すっごく気になるの。やから、付き合って欲しい」



 無論、コクるコクらないの話ではない。



「……人狼探しに、ってんじゃないだろうな?」



 思った通り、ざくりは『にっ』と唇を横に広げた。



「さっすが❤ 生徒カイチョーかしこい❤ おりこう❤」



 煽られても、気にならない。僕の頭は別のことに占められている。

 半年前、無惨に損壊されていた――人間の仕業とは思えない――あの遺体だ。



「おまえが言う人狼ってのは、何だ? そもそも……」



 現代に生きる常識人として、当然の疑問をまずぶつける。



「『いる』と思ってるのか? 本当に?」



「どーして『いない』と思うんれす? 逆に?」



 面倒くさいことを言い出した。オバケやら宇宙人やらがいるかいないか論争か。

 不毛な議論はしたくない。僕は別の角度から問うた。



「質問を変えよう。どうして、それを探してる?」



 ふと、ざくりの眼が遠くなった。

 紅茶色の瞳に冬の空を映し、彼方を見つめる。まるで死びとのように静謐せいひつに。小悪魔的な表情はなりを潜め、初めて会ったときと同じ、ある種の神々しさが漂う。



 そうして、ざくりはひと言、



「さみしいから」



 と、つぶやいた。



 寂しい――とは、どういう意味だろう。言葉通りの意味なのか。自分と同じ怪物を見つければ、その寂しさは埋まるのか。



 不可解さで胸焼けがする。だが、質問を重ねる暇を、ざくりは与えてくれなかった。

 僕の腕にしがみつき、胸で挟み込むようにしながら、甘えた声を出す。



「ね? いーれしょぉ? 一緒に犯人を探しましょうよぉ。センパイだって気になってゆれしょ? あの事件の第一ハッケンシャだもんね?」



 ……悔しいが、その通りだ。この半年間、ずっと気になっている。



 怪物の仕業です、なんてヨタ話には賛同しないとしても。

 犯人が捕まっていないのは事実で、これでは平穏な日常とはとても言えない。占賀のことだって、いつまでも放ってはおけない。このままでは早晩、心が壊れてしまう。



 この『頭のオカシイ』ざくりなら、あらゆる常識をぶっ壊して、警察がたどり着けなかった真相にも到達できる……かもしれない。



 それを黙って見ているなんて、できない。何もしなければ、絶対に後悔する。

 だから、僕はこう答えた。



「わかった。やろう」



「やった~♪」



 はしゃぐざくりは愛らしかったが、こいつの言いなりになるのは腹立たしい。僕はちょっと意地悪な気分になって、嫌みったらしくたずねた。



「で、報酬は? タダ働きってわけじゃないよな?」



「え!? え~っと……なんと! ざくりチャンの『友だち』カテに入れたげます!」



 ざくりは電話を取り出して、メッセージアプリの画面を見せた。



「こぉんなkawaiiコの連絡先ゲットれすよ♪ やりましたねセンパイ❤ モテお❤」



「やめた。帰る」



「待ってぇ! えと、えと、じゃあ――ガム貸したげます! ぁい、ろーぞ❤」



「しまえ! きたねえ!」



「き、きたなくないしぃ! そんなんゆってたら、ちゅーもできないしぃ!」



 ざくりの唇が妙に艶なまめかしく見えて、僕は赤面した。ギャルっぽいやつから『ちゅー』とか聞くと、妙な生々しさを感じてしまう。



 ざくりは「ふむ」と考え込んだ。シリアスな雰囲気を漂わせ、マジ顔で訊く。



「じゃあ――うちのばりエロいパンツ……見ます?」

「hentai路線から離れろ! つうか、おまえ今日くまチャンだろうが!」

「びにゃ!?」



 奇声を発し、かーっと赤くなる。こいつにも恥じらいがあったのか……なんて淡い期待は2秒後に裏切られた。ざくりはスカートの前をぺろんとめくり、



「まじだ……エロいのはいてない……! 勘違いして、恥っずぃよぉ……!」



「恥じらいポイントそこかよ! つうか馬鹿! おまえもう、すべてが馬鹿!」



「あはー☆ センパイ、テンパってヘン♪ おっかし♪」



「おまえはお脳がテンペストだわ……」



 こいつのノリに付き合っていると、精神が汚染されそうだ。僕は無駄話を打ち切り、



「報酬の話はもういいよ。それで結局、僕は何をすればいいんだ?」



「とりま、LINE交換しましょ~。センパイでもできそーなシゴト、明日までにざくりチャンが考えときますから」



 さらっと無能扱いされた。若干イラリとしたが、頭のオカシイ殺人鬼から見れば、男子高校生など貧弱な小僧でしかないのだろう。仕方がない。



 しぶしぶ二次元バーコードを見せ、登録させる。こんなやつと繋がって本当に大丈夫かと不安になりながら、承認ボタンを押したところで、それに気付いた。



 階段室の入り口、鉄扉の曇りガラス越しに、こちらをのぞく占賀が見える。



 ざくりが僕の視線を追い、そちらを見る。普段眠そうな眼に、油断ならない知性の光が閃き、何か――疑惑を深めたように見えた。

 しかし、何もコメントしない。ざくりはとぼけた調子に戻って、



「オッケっす。センパイは授業ぇす? うちは今日もうオワリぇすけど」



「始業したばかりだろうが。おまえも教室に戻れ」



「ばいばい、センパイ♪ あとでLINEするね❤」



 またしても会話のキャッチボールを拒否。

 ぶんぶん手を振るざくりには、尾を振る犬のような可愛げが、なくもなかった。




      4



 階段室に入った僕を、占賀は早速、詰めにかかった。



「今の子、誰?」



 冷え切った声音で、厳しく問う。



「僕もよくわかってないんだが……まあ、頭のオカシイ後輩?」



「あの子とは、もう会わない方がいいと思う」



 すっぱり言われて、僕は面食らった。占賀は人当たりがよく、そんなことを言うタイプではなかった。少なくとも、半年前までは。



「わたしのこと、すっごく嫌な目で見たし」



「……チラッと見ただけだろ?」



 さすがに被害妄想だ。ざくりから見えたとも限らない。



「むしろ――話してみないか? 君のこととか、色々」



 占賀の顔に怯えが走った。白い肌をますます青白くして、小刻みに首を振る。



「そんなこと……できるわけないでしょ!? わかってるくせに!」



「あいつは転校生で、偏見もない。腹を割って話してみれば、案外、友達に」



「リビトくんには、わたしがいればいいじゃない!」



 校舎中に響き渡るのではと心配になるくらい、激しい叫びだった。



「わたしには、リビトくんだけなんだよ……!?」



「貴村?」



 と、不意に名を呼ばれた。



 眼下、三階の廊下から、女子が僕を見上げている。

 同じクラスの逢坂のえみ。HRが終わったので、廊下に出て来たらしい。



 占賀が手すりの陰に引っ込む。そちらを背中に隠しながら、僕は階段を降りた。



「驚かせてごめん、逢坂」



「えっ? そんな別に……何か、お邪魔だった?」



「いや、そんなことは――」



 と、逢坂が握っているものに気付く。占賀の机にあった、あの一輪挿しだ。



「逢坂、それ……」



「あ――まあ、その、さすがに可哀想かなって……めっちゃ枯れてるし」



 逢坂は恥ずかしそうに、しおれた花を引っこ抜き、ごみ箱に投げ捨てた。



「いいやつだな、逢坂」



「ちがっ……そんなんじゃないし! 日直――ではないけど、それ的なやつだし!」



 あわわっと片手を振って否定する。それから、哀しげに目を伏せて、



「あたしも……無関係じゃ、ないから」



「どういう意味?」



「あのとき……事件の日ね、あたし、ほんとは見たの。だけど、そのこと上手く説明できなくて……だから、犯人がまだ捕まらないのは、あたしのせいかもしれない」



「見たって――犯人をか!?」



 僕が食い入るように見つめていると、逢坂は自信なさそうに続きを言った。



「貴村も絶対、信じられないと思う。刑事さんも半笑いで……だけど、確かに見たの。大きな、毛むくじゃらの……黒い……何だろ……熊……犬――みたいな」



 一瞬、僕は呼吸を忘れた。



 こんな身近に、目撃者がいたのだ。言っていることは確かにファンタジーで、世間的には荒唐無稽。ざくりと出会う前の僕なら、笑って聞き流していただろうが……。



「その話、もっと聞かせてくれ!」



「う、うんっ? いいけど……」



 思わず逢坂の肩をつかんでしまう。僕はあわてて手を離し、それから、周囲を見回した。廊下は多少ざわついていたが、騒がしいのは教室の中で、廊下を歩く者はいない。



 ……この話をここでするのは、危険だろうか?



 逢坂の見たモノが、ざくりの探している存在なら、あいつがどう出るかわからない。漏れても安全な情報かどうか、まずはこちらで判断したい。



「後で――学校が終わってから、会えないか?」



「えっ? 放課後? あたしとっ?」



「うん。さっきの話、詳しく聞かせて欲しいんだ。二人だけで」



 気がつくと、逢坂はほんのり頬を染め、呆けたように僕を見ていた。



「逢坂――どうかした?」



「えっ、ううん! 何でもない!」



 ごまかすように笑う。漂う緊張感、不自然な挙動から、僕は察した。



「……ごめん。思い出したくないよな、事件の記憶なんて」



「だ、大丈夫、頑張る! 好きな人の頼みだもん、このくらい……」



 事件の凄惨さとは全く無関係な理由で、逢坂は硬直した。

 見る間に耳まで赤くなり、花瓶を放り出し、両手で顔を覆う。



「今の、なし!!」



 悲しいくらい無意味な主張。ちなみに、花瓶は僕が空中でつかまえた。



 逢坂は顔を隠したまま、「……だめでしょうか?」と訊いた。僕は苦笑して、



「なしでいいよ。でもまあ、聞こえてしまった」



「だよねええ! ばかだああ!」



 しゃがみ込み、打ちひしがれる。逢坂はしばし羞恥に悶もだえていたが、やがて思い切ったように立ち上がり、潤んだ瞳で僕を見つめた。



「あの……ずっと前から好きでした」



 開き直ったらしい。フランクな級友の突然の丁寧語は抜群の破壊力を発揮し、僕の心臓を見事に射抜いた。こちらまで体温が上昇し、万事がぎこちなくなる。



「それは……ありがとう。光栄……です」



「脈、ない?」



「なくは…………ない」



 ぱあっと逢坂の顔が明るくなり、魅力的に輝いた。おいやめろ。これ以上、可愛いところを見せるんじゃない。うっかり襲ってしまったら、どうする。



 僕は欲望の首根っこを押さえつけ、あくまでも真面目に言った。



「好意につけ込むようで悪いけど、放課後、付き合って欲しい。場所は……そうだな、駅周辺の喫茶店とか――僕の家でもいいけど」



「家っ!? 貴村のっ!?」



「いや、別に家でなくていいんだが……」



「い、行く! むしろ行きたい!」



「そ、そう? じゃあ、そうしよう。とりあえず、連絡先」



 ざくりと交換したばかりで、またひとつ新規の連絡先が増えてしまう。

 逢坂は電話の画面をしげしげと眺め、はにかんだように笑った。



「えへへ……じゃ、あとでね!」



 小走りで去っていく。細い腰、しっぽのように揺れる髪に、僕は何だかむずむずした。甘やかな気分で逢坂を見送り――不意に背筋が凍りつく。



 おそるおそる、後ろを振り向く。

 思った通り、階段から僕を見下ろす占賀は、ひどく恐ろしい顔をしていた。




      5



「占賀、今のは――」



 言い訳しようとした口を、問答無用で塞がれた。

 激しく貪られ、息が詰まる。逃れようとするのだが、頭を抱え込まれているのか、反っても振っても占賀は離れない。



 ようやく離れた占賀の顔は、ボロ泣きだった。



「やだよっ! やだやだ! そんなの絶対、許さない!」



 僕の胸にしがみつき、感情的にわめく。



「許さない! 許さない! 許さない許さない許さない許さない許さない――」



「落ち着け!」



 自分の声が廊下に響き、びくりとした。僕は声を潜め、早口でささやく。



「……落ち着いて。何を誤解して、そんなに思い詰めてるんだ」



「わからないの!?」



「……わかるけど」



「それじゃ」



 目つきを鋭くし、絶対に反論を許さない調子で、占賀は言った。



「今から、リビトくんの家に行こう?」



「それは……やめた方がいい。家にはもう、誰もいない」



「……だからでしょ、ばか」



 それとも――、と言葉を継ぐ。占賀は荒んだ笑みを頬に貼りつけ、



「嫌なの? わたしと一緒じゃ?」



 責めるように言う。『ように』ではなく、実際に責めているのだが。



「わたしをこんなふうにしたのはリビトくんだよ。……責任、とってよ」



「……わかった」



 我ながら、ひどいざまだ。何の反論も、抵抗もできない。



 鞄を取りに教室へ戻り、すれ違った担任に早退するむねを告げる。それから占賀の目を盗み、逢坂に「後でLINEする」と耳打ちした。



 こくこくと首を振る逢坂は期待に満ち、初々しく、健気だった。彼女の純真を今から裏切るのだと思うと、自分の汚さに吐き気がする。それでも、自己嫌悪や憂鬱さとは無関係に、僕という人間はやるべきことを淡々とこなすのだ。



 愛する平穏を守るため。どれだけ不健全で、不誠実で、不可解であっても。



 僕は占賀を連れ、ほとんど何もしゃべらずに帰った。

 途中のドラッグストアに寄り、店員の視線にビクつきながら、0.02ミリと記された商品を買う。相当な羞恥プレイだが、それは必要なことだった。



 そしてその日、僕たちは疑いようもなく、彼氏と彼女になった。



 詩的に言えば、ひとつになった。文学的に言えば、激しく求め合い、交じわった。

 三度放ってなお、欲望のたぎりはおさまらなかった。時間をおいてさらに三度、最後はしぼり出すように吐き出して、ようやく落ち着く。



 最中の自分は、本当に最低だった。相手を気遣う余裕もなく、蹂躙じゅうりんしただけだ。むしろ、与える苦痛に歓びすら感じ、さらに猛たけった。僕をこうさせているのはおまえだぞと、責任を押しつけ、なぶる気持ちすらあった。



 だからこそ、終わった後では優しくもなる。

 泣いている彼女をそっと抱き寄せ、いたわり、微笑んでくれるまで寄り添う。まどろみのような甘い時間の後で、僕は「家まで送るよ」と告げた。



 すっかり日の落ちた道を、まだ歩きにくそうな彼女の手を引き、噛み締めるように歩く。甘酸っぱくも、もどかしい――たぶん人生で一番幸福な、言葉少なの道行き。



 おやすみを告げて別れ、帰宅したときには、とっくに夕食時を過ぎていた。



 泥を払って靴を脱ぎ、自室に戻る。そこにはまだ熱狂の残滓ざんしが漂い――何と言うのか、生き物の臭みが充満し、実際に血なまぐさかった。

 シーツはぐしゃぐしゃに乱れ、血やら何やらの染みが乾かず、座るのをためらうほどに汚い。僕はとりあえず窓を開け、冬の寒気を部屋に招き入れた。



 欲の限りを発散した後の虚脱感が、思い出したように襲ってきて、全身に覆いかぶさる。僕はしばしぼんやりと、揺れるカーテンを眺めた。



 ふと、机の上で電話が震えた。

 点灯した画面に、ざくりからの着信を示すメッセージが表示される。



『あたおか後輩 写真を送信しました』



 通知文と小さなサムネイル。よくわからないが、ざくりと誰かのツーショット――



 ぎょっとなる。息を詰めて待つこと数秒、次のメッセージが浮かび上がった。



『見ました? この死体は先輩のクラスの女子で』



 その先に続くだろう文字列を、僕はとっくに知っている気がした。



『逢坂のえみ』



 僕はすぐさま電話をつかみ、ただちに部屋を飛び出した。




      6



 急いでシャワーを浴び、着替えを済ませ、家を出る。



 ざくりに指定された公園は、徒歩10分ほどの距離にあった。開発前の丘陵がそのまま残った土地で、整備された歩道と運動場に加え、原生林の斜面がある。林は昼でも薄暗く、見通しがきかない。



「センパ~イ、こっちっす!」



 原生林の入り口、立ち入り禁止のゲートにもたれ、ざくりが手を振っていた。

 ギターケースを背負い、ピンク色のガムを膨らませた、いつものスタイルだ。



 ざくりは背伸びして、ふんふんと鼻をうごめかせた。



「あぇ? センパイ、おフロあがりっすね。いー匂い~❤」



「馬鹿、ふざけんな。――で?」



 一刻も早く知りたいという気持ちと、一生知りたくないという気持ちがせめぎ合い、僕の声は強張っている。ざくりは見透かしたように笑い、先に立って歩き出した。



 舗装路を少し行くと、異様な賑わいが目につくようになった。

 警察車両が進入し、ライトが周囲を照らしている。斜面の入り口には人だかり。腕章をつけた記者以外は、近所の野次馬らしい。



 ざくりは木立ちの奥、斜面の上を示した。煌々と輝くライトの明かりで、青いビニールシートの囲いが見える。中で揺れる人影は、警察関係者のものだろう。



「死体はあそこっす。ほかの写真、見ます?」



 ひょいと僕に電話を渡す。既にカメラアプリが開いてあり、死体と写るざくりの自撮りがわんさと出てきた。死体と記念撮影する意味がわからない。



 ニット地のハイネック。直線的なロングスカート。ショートブーツ――もっと活動的なものを想像していたが、逢坂の私服は落ち着いていて、上品だった。



 そのすべてを台無しにする、深い亀裂。鎖骨の中央から下腹部にかけ、どす黒い裂け目が生じている。氷を割るための斧だとか、錆びついた鉈なただとか、あるいは鉤爪だとかで、力任せにこじ開けたような、苛烈な傷痕だった。

 衣服が真っ赤に染まっていることから、出血量の多さがわかる。つまり、死後につけられた傷ではない。逢坂は生きながらにして腹を裂かれたのだ。



 何枚か見るうちにわかったが、逢坂は片方の足を失っていた。

 掘り返したと思しき地面は浅く、穴とも呼べないへこみに過ぎない。

 顔は綺麗なままで、それが救いのようにも、かえって救いがないようにも思えた。



 呼吸が乱れ、胃酸の味が口に広がる。僕はぼろぼろと涙をあふれさせながら、やっとのことで、ざくりに電話を返した。

 ……この涙は本当に、悲しみによるものだろうか? 僕はそんなに情の深い人間だろうか? つい先ほど、逢坂の気持ちを裏切ったばかりだというのに?



 今朝、僕を好きだと言ってくれたときの、言葉の熱を思い出す。

 羞恥に燃えた頬の赤み。首筋からふわりと立った、シトラスが香る体温。

 そういったものを、僕の身体はまだ覚えているのに――



 こんな寒々しい、野ざらしの土の上で、彼女は冷たくなっている。



 そして今、僕の目の前には。

 死体と記念撮影をするような、頭のオカシイ殺人鬼がいた。



「これを……やったのは……?」



「人狼」



 月明かりの下、ざくりはうっすら微笑んで、真っ白な犬歯を見せた。



「――っすよ。もちろん」



 首筋に牙が当たったような、冷たい戦慄を覚える。

 今はっきりと、僕は恐怖を感じていた。



 このざくりが――僕は怖い。



 怯えて身を固くする僕の周りを、ざくりはゆっくりと歩き出す。



「見ての通り、お腹も、脚も、生きたまま『ざくり』っす。生活反応なんかは警察のヒトが調べると思いますけど……あるでしょうね」



 息が荒くなるのを自覚しながら、僕はかすれ声で訊く。



「結局、おまえは……僕に、何が、言いたい、んだ?」



「似てません? 半年前の事件と」



 半年前、占賀が現場にいた、あの事件――

 傷痕の感じはよく似ている。片足を断ち切るのも同じだ。



「……同一犯?」



「ってゆう仮定で、二つの遺体から犯人像を推測すると」



 らしくなく思慮深げな口ぶり。ざくりは天を振り仰ぎ、指折り数えた。



「うちらと同じガッコの高校生で。被害者とは面識があって。住所はこの区、ガッコから徒歩圏内。で、たぶん――『女子』」



 最後が予想外だ。こんな乱暴な殺人、男がやるものだという先入観があった。

 鼓動が加速するのを感じながら、僕はざくりに確かめる。



「女子? 何故だ?」



「オトコを犯人とした場合、あるはずの痕跡がないっぽくてぇ」



 謎めかした言い方をする。僕は少し考えて、



「――着衣の乱れ?」



「あは~☆ そこは『精液』っしょ?」



 僕がせっかくぼやかしたのに、ざくりは露骨な単語を口にした。



「人狼の快楽殺人ぇすよ? こんな可愛いコ、オスならむしゃぶりつきますて。生きてるのと死体、どっちが好きでも同じコトっす」



「……決めつけだろ。そんなの、わからないじゃないか?」



「もいっこあります、理由」



 ざくりはくるんとターンして、周囲の雑木林を示した。



「ここ、住宅地が近いので、ヒトひとり運び込むのはちょー大変っす。なので、担ぎ込んだんやなくて、本人に歩かせた……と考えられる」



 誘い込んだということか。言葉巧みに騙した、とかで。



「相手がオトコならぁ、こんな暗がり、女子的に抵抗感じません?」



「……その男が、友達とか、親兄弟という可能性は?」



「逢坂サンは彼氏ナシ、交際歴ナシ。家族構成は姉ひとりの母子家庭っす」



「だが! 犯人が女子なら、こんな、むごいこと……っ」



「やりますよ。人狼は。ヨユーで。うちだって――」



 にししっ、と軽く笑って、ざくりは最後をごまかした。



「うちのケイケン上、人殺しにも二パターンあるっすよ。『結果、殺すヒト』と、『とりま殺すヒト』。とりまの方はばかだから、後先なんか考えない」



 だから、やると言うのか。こんな恐ろしいことを、その場の勢いで?



 冬の夜だというのに、熱帯夜のように息苦しくて、汗が止まらない。

 つい数時間前、僕はここを通過している。彼女を家に送るためだ。僕らは二人でここを歩いた。そして――



 さよならを言って別れた後のことを、僕は把握していない。ざくりがどうして、死体を見つけたのかも。



「……帰って、いいか?」



 やっとのことで、僕はざくりにそう言った。



「気分が……悪いんだ」



 一瞬、ざくりの顔から笑みが消えた。

 何の感情も見えない、洞窟のように暗い瞳で僕を見る。まるで獲物を見据える――いや、そんな興奮すらない。刈り取る麦穂を見るような、そんな眼差しで。



 それも一瞬だ。ざくりは普段通りのゆるんだ顔で、ひらひら手を振った。



「もちろんっす。帰り道には、お気をつけて――暗いぇすから❤」




      7



 一睡もできないまま朝を迎え、寝不足のまま登校する。



 教室の花瓶は二つになっていた。逢坂の件はクラス内SNSで知れ渡っていて、級友は半数が欠席。担任も疲れた表情で「今日は無理せず帰っていいぞ」と言った。



 僕は1時間目をフケて、ひとり屋上に向かった。

 ここでなら、会えると思った。そして、その想いは裏切られなかった。



「おはよう、リビトくん」



 待ち構えていたらしい。占賀は愛らしく小首を傾げ、



「どうしたの? わたしと話がしたかったんでしょう?」



 前置きも、挨拶もなしで、僕はストレートに訊いた。



「逢坂を……殺したのか?」



 くすり、と占賀は笑った。



「やぶからぼうだ」



「怪物……なんだろ? そう……なんだよな?」



 主語をぼかした問い。占賀は蔑みの見える、薄っぺらな微笑を浮かべた。



「そうだよ。本当は、気付いていたでしょ? だけど、見ないふりをしてた。わかってたのに、ずっと自分をごまかして、知らない顔をしていた」



「どうして人を殺す!? 何で……逢坂まで殺した!?」



「仕方ないじゃない。だって、リビトくんを誘惑したんだもん」



「違う! そんな理由で殺したんじゃない!」



「……そうだね。もっとマシな理由は――『証拠隠滅のため』かな?」



 平均台の上を歩くように、占賀は両手を広げ、とことこ歩き出した。



「だって、目撃者かもしれないもんね? 生かしておくのは危険だし、ヘンな後輩も近くにいるしで、余裕がなかった。だから雑に殺したの。こう言えば、満足?」



 言葉が出ない。僕が何か言う前に、占賀が言葉をかぶせる。



「これも違う? ふふっ、そうだね。本当はただ『気持ちよかったから』だ!」



 決めつけるような口ぶり。占賀は吹っ切れた様子で、ほがらかに言った。



「それはとても強い衝動――とても甘美な誘惑。麻薬とどっちが強烈なのかな? ずっと騙し騙しやってきたのに、春頃、ついに歯止めがきかなくなった。初めにお母さんを殺して埋めた。次は学校で――大好きだった女の子をやっちゃった。さすがにショックで大人しくなったけど、一度覚えた快楽の味は忘れられない。我慢して、我慢して、半年も我慢したのに、ついに昨日、爆発しちゃったの♪」



 言いながら僕の首にまとわりつき、耳元でささやく。



「仕方がないよ。怪物に生まれてしまったのは、怪物の責任じゃない。本能には抗えないの。あんなに可愛い猫ちゃんだって、オスは仔殺しするんだよ? メスを発情させるためだけに。だったら、人狼だって――」



「もういい!」



 僕は空に向かって叫んだ。外気の寒さを忘れるくらい、心が冷えていた。



 こんな議論に何の意味がある。起こってしまったことは、変えられない。怪物だろうが、そうでなかろうが、欲望のままに人を殺した、その事実は変わらない。



 僕はもう何も考えられず――考えたくなくて――泣きべそをかいて言った。



「自首、しようっ」



「して、どうなるの?」



 しかし、占賀は僕の甘えを許さなかった。冷たく僕を見据え、鋭く問う。



「誰が許してくれる? 誰も許さないよ? わたしだって許さない。死ぬんだよ! むごたらしく――自分がそうしたように、ヒトに吊るされるの! 人狼は!」



 込み上げる嗚咽おえつを噛み殺し、僕は占賀にたずねた。



「僕は……どうすればよかった?」



「別に? 何も? 言ったでしょ? 怪物であることは、怪物のせいじゃない。ただ運命を受け入れて――死ねばいい」



 言うだけ言うと、占賀はその場でくるくると踊り出した。

 かごの鳥が解放され、自由を謳歌するように。軽やかに跳躍し、笑っている。



 気力を失い、僕の膝から力が抜けた。下がり、よろめき、座り込む。



 僕らは一体、いつ、どこで、何を間違えたのだろう?

 頭の中が真っ白で、言葉が出てこない。もう何もわからない――



 そのとき、ぱんっと甲高い破裂音が響き渡り。

 虚無に陥りかけた僕の意識を、一気に現実に引き戻した。



 振り向くと、派手な色味の頭があった。割れたガムが髪を巻き込んだらしく、何かのクリームで必死に落としている。やがて僕の視線に気がつくと、



「ヘコんでるっすね~、センパイ❤」



 四方霧ざくりは、にまっと犬歯を見せて笑ったのだ。




      8



 手慣れた様子でガムを溶かすと、ざくりは掲げた電話に横ピースをキメた。



「いぇい♪ ゲロ泣きのセンパイとツーショ❤」



「……何撮ってんだ、おまえ」



 相変わらずの傍若無人。相変わらずの一方通行コミュニケーション。



「うち、こんなん……キャラ違うってゆーか、言えたギリないぇすけど」



 ざくりは殊勝な調子で、らしくないことを言い出した。



「センパイには、泣かないで欲しい」



「――――」



「センパイが泣いてたら、逢坂サンもきっと……悲しみます」



 僕は驚き、聞き流せずに、確かめる。



「知り合いだった……のか?」



「違うけど……でも、わかる。だって普通、悲しいよ――自分を殺した糞野郎が、自己憐憫で泣いてたら」



 どっどっどっと、僕の心臓が跳ね馬のごとく暴れ出した。



 ……何だ? 何が起こった?



 何が……狂った?



 わからない。わからないが、わかっていることが、ひとつある。

 壊れようとしている。僕の平穏――苦労して創り上げた、僕の世界。



 落ち着きたいときの癖で、僕は占賀を視界に探す。こうべを巡らす僕の前に、ひょいとざくりが回り込み、不可解そうにあたりを眺めた。



「センパイさぁ、いっつも何を見てるの? さっきの独り言、誰と話してたの? まさか、占賀サンの幽霊――なんて言い出さないよね?」



「……うるさい。黙れ」



 ようやく、僕は占賀を見つけた。ざくりのすぐとなりから、僕に微笑みを向けている。半年前――僕の本性に気付くまで、そうしてくれていたように。



 占賀はもう僕にしか視えない。だから、誰も話しかけない。なぜなら、占賀はとっくにいないからだ。彼女は消えた。この世界から、いなくなった。



 なのに、今でも見える。僕に都合のいい、幻想の彼女が。



「ま、どーでもいいけど」



 人が変わったように淡々と、ざくりはダレた口調で語り出した。



「思えば、ダッサい話っす……凶器が見つからないからって、警察はセンパイ――最有力の容疑者を逮捕できなかった。それで『警察ちょっろ♪』とでも思いました? それとも単に、チンチン我慢できなくなっただけ? うちみたいにアヤシイのがウロウロしてんのに、逢坂のえみに手を出して――あげく、あんな街中に死体捨てるとか、ヤケクソ過ぎでしょ。まーじのばかなんれすか?」



 自分でもわかる。僕は混乱している。動揺で震えながら、僕は叫んだ。



「おまえ、言ってただろ! 逢坂を殺したのは、女子だって!」



「アンタの反応を見たんれすよ。あの状況、誘われてついてくとしたら好きピだけ。――あ、オトボケはナシで。昨日のコクり、聞こえてました」



 ……なるほど。ようやく、からくりが読めてきた。



「昨日の夜、僕を現場に呼び出したのは……」



「当然、仲間が部屋に入るためっす。逢坂サンの毛髪、血液、皮膚片、採取済み」



「そんなものが証拠になるか! 僕らはただ……付き合い始めただけだ! 令状もなしに上がり込んで、勝手にあさった証拠なんて――」



「あは~☆」



 屈託なく笑う。いかにも純真無垢な、異様にソソる顔だった。



「センパイのばーか❤ そんな言い訳、いらないぇすよ。うち警察やないぇすし?」



「……なら、何だ!? おまえは一体……何なんだ!?」



 例によって、投げたボールは返ってこない。ざくりは質問に答えず、ギターケースに手を回し、後ろ手で器用に開けた。



「どんな気分だったのかな、逢坂サン……。好きなヒトの家に呼ばれて……おしゃれして……無茶苦茶されて――裏切られて――埋められて!」



 しゃらり、と銀色の塊を抜き出す。

 鋏はさみ――鋏だ。目を疑うほどに大きい。刃はゆるやかなカーブを描き、包丁のように身幅が厚い。持ち手は刀の握りのようで、グリップテープが巻かれている。



「どんな欲望を抱こうが、そのヒトの勝手だよ……。それがどんなに下劣で、身勝手で、邪悪でも。だけど、それを実行しちゃうようなバケモノはさ」



 そして、ざくりは微笑んだ。

 すべてをあきらめたような――はかなげな微笑。



 その眼が今、残光を曳いて動く。



「生きてちゃ、ダメでしょ?」



 聞こえた声は、耳元だった。



 僕の鉤爪は空を切る。いや、とっくに切断されて、宙を舞っていた。

 痛みを感じる前に、縦に開いた二枚の刃の先端が、片方は僕の喉もと、もう片方は陰茎の付け根の肉を突き破る。そして――



 じょきん、と鈍く、鋏が鳴った。



 絶叫がほとばしる。その声が自分のものだと気付いたときには、刃はもう致命的なまでに深く食い込み、骨ごと断ち切っていた。



 僕の前面が縦に裂け、どっと中身があふれ出る。大量の血液とともにずり落ちる、大腸と小腸。ほかほかと湯気を立てるそれを、僕はかき集めようと身をかがめ――



 ふっと上げた視線の先に、返り血を頭から浴びた、ざくりの無表情があった。

 銀色の刃が容赦なく、僕の顔面を左右から割



      ❤



 血だまりの中に立って、私はそっと目を閉じた。



 火照った筋肉を冬の風が冷ます。おさまらない震えを殺そうとしたが、上手くいかない。そのうちに清掃員のおじさんおばさんがやってきて、後始末をしてくれた。



 ポケットの中がぶるぶる震える。――〈飼い主〉からの、着信だ。



『どんな気分だ、〈赤ずきん〉?』



「……シンプルに胸糞っす」



『気が合うな、私もちょうどそんな気分だ。……せめて、時間を選べなかったのか?』



 無理だった。証拠がそろった今、1分1秒であっても、生かしてはおけなかった。



 私は血まみれの髪をつかみ、ぐしゃりと握りしめた。



「うちの、せいです……うちが……このゲリ野郎を挑発したから……!」



『自分を襲わせようとしたんだろう? 作戦が裏目に出ただけだ』



「逢坂サンから……目を離したから……!」



『人員不足はこちらの不手際だ。現場の責任ではない』



「だったら……っ、増やしてくださいよ! 狩人を! もっと!」



 感情的な私の叫びに、清掃のおじさんおばさんが振り返る。

 だが、飼い主はそんな小さな反応すらくれない。ただ機械的に、



『……善処する。事後処理はこちらに任せ、おまえは次の現場に向かえ』



 いつものように、短い指示をくだすだけ。

 私は大きく息をつき、しぼり出すように、返事をした。



「アイりょ、グランマ」



 通話を切って、ガムを一粒、口に放り込む。

 きつく噛み潰すと、脳が揺れるほどのどぎつい甘さが口一杯に広がった。



 ぼんやり舌が痺れるのを感じながら、血と殺戮さつりくの苦味をのみくだす。



 ――人狼に喰われた者は、ガムさえ噛めない。誰にもかえりみられず、忘れられていくだけだ。遺族にとっても、本人にとっても、それはつらく、とてもさみしい。



 だから私は、探して殺す。

 私と同じ、人狼かいぶつを。
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5、作家名
かつび圭尚
KATSUBI KSHOW

参加作品
余命18億秒の俺が死神と交わしたヤバい契約について
余命18億秒の俺が死神と交わしたヤバい契約について
 広告まみれのサイトに「読めない駅」の都市伝説がまとめられているのを見つけた俺は、くだらないと思いながらもつい、時間潰しに画面をスクロールしてしまう。




 電車が■■■駅に停まったら、すぐに引き返してください。

 ホームに降りて、反対方向の電車に乗れば元の駅に戻れるらしいです。簡単ですね。

 ただし、注意事項が三つあります。

 一、他の乗客を見ないでください。

 二、改札の外を見ないでください。

 三、駅員に話し掛けては絶対いけません。

 なぜなら■■■駅は死者の魂が集まる冥界の入口だからです。生者が紛れていると死者に気付かれてしまうと、魂が「改札の外」に引き寄せられてしまうといいます。

 ただ、無事に生還したとしても、■■■駅に迷い込んだ人は最長でも一ヵ月以内に亡くなってしまうようです。病気を患ったり、不幸な事故に遭ったり、殺されたり、原因は様々のようです。

 もともと死期の近い人が「呼ばれて」しまうのか、それとも駅で「引き寄せられて」しまうのかは分かりません。もし後者なら、三つの注意事項に気を付ければ生き残れるかもしれませんね。

 いかがでしたか?

 今回は■■■駅について調べてみました。都市伝説って怖いですね。

 皆さんも電車に乗るときはくれぐれも気を




 暗転。

 あれ。充電切れ? まだ半分くらい残ってなかったか。不思議に感じつつ通学鞄に腕を突っ込む。教科書とくちゃくちゃのプリントの奥からモバイルバッテリーをサルベージすると、プレゼント用の包装紙に手の甲が触れて、可愛げのない幼馴染の顔が思い浮かんだ。



「明日のアイツの顔が楽しみだな」



 見上げれば、時が止まったようなセピア色がどこまでも広がっている。夕暮れの一種だろうか、珍しい。スマホのレンズを向けてから、電源が切れていることを思い出す。

 五分おきに来る電車からは、揃いも揃ってサラリーマンみたいに死んだ顔の老若男女が押し寄せる。空にも俺にも目もくれず、まっすぐ改札を通り抜けていく。知らない駅まで寝過ごしてしまった俺は、改札脇の窓口で駅員を待っている。帰りの電車はまだ来ない。

 改札の外は霧が濃くて、目をこらしてもよく見えない。ホームに設置された木簡みたいに古びた駅看板を振り返ってみても、三つ並んだ文字には読み方のとっかかりすらない。世の中にはこうも難しい漢字があるんだな、と感心していると。



「おっ、お客様。すみません、こちらをご覧ください」



 十分ぶりに窓口のシャッターが開いた。駅員の女性が恥ずかしそうに右半分だけ顔を覗かせ、震える手でカウンターに火の灯った小皿を置いた。なんだこれ?



「あの、確かさっきの話じゃ折り返しの切符をくれるって」



「ひいいっ、すみませんすみませんすみません。あたしも早くお客様に帰ってほしいんです。でもなかなか火が見つからなくってですね」



 駅員さんはなぜか俺の反応を過剰に怖がって、いじめられた亀みたいに顔を引っ込めてしまう。まともに話が進まない。なにかこう、世間話でもして場を和ますべきか。



「……そういえばこの駅ってなんて読むんですか?」



「へ? あの、■■■駅です」



 口元が隠れているせいもあってか、あいにくと上手く聞き取れなかった。もう一度聞いたらまた恐縮されるに違いない。



「あー、さっき調べたんですけど、もしかしてこの駅、すごい風評被害受けてません? 迷い込むと死ぬとか出てきて。ほんっとくだらないですよね。ここで働く人とか、住んでる人の気持ちを考えて――」



 喋っているうちに警戒が解けたか、駅員さんの顔の70パーセントくらいを露出させることに成功した。最高記録だ。密かにガッツポーズをするが、彼女の顔はひどく申し訳なげだった。



「すっ、すみませんお客様、お気遣いをありがとうございます。でもあの、それ、だいたい本当のことなので……」



 駅員さんはカウンターの火に視線を落とす。俺はようやく、その火がロウソクに灯っていると気付いた。蝋は限界の石鹸くらい禿ちびていて、よくまだ燃えてるな、と思う。



「なんだ。てっきりあることないこと書かれてるのかと……ん?」



 じゃあつまり、なんだ? あのサイトに書かれてたことが本当ってことは。あれ?

 三つの注意事項があります。他の客をじろじろ観察して。改札の外をまじまじ見て。駅員さんとべらべら喋って。スリーアウトで圧倒的に手遅れだ。いや、まさか。



「え。えっ、あの。そしたら俺って、もうすぐ死ぬってことになりません?」



「あー、まあっ、そのっ、そうなっちゃい、ますねえ。残念ながら」



 消え入りそうな声が読点で区切られるたび、水平移動で俺の視界から消えていく駅員さん。完全に隠れてしまってからも台詞は続いた。



「たっ、たまにいるんですよ。強い力で『死』に引き寄せられて、寿命よりも前に迷い込んじゃう人が。面倒だし対応したくないのであたしはそのまま通しちゃいたいんですけど、規則なので。死神執行法施行規則の……第何条だったかな」



「し、死神? い……いや、いやいやいや、でも俺が死ぬなんてあり得ないっていうか、なんで俺が死ななきゃいけないんですか!」



 俺の怒号に、駅員さんもとい死神さんは「ひっ!」と短い悲鳴を壁越しに漏らす。

 死ぬ? でも俺はまだ健康だし、明日には18歳になって今度の選挙では投票できるし、好きな漫画の最終回もまだ読めてないし、大学生になったら思いっきり遊ぶつもりだし。怒りっぽい母親も酒好きの父親も悲しむだろうし、仏頂面な幼馴染のアイツのことだってある。死ぬなんて、俺のいない世界があるなんて、想像もつかないわけで。



「……あの、死神さん。なんとかならないんですか? 時間を巻き戻したりとか、寿命を延ばしたりとか。ホントになんでもするんで。ヤバい契約でもなんでも。ほらあの、リボ払いとかサブリース? とか」



 俺の必死な訴えが実を結んだか、死神さんがそーっと現れる。接客業にあるまじき、うんざりしたような表情だった。



「ああもう、これだからヤなんですよ。こういうクレームってニンゲンだけですよ。死ぬって知ったら怒って、かと思えば縋すがってきて。あたしはもう五億余年、あなた方がおサカナさんだった頃から冥界の番をしてきましたけど、見てください。そして諦めてください」



 死神さんは、ずばりとロウソクの灯火を長い爪で指差した。



「このローソクが伸びたことは―― 一度もありませんから」



 ぞくり。甘くて痛い、耳をすり抜け脳髄に響くような声だった。

 ばくばくと心臓が胸を叩き始める。喉がかーっと熱くなって、額がさーっと冷たくなる。煤すすの臭いがツンとして、直感的に理解する。これは死の香りだ。



「これって……俺の寿命ですか?」



「そうです、このローソクの長さがお客様が死ぬまでの長さです。そしてあたし達は、早く呼んでしまったお客様にはお詫びとしてその『残り時間』を伝える義務があります」



 死神さんはカウンターの下から無地の切符を取り出して、ロウソクの火で炙り始める。

 ごくり。息を呑む。俺に残された時間はいったいどのくらいなのか。さらさらと落ちる砂時計をイメージしながら、砂の残量に思いを馳せる。一ヵ月か、一週間か、それとも一日。永遠とも思える十秒が過ぎた後、薄茶色の数字が滲むように浮き出てきて、俺は熱さも気にせず死神さんの指から切符をひったくった。

 1,802,394,127――これが俺の寿命。これが俺の寿命?



「一、十、百、千……十億って、いや、どういう? メチャクチャ長くないですか?」



「え? 長っ、え? いや、あの。全然ですよお客様。よく聞いてください。お客様の寿命……たったの、18億と、239万と、4,127秒ですよ?」



 死神の余命宣告を聞いた瞬間。俺は思った。

 いや、それってつまり何日だよ。

 だって一分が60秒で、一時間が3,600秒で、一日がそれに24を掛けるから……ああ駄目だもう分からん。でもロウソクはもうこんな惨状だし、死神さんの口ぶり的にも短そうだ。一ヵ月とかを秒にしたら、案外そのくらいになるのかも。

 スマホの電源は復活していた。電卓アプリを開く。震える指で割り算を続けて出てきた答えは――57年。



「長いじゃねえか!」



 おかしいだろ。だってこういうのって、もっと短いもんだろ。余命宣告されて残りの貴重な時間をどう使おうってなるやつだろ。57年後って、75歳だ。めっちゃ普通に老後じゃねえか。やり残したこととか考えるまでもなくできる。イメージしていた砂時計は一気に東京タワーよりもデカくなった。



「はあ。でもニシオンデンザメとかムョモヮペヵリ第七形態とかベニクラゲとか、あたし達死神とかと比べたら短いじゃないですか」



「だとしても短すぎるだろこのロウソク。この状態から60年近く粘るのかよ。というか一個知らないのがいるんだが未発見の生き物か?」



「あ~もう、しつこいですよお客様! あの部屋に一体どんだけローソクがあると思ってんですか! 収納スペース考えたらこれが限界ですよっ! これだからニンゲンは――」



 死神さんがカウンターをドン、と叩く。衝撃で一瞬火が消えかけて、「あ、待っ」と変な声が出て、今までとは逆方向から電車の音が聞こえて、死神さんは向こうを指差す。



「ほら、帰りの電車が来ましたよ。早くお帰りください。乗り過ごすと次は5,181,980秒後ですから。お客様にとっては長いんですよね?」



 計算する。二ヵ月後だ。慌てて切符をポケットにぶち込んで、死神さんに背を向ける。



「マジで命のスケールが違いすぎるじゃねえかクソッ!」



 なんなんだよこの駅は。この駅員は。バリアフリーもばっちりなスロープを横目に階段を六段上ると、電車の前照灯とちょうど目が合った。

 古びたブレーキの甲高い音が止むとともに、俺の足も止まる。

 俺のほかにもう一人、帰りの電車を待つ人物がいたからだ。ただの客なら俺だって驚かない。だけど違う。まるで自分の部屋の配置が微妙に変わっていたような些細で強烈な違和感が、俺の足に発せられるはずの電気信号を打ち消したのだ。

 相羽あいばすみれ。

 10メートルほど先、セピアの空を背景に立つ幼馴染の少女は、無表情で単語カードをぺらぺらと捲っていた。

 ぷしゅう。空気圧の音とともにドアが開く。相羽は手元から目を離すことなく、吸い込まれるように車内に踏み入る。ふわふわと揺れる長い黒髪は白を基調とした制服によく映えて、整ったその毛先もやがて視界から消えた。

 ぴろぴろぴろ。急かすようなサイレンにハッとして、俺は電車に駆け込む。車両の一番奥、隅っこの席に相羽は座っていて、黙って単語カードを繰り続けていた。まったくこいつは、こんな状況でも平常運転か。



「隣、いいか?」



 俺が隣に座ると、流石の相羽も少しだけ驚いた風にまばたきをして、でもすぐに睫毛の下がったすまし顔に戻って、「蕨わらび」と俺の苗字を無感情に呼んだ。



「今日は火曜だけど」



「別に、いつもだって約束してるわけじゃないだろ」



 つんとした横顔は、それだけで絵画のように美しかった。彼女の高校が共学だったらさぞモテていたことだろう。多くの男子に校舎裏に呼び出され、その全てを時間の無駄だと切り捨て無視したに違いなかった。

 がたごとと動き出した景色を、すれ違う電車がひた隠す。行きは五分間隔で、帰りは数ヵ月間隔。マジでイカれた死の路線だ。



「相羽が乗り過ごすなんて、明日は雪でも降るかもな」



「……乗り過ごしてないよ。電車が東杠葉ひがしゆずりはに停まらなかっただけ」



 唇の角度から察するに、相羽の中では非現実的な出来事への恐怖よりも強制的に連れてこられて時間を無駄にした不愉快さが勝っているようだった。



「でも都市伝説を実際に目の当たりにするなんて、レアな体験じゃないか? いや、相羽は知らないよな。あの駅は簡単に言うと死者の集まる駅で――おい聞いてるか?」



「ううん。もう済んだことだし、知る意味ないでしょ」



 つれない返事をする相羽の目線は、単語カードに釘付けだ。ちらとのぞき見すれば、俺の高校では教師含めても誰一人知らなそうな難解な英単語が書かれていた。



「相羽もあの切符、もらったんだろ」



 隣の少女はこくりと、俺だけに判別できる最小限の動きで頷いた。相羽に普通のコミュニケーションを期待することこそ無駄だ。反抗期の娘に一生懸命話しかける父親みたいな気分になってくる。

 俺も相当な物好きだな、と思う。ここ一年くらい、この可愛げのない幼馴染に会うために、毎週水曜日には必ず、共通の乗換駅である東杠葉駅の16時発の下り電車の五両目三ドア目に、わざわざ二本見送ってまで待ち構えているのだから。



「相羽はさ、切符の寿命見て、自分が死ぬって知って、どう思った?」



「……べつに。何も変わらないよ」



「お、珍しく同意見だ。75歳で死ぬって今から言われても、実感なんて湧かないし、やり残したことをやり始めるにも早すぎるし、結局、受験も就職もしなきゃいけないわけだし。何も変わらないよな」



 俺は腰をずらして後頭部で両手を組んだ。ここは心なしか空気が薄い気がして、上を向いて息を吸い込む。相羽は俺を一瞥し、呆れたように息を吐く。



「そういう意味じゃないけど」



「じゃあどういう意味だよ」



 相羽は答えない。考え中か、それとも無視か。中吊り広告の一つもない無表情な車内を観察して待つも、五秒ともたずに飽きた。窓の外ではまだ晴れないセピアを横切る二つの電線が、一瞬交差して、すぐに離れた。



「……ま、いつ死のうが相羽のやるべきことは変わらないもんな。最高効率で人生を進めるだけ、だろ?」



 昔から相羽すみれは攻略本片手に最短ルートでRPGをクリアするような子供だった。

 今や攻略するのは人生という名のゲームに変わり、規則的な生活は基本中の基本、毎朝のジョギングで体力と集中力を鍛え、あらゆる所作に無駄がなく、受験や資格の勉強を詰め込むから空き時間なんて存在せず、存在しないはずの空き時間には世界経済の動向を追っているという。都市伝説よりよっぽど恐怖だ。

 一方の俺はといえば、情熱を捧げる趣味も部活も友人も恋人もなく、暇さえあればスマホで漫画を読んでソシャゲをして寝転がってぼーっとして、たまには勉強でもするかと思い立った三分後には部屋の掃除を始めて、そのまた三分後にはお気に入りの漫画を読み返す日々を過ごしている。俺ほど時間を無駄にしている受験生もそうそういるまい。



「無駄を愛する俺と効率を愛する相羽。幼馴染じゃなきゃ絶対交わらなかった人生だな」



「違うよ」



 珍しく相羽がまっすぐに答えるから、俺は思う。そうかそうか、相羽も案外俺との関係を気に入ってくれてるんだな。嬉しくて鼻を鳴らすと、相羽が続ける。



「私は効率が好きなんじゃなくて、無駄なことが嫌いなだけ」



「おい、そっちの否定かよ。いやまあ、そうだろうとは思ったけど。でも無駄が嫌いとか言うけど、俺といる時間だって無駄じゃねえの。そこんとこどうなんだよ」



「それは――」



 相羽は答えに詰まって、単語カードを片手でぎゅう、と握り締める。電車はまだ、死の香りを切り裂きながら進んでいる。相羽はもう一度「それは」とうわごとのように呟く。



「蕨が時間を無駄にしているのを見ると、安心するから」



「下を見て優越感に浸るんじゃねえよ」



「そう言う蕨こそ。私と一緒にいた時間、つまらなくて、無駄だったでしょ」



 なんで過去形? 思いながらも俺は「ああ、無駄だな」とすっぱり答える。



「だって相羽はリアクション薄いし、まともに返事もしないし、口を開けば辛辣だ。でも無駄だからこそ、俺的にはまあ、逆説的に楽しいってことになるかもな」



「そっか。なら、よかったよ」



「……あのなあ相羽。俺、結構むちゃくちゃなこと言ってたぞ。少しは疑ったりしろよ」



 相羽は「ん」と声を漏らしながら前傾し、膝に両肘をついて上目遣いを向ける。



「だって、蕨の言うことを疑うなんてそれこそ無駄でしょ?」



 ああ、相羽すみれはズルい。普段はこの世の全部がどうでもいいみたいな顔してるくせに、ときどき子供みたいに純粋な瞳で、可愛らしい角度で俺を捉えて離さない。



「まっ、まあ確かに、嘘つくのは苦手だけど。見透かされたみたいでムカつくな」



 逸らした視線の先で、吊り革が示し合わせたように同じ動きで揺れている。再び単語カードを捲りだした相羽の唇の角度はちょっと得意げだった。



「……いや、でもやっぱりついてたな、嘘」



 べつに相羽を出し抜きたかったわけじゃないけど、なんとなく思いついて呟くと、相羽の身体がほんの少しこっちに傾く。なんだよ、気になるのか。



「死ぬって知っても何も変わらないって言ったけど、ちょっと怖かったんだ。死ぬのが怖いんじゃない。もうすぐ死ぬかもって思ったときに浮かんだことが、漠然としてて」



 いくら無駄を愛するとか言ったって、死ぬ前に思いを馳せるのが連載中の漫画とか、一度は経験してみたい選挙とか、入学できる気でいる大学とか。それでいいのかよ、じゃあ俺ってなんなんだろうって、流石に思ってしまう。

 林立する煙突が、色褪あせた空を不規則なリズムでつつく。這い出た鈍色の煙は筒の表面を伝うように落ちて、地上へと充満していく。



「もっとこう、さ。普通もっとあるだろ、色々」



「色々って?」



 だって俺がもし部活に精を出してたら、大会とか文化祭までは死ねないと思うだろう。ちゃんと勉学に身を入れてたら、せめて努力が報われるまで待って欲しいと思うだろう。俺が小説家なら最高の作品を書き上げるまでは死ねないと思うだろうし、生物学者ならムョモヮペヵリの、せめて第一形態を発見するまでは死にたくないと思うだろう。

 だから、俺にはどうしようもなく欠けているものがある。



「それは……なんていうんだろうな。人生のテーマみたいな」



 相羽はどこかを見ている。俺の言葉に意味があるのかないのか、判断するように。



「つまりあれだ、一番大切にしたいもの、とか。死ぬ間際に真っ先に思い浮かべるもので、どうしてもやり遂げたいこと。たとえば俺の人生が一つの物語だとしたら、それこそテーマになるような、生き様みたいなもの、かな」



 まあ俺はまだ未成年で、これから色んなことを経験するはずで、無限の可能性がある。だからそのうち見つかるだろうって、楽観的に考える。

 でも同時に、憂鬱にもなる。同い年のヤツがテレビやネットやスポーツで活躍してるのを見たり、同じ学校のヤツが何かの賞を取ったりして。すごいって感想の次くらいにはもう、言葉にできない焦りみたいなのがあって。

 そうするとたまに、息が上手く吸えなかったりする。



「……いや、なんでもない。俺らしくない話だったな」



 らしくないついでに、俺もたまには勉強するか。鞄の内ポケットから単語カードを取り出す。次に相羽から同じ質問をされた時には、相羽との時間も無駄じゃないって言えるように。相羽がくれた単語カードで、成績が上がったんだぜって。



「使ってくれてるんだ、それ」



「……ん。まあな」



 家には同じものがもう十個ほどある。先週の水曜にいきなり「余ってるから」「ちょっと早いけど」と相羽が誕生日プレゼントにくれたのだ。プレゼントっぽくないとはいえまさか相羽から何か貰えるなんて思ってもなかったから、慌てて色々と調べてちょうど今日、お返しを買ってきたところだった。俺の鞄には今、相羽への誕生日プレゼントが入っている。



「あのさ相羽、明日――」



 突然のことだった。

 がたん。何かにぶつかったように、電車が大きく揺れながら、減速していく。アナウンスが響く。間もなく――■■■駅。■■■駅。■■■駅の次は、■■■駅です。いやそれおかしくないか。そう考えた意識はもう、どこか遠くへ消えた。



 ――俺と相羽すみれは、生まれた日付が一緒だった。

 へその緒を切った病院も、行きつけの公園も、就学前の恩師も一緒。徒歩五分程度のご近所とくれば、よく遊ぶ仲になるのも必然のことだった。

 相羽はよく俺をからかっては笑って、俺をいじめるヤツを不敵な笑みで論破して、お得意の効率化を俺に見せつけては得意げに微笑んで、とにかくいつも俺に笑顔を見せていた。俺達は腐れ縁の幼馴染で、一生つるんでるだろうって不思議な連帯感があった。

 でもそれはまったくの錯覚だった。もとより勉強熱心だった相羽が難関校の入試を突破して別々の中学に入った途端、俺と相羽はあっさり疎遠になった。

 通学時間と通学路が変わって、環境が変わって。俺達の距離は自然と離れた。町でばったり会うみたいな一さじの偶然すら起きることはなかった。連絡は時々取っていたけど、やがて返ってこなくなったし、俺もさして気にしなかった。

 人間関係なんてそんなもんだ。同じ電車の同じ区間にたまたま乗り合わせただけの人間のように、簡単にいなくなって、二度と会わなくなる。

 そう考えたことすら忘れていた去年。17歳の誕生日に、俺達は再会した。

 東杠葉駅の下り電車の五両目の三ドア目で、二度と交錯しないはずの人生が、再び触れ合った。俺は自分の誕生日ケーキを買った帰りで、相羽の方も塾が休講になったとかで、ようやく一さじ分、俺達に偶然が降りかかった。

 五年ぶりの邂逅かいこう。俺の背は相羽を抜かしていたから、距離感がバグって違和感しかなかった。何を話せばいいか分からず、ほぼ沈黙のまま最寄り駅に着く頃。電車が大きく揺れて、俺は壁に貼られた新作ゲームの広告に手をついて、ようやく会話の糸口を見つけた。



 ――あ、これ。続編出てたのか。相羽これ好きだったよな。買ったのか?



 相羽は「ううん」とシンプルに否定した。緊張してるのかと思ったけど、違う。本当に興味がなさそうだった。



 ――あー、ゲームはもう卒業した感じか。なんだよ、昔はゲーム会社に入りたいって言って、それで勉強も頑張ってたのにな。



 相羽からの返事に、俺は耳を疑った。「ゲームなんてやっても意味ないよ、時間の無駄」と言ったのだ。確かに相羽は昔から無駄が嫌いで、無駄を削ることに情熱を捧げていた。でもまさか、その矛先が自分の好きだったことにまで向くなんて、ちょっとおかしい。



 ――相羽は今、やりたいこととか、目標とかあるのか?



 恐る恐る訊ねた俺の質問に、相羽は答えた。「いい大学に入ること」「いい会社に入ること」「出世すること」「お金を稼ぐこと」つまり、時間を効率的に使って人生をより良く設計すること。けどそこに、相羽の幸福は存在しないように思えた。効率を求めるがあまりに好きなものを失くした相羽は、一ミリたりとも笑わなくなっていた。

 それから俺は、相羽のことが気がかりで、学校帰りにいつも彼女の姿を探すようになった。乗換えから最寄り駅を出るまで最も移動距離の短い、五両目の三ドア目。見つけられたのは、水曜日の16時の電車だけだった。そうして俺と相羽は週一回、ほんの数駅分だけ一緒に帰る関係になった。相羽の笑顔をどうしても取り戻したくて、相羽が好きだったものについて一生懸命話した。怖い話。ケチャップ多めのオムライス。市民プール帰りのアイス。天体観測。一つずつ確かめて、チェックリストにペケをつける。どれももう、彼女の心の中からは綺麗に消し去られてしまっていた。

 相羽すみれは、より高くまで飛ぶために自らの羽まで毟ってしまった鳥のようだった。



 ――東杠葉駅――東杠葉駅、――線は三番ホームにお乗り換えです。



「あれ……相羽?」



 気付けば相羽すみれは、俺の隣にいなかった。というか座席の位置も変わってる。いつの間にか乗客も増えている。ぼんやりとした頭で状況を整理して、気付く。これはあの駅からの帰りの電車じゃない。あの駅に着く前に乗ってた電車だ。つまり。

「なんだよ。じゃあ……盛大な夢オチってことか」

 随分とリアルな夢だったな。俺は大っぴらに欠伸を晒して、伸びをしながら空を見上げる。夕焼けが綺麗で、セピアの色はどこにもない。行き交う老若男女はやっぱりコンクリートとか光る画面に夢中で、眼下に広がる開発済みの町並みには大型商業施設もコンビニもスーパーもあって、駅員さんは額に汗を浮かべてキビキビ働いている。

 帰ったら、たまにはちゃんと勉強するか。気休めの決意を維持するために、眠気覚ましのコーヒーを自販機に要求する。決済でスマホを取り出すと、はらり。何かが落ちた。



「……え?」



 屈んで手を伸ばした先には――切符があった。印字されているのは『1,802,394,015』という数字の羅列。あ、知ってる。そう思った。少し減っているが、これは俺の寿命だ。

 ふと吸い込んだ空気が薄くて、まだ自分の魂があの電車に揺られているような気がしてしまう。



「夢……じゃない? いやいや、でも電車は夢だったし。というか相羽もいないし」



 でも切符は確かにここにある。俺の寿命は確かに18億秒で、それで、相羽は?

 途端に、ばくばくと心臓が胸を叩き始めた。喉がかーっと熱くなって、額がさーっと冷たくなる。死の香りがした、気がした。ロウソクを目の前にしたときと同じ感覚だ。でも今感じているこの予感は、57年後の未だリアリティのない死についてじゃない。

 俺は俺自身に問う。なあ、相羽すみれの寿命はいつだと思う? 俺は答えられない。代わりに浮かぶのは幾つもの疑問。なぜ相羽は寿命を知って「変わらない」と言った? なぜ相羽は過去形を使った? なぜ明日じゃなく先週に誕生日プレゼントをくれた? あの相羽が単語カードを余らせることがあるか? どうして相羽は、あの駅にいたんだ?

 全部、最初から決まっていたことだったとしたら。

 これは仮定だ。あくまで仮の話だ。相羽が最初から死ぬつもりだったとしたら。強烈な力で自分を死に引き寄せていたのだとしたら。あの駅に迷い込んでもおかしくない。

 くだらない妄想だ。根拠のない思い込みだ。自分に言い聞かせながら、俺はもう走っていた。缶コーヒーを置き去りに。人混みなんておかまいなしに。駅メロとは違う拍子で階段を駆け上がって、向こうのホームに駆け下りる。目指すは五両目の三ドア目。今日は火曜日で16時ももう過ぎてるけど、彼女はそこにいるはずだった。



 相羽、相羽、相羽――!



 心の中で何度も呼んで、右足と左足を交互に前に出す。先頭で電車を待つ白い制服を見つけた瞬間、その足は更に加速する。

 相羽の双眸は、いったいどこを見ているのだろう。遠くを見つめるようで何も見ていない目。毎週水曜日、相羽はいつもそんな目で電車を待っていた。多分、俺が知らないだけで、月曜日も火曜日も木曜日も金曜日も、土日だってそんな目をしていただろう。

 列車が来る。定められた速度でレールに沿って定刻どおりに一直線に向かってくる。同じ速さで手を伸ばす。相羽の冷たい手を掴む。死よりも強い力で引き寄せる。



「死ぬな、相羽!」



 音を立てながら、先頭車両が目の前を通り過ぎていく。遅れて風が吹いた。

 バランスを崩して俺に抱き留められた相羽が、じいっと俺を見つめる。流石の相羽も、驚いて目を丸くすることがあるらしい。脈が速くなることがあるらしい。



「蕨、なんで。今日は火曜だけど」



「別に、いつもだって約束してるわけじゃないだろ。てか二回目だぞこの台詞」



「……夢じゃなかったんだね」



「夢かどうかなんて知らないけど、あの電車で相羽と一緒にいた俺は、確かに俺だ。だから相羽の不自然な言動とか、そもそもあの駅にいたこととか考えたら、相羽が心配になって、死なないで欲しくて、俺は」



 相羽は「蕨の考え方、非効率的」と俺をぐいっと押して離れると、左腕をしゃかしゃかと振る。何かと思えば、俺はずっと相羽を掴みっぱなしだった。慌てて放すと、相羽の左腕にはシンプルで小ぶりな腕時計だけが残った。



「ここから飛び込んだって簡単には死ねないよ」



 ああ、確かにそうだよな。やるならせめて十両目からだ。上がった息の合間を縫いながら、言葉を続ける。



「悪い、俺、勝手に逸って、相羽を無駄に驚かせて、でも俺、ほんとに、相羽が自殺、するのかと思って」



 相羽は表情を変えず、被せるように「まだだよ」と呟いた。



「私が死ぬのは、今夜だから」



『東杠葉駅――東杠葉駅――次は――に停まります。――線、――線はお乗り換えです』

 開かれたドアの先、車内はいつもの電車より少し混んでいた。

 相羽はすたすたと涼しげな顔で奥のドアに背を向けて立ち、俺は追いかけて隣を陣取る。それから心臓を落ち着けた俺は、相羽のつむじに問う。



「なあ。もう一回聞いていいか? 相羽がいつ死ぬって?」



 答えが変わるかもと、聞き間違いであってくれと、願う猶予は一秒にも満たず。



「私は今夜、日付が変わって18歳になる瞬間に死ぬ。それが私の寿命」



 淡々と言い放つ相羽は、死神よりもよっぽど死神らしかった。



「そんな――」



「だから、蕨が止めようとしても意味ないんだよ」



 なんて言えばいいのか分からない。思考が混乱してまとまらない。本当に意味がないのか? 相羽はそれで納得してるのか? そもそも相羽は、なんで死のうとしてるんだ?

 何一つ分からない俺と数時間後に死んでしまう相羽を乗せて、電車は俺達の生まれ育った町へとまっすぐ進む。一駅分が過ぎてようやく、俺は乾いた口から声を出す。



「……相羽は。相羽はそれでいいのかよ。今日で本当に終わりなんだぞ。やり残したこととか、本当にないのかよ」



「やることはもう終わってるよ。銀行口座も携帯電話も解約して、遺書も作ったし、私物もぜんぶ燃えるゴミと燃えないゴミに分けた」



「違う。そうじゃない。そうじゃなくてさ」



 騒がしいくらいに車内にひしめく広告が、謎解きイベントとか、グルメフェアとか、新作映画とか、明日発売する本とか、脱毛とか、マンションとかを宣伝する。そのどれもが相羽には刺さらない。



「俺が言ってるのは、相羽が本当にやりたいことを出来たのかってことだ」



 困ったように。相羽は一年前に再会した日と同じくらい気まずそうに、目を伏せたり、逸らしたり。相羽の目には今も、窓の向こうがセピア色に見えているのかもしれない。空だけじゃなくて、チラチラとこちらを気にする乗客も、鞄の紐を握り締める俺も、ビルも、目に映る全ての物体が。



「それは蕨が一番よく知ってるでしょ」



 答えに詰まる。そのとおりだ。記憶を辿って作った相羽の好きなことリストには全部ペケがついていて、相羽にとってそれは、やり残したことがないか一つずつ確認する作業でしかなかった。今の相羽には何もない。空っぽだ。それを証明したのは俺だ。



「だいたい、なんで死のうとするんだよ。いつからそんな風に決めてたんだよ、俺になんも言わずに勝手に」



「蕨に言う必要ないよ。蕨には、私の痛みも、苦しさも、つらさも、分からないのに」



 相羽は俺のワイシャツの袖をつまむと、俺を見上げて、ぱくぱくと小さな口を開け閉めする。電車は次の駅に止まって、数人程度の乗客と空気がほんの少し、入れ替わる。それでも相羽の、まるで痛みに悶えるように歪んだ表情は戻らない。



「それは……確かに俺には分からないよ。俺に言っても何も解決しないし、無駄、なんだろうな、相羽にとっては」



 相羽が小さく頷く。ワイシャツの袖が、ほんの少し揺らめく。



「でも俺にとっては違う。明日からどれだけ待っても相羽が駅に来ない理由を、ちゃんと知って、納得したい。納得なんて絶対出来ないだろうけど」



「じゃあ、蕨にとっても聞くだけ無駄だよ」



 相羽はそう言い切って下を向くが、俺に無駄を説くのがいかに無駄かすぐに気付いたようで、固く結んだはずの唇を解いた。



「……胸が、痛いの」



 俺の袖を握り締める力が強まる。俺はただ、黙って相羽の言葉を聞く。



「一秒ごとに、秒針が胸をざくざく刺すように痛いの。ゲームでミスした瞬間みたいな苛立ちが、自分を責め立てるの。はじめのうちは何もしてない時に痛くなるだけだった。でも段々酷くなって、少しでも無駄なことをするだけで、痛むようになって」



 走行音にかき消されそうな独白を、俺は必死で耳にかき集める。相羽の痛みは、行きすぎた効率主義が自分自身を追い詰めるようなものだった。



「それで、高一のとき、隣になった子に言われたの。相羽さんってつまんないね、って」



 つらそうに伏せられた目の奥に、自分自身の経験を重ねる。俺も同じ時期、部活に邁進する同級生に、俺があまりに非生産的に生きていることを馬鹿にされたことがあった。まあ事実だから言い返せなかったけど。思い出したら腹が立ってきた。



「相羽は何か言い返したのか?」



「言い返さないよ。ただ自分の人生がつまらないって気付いただけ。その日を境に私は、今度は息苦しさまで感じるようになった。常に苦しいか、痛いかのどっちかで、私はそれで、18歳で死ぬことに決めたの。別に絶望したわけじゃないし、最初は本気でもなかった。そういうつもりで生きて、将来のために何かする意味自体を消せば、無駄とか、無為とか、無意味とか、考えずに好きなものが見つけられると思ったから」



 電車が停まって、ドアが開く。乗客は降りるばかりで、誰も乗ってこない。



「……でもだめだった。何をしても苦痛は和らがなくて、それどころか今はもう、何をしても痛いし、どこにいても苦しい。どうしてか分かる? 私自身がもう、私に生きてる意味がないって思ってるからだよ」



 相羽すみれには生きてる意味がない? そんなわけ、ないだろ。

 反論するのは簡単だ。相羽は俺に必要だって言えばいい。

 でも俺はその言葉を吐けない。だって俺はあれだけ仲のよかった相羽と、あっさり会わなくなった。連絡がつかなくても平気だった。俺の人生にはもう二度と登場しないと考えてた。一緒に帰るようになってからも、大学生になればまた会わなくなると思ってた。

 あの電車で言ったとおりだ。たまたま同じ日に生まれなければ、俺達の人生はそもそも触れ合うことすらなかったはずだ。だから俺は相羽の言葉を否定できない。でも。



「それでも俺は、相羽の最後が自殺で終わるのは嫌だ」



「もう、埒があかないから蕨の言葉を借りるよ。私の人生のテーマは効率化で、その極致が死ぬことなんだよ。だから自分の手で終わらせるのが、一番綺麗でしょ」



 苦し紛れの言葉は、相羽に届かない。きめ細かい肌にいとも容易く跳ね返される。



「それに、蕨は私の寿命が今日だって知ってるから、そんな風に止められるんだよ。もし私が死ぬのをやめて、それで長く生きられたとして、結局何も見つけられずに、苦痛だけが続いて、後悔だけが残ったら、蕨は責任取れる? そのくらいの覚悟で言ってる?」



 ああ、本当に相羽はズルい。俺のことをよく知っていて、だからこれ以上なく効率的に俺を諦めさせようとする。



「……取れるわけ、ないだろ」



 ここで責任を取ってやる、なんて言えるほど無責任なヤツに、俺はなれない。だけどここで納得して、このままの相羽をあの世に見送るのだって同じくらい無責任だ。だから俺は終わらせない。鼻腔に残った死の香りを辿って、相羽の腕をもう一度引き寄せる。



「でも相羽。これだけは聞いてくれ。俺があの駅に迷い込んだのは、偶然じゃない」



「……どういうこと?」



「あの駅は死に引き寄せられた人間が迷い込む場所で、だから相羽はあの駅にいた。じゃあ俺はどうしてあの駅に迷い込んだ? 75歳まで死ななくて、死ぬことなんて欠片も考えてないってのに。原因があるとすればそれは俺じゃなくて――」



 相羽の鼻先を打ち抜くように指差して、結論づける。



「相羽が無意識に、俺をあの駅に呼んだんだ。だから本当は相羽も、俺に助けて欲しいと思ってるはずだって、俺は思う」



 相羽は「そんなの」と呟いて、否定も肯定もしなかった。相羽はきっとまだ無自覚で、でも俺は確信していた。そうじゃなきゃ、そもそも相羽が俺に寿命を明かすわけがない。

 相羽は俺の言うことが正しいのか間違っているのか、心の中へ問い合わせるように、目を細めてずっと考え込んでいた。

 やがて車内案内の液晶には俺達の最寄り駅が表示されて、電車がゆっくりと減速して、

俺達を吐き出すために扉が開く。だけど相羽はまったく動こうとしない。



「降りるぞ、相羽」



 俺は相羽の手を引くが、相羽は小さな身体で踏ん張って、足裏を床から剥がさない。



「ねえ蕨。やっぱり、蕨の言うとおりかもしれない」



 相羽は俺の手を掴み返して、思いっきり引っ張った。俺はバランスを崩して、相羽を覆うように壁に手をつく。体勢のせいで、目線の高さがぴったり合った。



「だから死ぬ前にやりたいこと、一つだけ思いついたよ」



 こんなに可愛げがないくせに幼さを残したままの顔が、眼前にあった。これほど近くで相羽の顔を見たのは何年ぶりか。そう思った時にはもう、純粋な瞳が俺を撃ち抜いた。



「私、蕨と一緒に遊びに行きたい」



 俺達を車内に取り残して、ドアがゆっくりと閉まった。

 



 長旅を終えた列車が息継ぎのように扉を開くと、侵入してきた潮の香りが俺達を包んだ。



「終点ってこんなに遠いんだね」



「ああ。思ったよりも長かったな」



 時刻は21時を過ぎた頃だった。いざ改札を目の前にすると、外に出るのが躊躇ためらわれた。見知った世界と全く違う景色は、まるで異界のようだった。一歩でも踏み出せば、大人みたいにどうしようもなく自由になってしまう気がした。



「何してるの、蕨」



「切符を使うかタッチで出るか、迷ってるんだよ」



 足を止めた俺をじーっと見る相羽に、強がって答える。ポケットから取り出した切符に

は『1,802,381,801』と書かれている。さっきよりも減っていた。瞬きをするとまた減ったので、リアルタイムで寿命が表示されるらしい。



「タッチで出ないとだめに決まってるでしょ」



「それもそうだよな」



 あの駅は存在していて、実在していないのだから。

 メロンパン。2リットルのコーラ。チューペット。お菓子をたくさん。コンビニで最後の晩餐を買い込んた俺達は、道路沿いにぶらぶらと歩く。スマホの電源はとっくにオフにしてるから、今ごろ相羽母からは大量の着信履歴が溜まっているはずだった。もしかしたら、俺の方にも連絡が来てるかもしれない。



「見て、海だよ蕨」



「ああ。海だな」



 分かりきったことを声にして、無駄に確認し合う。俺達の目の前には、岩場があって、砂浜があって、海があった。

 相羽はその場でローファーとソックスを脱ぐと、四連続で海に投擲した。もう全部が無駄なものだと言わんばかりに、なんの躊躇もなく。



「ほら、蕨も投げて」



「俺に裸足で帰れと? 嫌だよ」



 相羽は俺の返事も聞かずに岩場を伝って砂浜に降りた。パンパンに膨らんだビニール袋を持った俺には真似できず、遠回りして階段から合流する。

 寄せては返す波に、中途半端な太さの月。都会から離れたおかげで、星もけっこう綺麗に見えた。俺にはどれが何座かは分からないが、砂なんて微塵も気にせず仰向けで寝そべる相羽は星空を指でなぞっていた。

 相羽は今もまだ、苦しいのだろうか。その痛みに耐えながら、最期の時間を過ごしているのだろうか。それとも今はもう、全てから解放されて身体が軽かったりするのだろうか。相羽の表情からは判別がつかない。

 俺の呼吸も、あの電車からずっと苦しいままだ。もしもこの息苦しさが相羽の苦しみとほんの少しでも重なるなら、俺はまだ、相羽を救えるのだろうか。

 微かにそんなことを思いつつも、俺はこの息苦しさの正体が、未だに掴めないでいた。



「相羽。このグミが美味いんだよ。中に果汁が入ってて、いくらでも食べられる」



「……うーん、別に普通かな」



 相羽と二人で、何の話をしてただろうか。多分、とりとめのない無駄話だ。回し飲みしたペットボトルはもう空になっていて、栄養ゼロ点な食事は二人の胃袋に全て消えた。

 広げた銀袋の中に何も残ってないことを確認して、相羽は立ち上がる。乱暴に投げ置かれた自分の鞄を拾うと、教科書も参考書もノートも筆記用具もなにもかも、ひっくり返して海に全部捨てた。

 そして、あろうことか空っぽになった鞄に海水を汲んで――戻ってきて、構えた。

 俺は危機を察知してすぐに飛び退く。ばしゃあ。寸前にいた場所は、あっという間に海水に濡れて漆黒に染まった。



「――っ! いきなり何するんだよ!」



「生き死にの水かけ論にはもう疲れたから、水かけ合戦だよ」



 たぷたぷの鞄を残忍に振り回す相羽から、俺は逃げる。逃げ回る。砂浜には円を描くように足跡がいくつも刻まれて、円の中心はどんどん海の側へと近づいていく。



「ぷあっ!」



 もとより運動不足な上に疲労の溜まっていた俺は、ついに足をもつれさせ思いっきり後ろにひっくり返った。ばしゃあん、と水しぶきが舞って、一瞬で全身がびしょ濡れ。ミネラルたっぷりな制服の完成だ。



「蕨、なに今の声。え、もう一回やってよ」



「やらねえよ――ぶはっ!?」



 浅瀬に漂う巨大な植物プランクトンこと俺めがけた、鞄一杯分の無慈悲な追撃。なにするんだよ相羽、と文句を言う気も失せた俺は、代わりにこう指摘する。



「……なんだよ。相羽も笑えるんじゃないか」



 そこには小さい頃と変わらない笑顔が、月よりも綺麗に輝いていた。



「あ。ほんとだ。……ならやっぱり、死ぬって決めてよかったよ」



「そこは違うだろ。俺と遊んでよかったって言えよ」



「うん。蕨と遊んでよかった」



 星空を背負った相羽は、珍しく素直に頷いた。



「ああ。だからこれからもさ、気晴らしに俺と遊ぼう。きっと楽しいから。それでもし相羽がちょっとでも楽になるなら、俺は人生最後の日まで、相羽に付き合うから。だから」



 出来ない約束だとしても、相羽の心が軽くなればいい。あわよくば奇跡が起きて、運命が変わればいい。そんな想いを込めていたからか、俺の声が震え始める。俺の唇を、そっと人差し指が塞いだ。逆さまに映る相羽がふるふると首を横に振る。



「だめだよ。これが私に最後に残った、たったひとつの好きなことだから。なのに私は今も痛くて、苦しくて。きっと明日にも捨てちゃうから。捨てちゃう前に、やっぱり死にたいよ。本当の空っぽになる前に、蕨の記憶の中に、今の笑えてる私をセーブしたい」



 そんなこと言われたら、もう何も言い返せない。

 相羽が腕時計を外して、ベルトをつまんで俺に見せる。逆さまになった時計を読めば、日付が変わるまで残り600秒。相羽は大人になる前に、死んでしまう。



「じゃあね」



 砂浜に腕時計を置き去りに、相羽はゆっくりゆっくりと、海の一番奥を目指して進んでいく。手を伸ばしても届かない。このまま一人で行かせたくない。起き上がった俺は相羽を追いかけて、懲りずにまた小さな手を掴んだ。



「止める気?」



「……もうそんなつもりはない。さっき言ったばかりだろ。人生最後の日まで相羽に付き合うって」



 相羽は無言で頷いて、足は止めない。掴んだはずの手はいつのまにか繋ぐようになっていて、波にもまれながら、俺達はどんどん深くへ進んでいく。



「蕨。まだ大丈夫?」



「相羽が大丈夫なうちはな。俺の方が背が高い」



「そっか。小五の時に抜かしたのに、また追い抜かれちゃったね」



 跳ねた水しぶきが顔にかかるようになってきた。そろそろ相羽の首筋が見えなくなりそうになった頃に、相羽は足を止めた。



「ねえ。蕨は何歳まで生きるんだっけ」



 振り返らないまま、相羽は俺に訊く。たぶん、これが最後の会話だ。



「75歳だ。長いって思ったけど、案外あっという間かもな」



「それまでに、人生のテーマは見つけられそう?」



「……さあな。まだ分からない。でも、早く見つけなきゃだよな」



 人生は絶対に有限で、時間は平等に過ぎていく。好きなことのために生きることで、人生は色づく。やりたいことをやることで、人は満たされる。テーマがあってこそ、人生という物語は生き生きと輝いて、後悔のない死を迎えられる。

 俺は自分が死ぬと言われて初めてそれに気付いた。あの駅に迷い込まなければ、自分が死ぬなんて想像もせずに人生を無為に過ごしただろう。死というゴールに向けて自分の人生を作るのは、他でもない自分自身だ。

 だけど。

 そうやって考えれば考えるほど、息が苦しくなる。

 身体がゆらゆらと揺れる。海の底で溺れているような感覚がした。

 だから今の俺には、その素晴らしい法則がどうしても間違ってるとしか思えなかった。



「なあ、相羽。最後にもう一回だけ、俺の言葉を聞いてくれないか」



「……ん。いいよ。子守歌だと思って聞く」



 この息苦しさが相羽との共通言語だと信じて、俺は謳う。



「やっぱりさ。やりたいことなんて、好きなことなんて、なくていいんじゃないか?」



「え。いや、いまさら何言ってるの。人生のテーマはどうしたの?」



 呆れたような声だった。ざざん、ざざんと夜の海も怒ったように鳴った。



「そうだよな。確かに俺が言ったことだ。もちろん否定するわけじゃない。テーマのある人生はそれで、きっと素晴らしいだろうよ。でも、息苦しいんだ」



「苦しい。……うん。そう、だね」



 波に揺られる相羽は、乱れた呼吸で俺に首肯した。相羽のつむじに向けて、俺も頷く。



「昨日までの俺は無駄を愛してた。それは多分、強がりだ。本当は何もしない自分を肯定するために、俺は無駄が好きなんだって言い聞かせてただけだ。でもなんで、強がらなきゃいけないんだ?」



「そういう人生は、つまらないからでしょ」



 相羽も俺も、人生が充実しているであろうヤツからそう評価された。何かに打ち込む人生は、何にも打ち込まない人生よりも面白い。それはそうだろうよ。



「そこがおかしいんだよ。つまらなくて何が悪いんだよ。だって、俺達の人生は誰かを楽しませるためのものじゃないだろ。俺達の人生は俺達だけのものだろ。だから、そうだよ。人生は物語なんかじゃないし、ましてやゲームでもないんだ。目標なんて立派なものも、テーマなんて大仰なものもなくていい」



 自分で作って自分を縛ろうとした理屈を海に放り投げ、新しい言葉を組み立てていく。まだ上手く、説明できないけれど。



「そしたら、私はなんのために生きればいいの? やりたいことも好きなこともない人生は、空っぽだとしか思えない」



 相羽が見つけた最後にやりたいことは、俺と遊ぶことだった。そうして数年ぶりに笑って、心から楽しんでいた。それすらも楽しめなくなったとしたら、何のために生きればいいのか。

 好きなことして生きるのが一番の幸せ。大事なのは自分らしく生きること。やりがい。生き甲斐。綺麗で前向きで希望に満ちあふれた、正しい言葉だ。

 でも、俺達にはそれが苦しい。息ができない。

 じゃあ、好きなことがなければ不幸で、自分らしく生きないことは不正解で、やりがいや生き甲斐がなければ可哀想なのかよ。言われてないのにそう感じてしまうから。

 それは本気で何かにのめりこめなかった俺のせいか? 好きなものを見失った相羽のせいか? 違うはずだろ。



「なんのために生きるとか、そういうんじゃない。なんとなく生きるだけでもいいだろ。与えられた一秒をどう使おうと、俺達の勝手だ。だから俺は明日からも無駄に過ごすし、相羽も効率を追い求めて生きたことを、否定なんてしなくていい」



「でも、ただ生きてるだけじゃ、私が私である意味がないよ」



「自分が自分である意味って、何をするかじゃないだろ。俺も、相羽も。心の中では悩んで、苦しんで、色々なことを考えてて、ときどきそれを言葉にして、それでまた誰かが何かを考えて。それだけで相羽が相羽である意味はある」



 これもまだ、ちょっと違う気がする。



「蕨。もういいよ。もう、何も言わないでいいから。こんな問答、いまさら無駄だよ」



 相羽の手が震えている。死を目前にした相羽にこんなこと喚き散らして、意味があるのだろうか。浮かび上がった思考を、すぐに海の底へ沈める。

 意味があるとかないとか、そういうことじゃないんだ。

 俺はただ、相羽を肯定したい。そして俺自身を肯定したいだけなんだ。



「なあ、頼むよ。死なないでくれよ、相羽すみれ。俺は相羽がいなくなったら嫌だ。それは相羽が勉強ができて将来の選択肢がたくさんあるからとか、幼馴染って関係だからとか、好きだからとか嫌いだからとかそういうんじゃなくて。俺が相羽といる時間に意味があるとかじゃなくて」



 気付けば俺は不安定な足場を踏みしめて、波に必死で抵抗しながら、相羽を引き留めていた。止める気がないって言ったのに、これじゃあまったくの嘘だ。息を深く吸って、吐いて、大きく吸う。煤けた臭いはどこにもない。



「俺は、相羽が生きるはずだった時間が消えるのが嫌なんだよ。相羽が抱くはずだった相羽だけの感情がこの世から消えるのが嫌なんだよ!」



 なんだか、堂々巡りで同じ結論に戻ってきてしまった気がする。それもそうだ。結論ありきで話しているんだから。



「蕨は本当に、馬鹿だよ。何も考えてない。もう放してよ」



 相羽は俺のことなんてお構いなしに、腕をぐいぐい引っ張って進もうとする。波の力に押されて、繋いだ手がほどけそうで、それでも俺は負けない。



「嫌だね。絶対に放さない!」



「どれだけ蕨が止めても、私はどっちにしろ死ぬんだよ?」



「そんなの知らねえよ! だって俺はただ、相羽に死んで欲しくないだけだから! 約束する。意味なんてなくていい。空っぽでもいい。もし俺の言ってることが間違ってたら責任取って一緒に死んでもいい。だから、だから生きてくれよ。生きるって決めてくれよ、相羽すみれ!」



 これだけ魂込めて叫べば、あのビビりな死神に届く気がした。ロウソクが伸びる奇跡だって余裕で起きると信じられた。



「……なに、それ。死ぬって。本気で言ってるの、蕨」



 海に入ってから初めて、相羽は俺を振り返った。この期に及んで読みにくい表情だった。涙の一粒くらい流しておいてくれと思う。

 だけど俺には分かった。俺にだけは分かった。今この瞬間、奇跡が起きたのだと。



「当たり前だろ。本気で言ってる」



「そんなの、重すぎるよ。なんにも安心できないし、死ぬときくらい一人で死なせてよ」



「いいや、駄目だね。少なくとも相羽は18億237万1884秒後まで俺と一緒だ。たった今そういうことになった」



 ポケットから取り出したびしょ濡れの切符に書かれた数字を読み上げながら、俺は相羽の手を固く握って引き寄せた。もう抵抗はない。ざぶざぶと大股で、陸へと戻る歩を進めていく。



「そっか。それが蕨の答えなんだ。……結局、こうなるんだね」



 相羽が一歩、二歩と水中でホップして、俺と横並びになる。何を考えてるのかさっぱり分からない絵画みたいな横顔は、たぶん、月を見上げていた。



「ところで蕨は、こういう数字に見覚えあるよね?」



 相羽がどこからか切符をを取り出して、俺に見せつける。そこには『1,802,371,870』と書かれていた。



「……え。いや、どういうことだよこれ。だって相羽はもうすぐ死ぬんじゃ」

「嘘、ついてたんだ。ちょっとした可愛い嘘を。私の寿命は、最初から18億秒」



「はあ? いや、そんな、え。ぜんぜん可愛くないだろそれ」



「でも私、本当に今日死ぬつもりだったんだよ。死神に切符を貰った時もそんなはずないって思ったし、予定どおり決行しようとしてたし。なのに本当に、運命は変えられないんだね。残念」



 相羽は俺の切符をひったくって、二つの切符を、月を挟むように並べて掲げた。瞬きすると、綺麗に同じ数字に揃っていた。――18億と237万と1829秒。相羽の寿命は、俺の寿命とまったく同じ。これが示すところは、すなわち?

 俺が困った表情で答えを求めると、相羽はばしゃばしゃと波を蹴って走って、砂浜に一番乗り。こっちを振り返り、彼女なりの大声を海と俺にぶつけた。



「蕨はすごいね! 本当に責任取って死ぬつもりなんだ、私と一緒に!」



 ああ。やっぱり、そういうことになるよな。

 だとしたら。もしかすると俺は今、とんでもない契約をしてしまったんじゃないか?

 途端に相羽が死神のように見えてきた。真っ白い装束に長い黒髪を垂らした、表情乏しく効率主義の死神。やっぱり死神よりも死神らしいじゃないか。

 ……あれ? でもそれって。



「そしたら俺の言ってること、間違ってたってことにならないか?」



 二着で砂浜に、一着で相羽のもとに戻った俺は、相羽と同じ目線に屈んで、とんでもない大発見を報告する。



「確かに。じゃあ、死に直そっか」



 相羽は俺の手をぎゅうと握りしめて、一歩踏み出す素振りをした。もう勘弁して欲しい。



「いや待て。もしかしたら全然違う理由で死ぬかもしれない。一緒に事故に遭ってとか、そういう感じでさ。だから即断はやめてくれ。な?」



 相羽は黙って肩を竦めると、その場で体育座りして「今日のところはね」と答えた。



「ところで蕨は、私のこと好きなの?」



「はあ? なんで急にそうなるんだよ」



 脈絡のない発言が怖すぎて、俺は相羽と二人分くらいの距離を取って、砂浜に尻をつけないように腰を落として屈む。



「だってさっきの、誰がどう聞いても告白だと思うよ。普通、一緒に死ぬとか言わないよ。しかも75歳になってまでさ。おまけに有言実行確定だし。そんなのもう、ただならぬ関係だと考えるしかないけど」



 ぐい、と一歩詰めてきた相羽は、頬の一つも染めずに端的に考察を述べ上げた。



「じゃあ逆に聞くけど、相羽は俺のことが好きなのかよ?」



「ぜんぜん違うけど」



 純粋な瞳が俺を射貫く。それはそれで傷つくな。



「でももしこれから紆余曲折があってそうなるんだとしたら、早いうちに付き合った方が効率的だと思わない?」



「いや、マジでどうなってんだよその思考回路。ニューロンがバグってるぞ」



 全身砂だらけの怪物が腕をついてぐいぐいぐいと迫ってくるので、俺は照準を定めて、額にデコピンをお見舞いする。



「いっ……たいなあ、もう」



「そんな安易な答えが、長旅の果ての正解であってたまるか」



 ふと、砂上に放置された腕時計が目に入る。ホッとしたような表情を浮かべる相羽を、俺は尊いと思った。この瞬間を迎えられて、本当によかった。



「まあ、あれだ。今の俺が相羽に言えることがあるとするなら、一つだけだ」



「それって?」



 不思議そうに首を傾げる幼馴染は、これからいったいどんな顔をするだろうか。

 俺は砂だらけになった自分の鞄を引き寄せて、乾きかけの腕を無造作に突っ込む。目当ての物を取り出して、目も合わせないまま最大限にぶっきらぼうに突きつけた。



「誕生日おめでとう、相羽すみれ」
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6、作家名
サイトウケンジ
SAITO KENJI

参加作品
ハサミ女のはすみ先生
ハサミ女のはすみ先生
『不可思議な不審者事件、大量発生中につき、住人は警戒を!』



『2019年12月25日 神奈川県横浜市戸塚区の路上に令和の"口裂け女"出現!?』

『23時に塾から帰宅途中の女子高生A美さんが包丁のようなものに刺され重傷!』



『2020年1月7日 千葉県浦安市猫実の一般家庭に"メリーさん人形"出現!』

『自室で就寝前の女子中学生N子さんが意識不明の重態、未だ意識回復せず』



『2020年2月4日 埼玉県川越市松郷の住宅街に"人面犬"出現!』

『24時過ぎに複数の人が目撃。SNSを通じて写真が拡散中。被害者はなし』



『2020年2月14日 静岡県富士市比奈にて"きさらぎ駅"発生!』

『会社員のHさんがSNSで報告。以後、消息不明』



『オカルト関係者の間でこれらの現象を"フォークロア事件"と命名』

『短縮して"ロア"発生と呼称。以後、ロア関係の事件大量発生中』



『2020年2月29日 全世界に"閏年の魔"出現』

『詳細不明。2月29日を百日過ごしたものとされる。全世界より記憶消失』

『フォークロア事件として初の大規模事件』



『2020年3月3日 東京都東村山市栄町の交差点に"四辻の怪"出現!』

『近隣の小学生男女6名が三日間行方不明に。現在は心身ともに元気に帰宅済み』



 …………。



 2023年の現在も。

 

 ――記事は増え続けている。

 

 僕は『フォークロア事件まとめサイト:ロア速報★』をスマートフォンで見ながら、それらの事件を指でスクロールして見ていた。そこにはあまりオカルトに詳しくない僕でも知っている、怪異の名前たち。都市伝説や怪談の定番とされているものが『本当にあった事件』として列挙されていた。

 だいたい四年前からまとめられているけれど、コメントには『もっと前からいっぱいあった』というのも見かけたので、実際はずっと事件は続いていたのかもしれない。

 それにしても、オカルトをかじったことがあるだけの僕から見ても、見事なラインナップだった。



「『口裂け女』以外にも色んなのが載っているなあ……」



 2019年から現在にかけて、事件発生数は増加傾向にあった。

 そして僕は。

 

『2023年7月1日 東京都豊島区長崎にて"ハサミ女"が出現』



 フォークロア事件を解決している人が、そこにいることも知っていた。

 この記憶は時間を追うごとに、まるで夢の出来事だったかのように消えていく。

 だから僕は今のうちに、こうして記憶にある限りをこのサイトに書き込もうと思った。

 確かに僕は、この事件で"ハサミ女"に助けられて、そして――。

 

 これから記す物語は。

 

 いわゆる僕の初恋の物語である。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

【事件当日:23時 東京都豊島区長崎椎名町駅付近にて】



 その日のその時、僕は『人に非あらざる者』に恋をした。



『口裂け女』の生首が、綺麗な放物線を描いて飛ぶと、そのまま歩道の上を三回ほど転がって、電信柱にぶつかって止まる。

 同時に信号が青になり、電子音のちゃちで音程のずれた不気味な『夕焼け小焼け』が流れた。23時を過ぎた人影のない道路に響く音は、なんだか物悲しい。

『口裂け女』だったものの生首。

 断面からは血ではなく黒い煙のようなものが漂っていて、下ではなく上に向かって伸びている。その先端はゆらゆらと不安定に揺れながら虚空に消えて。



『何が起きたのか分からない』



 そんな驚いた目をした彼女の視線と、きっと似たような表情を浮かべている僕の視線が交差した時には――。

 傷口から広がった黒い煙が彼女の頭全体を覆い、ふんわりと静かに、最初からそこには何もなかったかのように消滅してしまった。

 後に残っているはずの胴体を慌てて振り返ると、赤いワンピースに身を包んだそこそこグラマラスな背の高い肉体も同じように首の断面から黒い煙と化して消えていく。

 カランと乾いた音を立てて、血で錆びた包丁だけが残った。

 念のため言っておくが、僕が恋したのはこの殺された『口裂け女』ではない。

 

「ふう。『口裂け女』討伐完了」



 今、目の前で大立ち回りをした女性が一息ついた。

 彼女は『口裂け女』の手にした包丁の斬撃を全てヒラヒラと回避し、反撃のたった一撃で見事、首を刎ね飛ばしたのだ。

 女性の名は『はすみ』先生。

 それが苗字だったのか名前だったのかは忘れたけれど、学校の誰もが『教育実習生のはすみ先生』と親しげに呼ぶので、僕もその名前で覚えてしまっていた。

 僕がこの瞬間に恋をしたのは、正に彼女だった。



「大丈夫? 海野うみのくん」



 何事もなかったかのような顔で、腰を抜かしていた僕を気遣ってくれる。

 ピシッとした紺色のリクルートスーツは乱れることはなく、整った綺麗な顔立ちも汗ひとつかいていないクールなままの印象。セミロングの黒髪もつやつやでサラサラしていて、生徒たちが憧れている姿そのままだ。

 ただひとつ。圧倒的に違和感を覚えさせる謎の巨大ハサミを持っていることを除けば。

 両手で、それぞれのハサミの持ち手である輪の部分を握っている。先の方はクロスして、鋭利でギラギラした刃が伸びていた。長さは先生の身長くらいあるから、160センチとかそれくらいだろうか。暗闇に街灯を反射している姿は、なんとも言い難い禍々しい雰囲気を醸し出している。

 いつもの先生の姿でありながら、あり得ないほど異質な巨大ハサミ。

 あまりのミスマッチのせいで逆に整合性が取れて美しさすら感じて。

 僕の心はすっかり先生に囚われてしまっていたのだ。



「お話できる? こんばんは?」



 まるで、学校で普通に挨拶するみたいに落ち着いた声音で尋ねられる。

 見た目完璧美人である彼女の唯一の違和感、思った以上に声が高めで甘く柔らかいというのも魅力のひとつなわけだけど。こんな時間にこんな場所、こんな状況で普通に尋ねられてしまうと恐怖とか驚愕とか愕然とかそういうよく分からない感情でいっぱいになる。

 なんて応えていいか頭が追いつかない僕を気遣うように見て、はすみ先生は『パチン』とハサミをたたむと、安心させるように胸を張り。



「もう大丈夫、海野うみの蛍ほたるくん。悪いオバケは先生が退治したから」



 僕のフルネームを呼んで、現状を正確に教えてくれた。

 前から少し子供っぽい仕草をする先生だと思っていたけれど、まさかこんな化け物を退治した時まで自然体のままだとは。

 僕もなんとか声を振り絞って、返事をしてみる。



「え、あ、う、え、は、はさみ?」



 それでも言葉が出ず、ようやく口をついて出たのはその単語だった。



「私? あ、これか。大丈夫。こうすればコンパクトなハサミに戻るよ」



 ハサミの真ん中にあるボタンのようなものを押すと、ハサミから黒い煙が出て消えてしまう。……いや、消えたのではなく、普通の文房具サイズに小さくなって先生の右手に収まったのだ。

 さっきの生首や胴体が消えた時のような黒い煙。

 先生のハサミは、いや、先生本人が、さっきの『口裂け女』みたいなものなのかもしれない。つまり、あのハサミは首を切断するためのもので、次の犠牲者はもしかして僕だったりするのだろうか? そんな生命の危機を感じるほど、そこにある武器は正に恐怖を顕現していた。



「はすみ先生のハサミ、なんちゃって」



「え? あ、はい」



 たぶん冗談だったのだろうけれど、今の僕に笑っている余裕なんてない。

『口裂け女』があっさり殺されたのも驚いたし、先生がめっちゃ強いのも驚いたからだ。



「やっぱり、まだちょっと怖い? 分かった。先生がご馳走しましょう!」



 僕の内心に気付いているのかいないのか、はすみ先生は得意げに言うと辺りを見回した。

 その時になって僕もようやく気付く。少し離れた大きな道路からは車の行き交うような音が聞こえ、道には普通の人が数人、特に何も気にした様子もなく歩いている。

 さっきまでの誰もいない街ではなく、ごく当たり前の日常が帰って来ていた。

 

「この時間だとマクドしかないんで、マクドでいい?」



 そして一番非現実的だった先生が、一番一般的なお店の名前を出して。



「先生って関西の人だったんですか?」



「あ! 東の方だとマックって呼び方だっけ」



 先生は親しみ易いいつもの返しをしてくれた。

 なんにせよ、僕はどうにか生き延びることができたらしい。

 一時はどうなることかと思ったけれど、今は無事だ。



「ううう……」



 しかし、僕の心は晴れなかった。

 確かに命や体はまったくもって問題ないのだけど。



「どうしたの? お腹痛い? 便秘? お腹ピーピーかな?」



「大丈夫です! あと、高校生相手にそれはデリカシーがないです!」



「元気そうで良かったよ」

 

 先生はあくまで気さくに僕を心配してくれていた。

 恐怖空間にいた生徒を明るい冗談で気遣ってくれている……のだと信じたい。

 しかし、僕は本当に頭も、お腹も痛いような状態だった。



「先生って、ああいう化け物みたいなの、やっつける人なんですか?」



 思い切って尋ねてみると。

 

「そうだね。結構やっつけてるよ。そろそろ三桁キルかな」



 ものすごい数字を平然と言ってくれたりする。

 だんだん僕の緊張感は増して冷や汗も出てきた。

 

「あれ? ヤツの残した包丁は?」



 さっき『口裂け女』が落とした包丁のことを言っているのだろう。

 

「さ、さあ?」



 僕は白を切って視線を斜めに向けた。

 

「倒した時に消えてしまったのかな。まあ、ならいいか」



 先生はあっさりと納得すると、もう包丁の行方を探さなかった。

 僕はホッとすると同時に、罪悪感まで押し寄せて余計に色々痛くなる。

『口裂け女』の包丁は、僕のリュックサックの中にしまってある。

 さっきのどさくさに紛れて拾っておいたからだ。

 何故、そのようなことをしたのかと言えば……。

 

『そこの女を殺しなさい』



 耳元では低く不気味な声がずっと聞こえていた。

 

 ――こんなにも優しくて強い、そして恋焦がれたはすみ先生を。

 僕はこれから、殺さなきゃいけないようだ。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



【事件前日:16時 私立イリオス学園図書室にて】



 はすみ先生とよく話すようになったのは、僕が図書委員だったからだ。

『口裂け女』との戦いから、十日くらい前だったと思う。

 

「何か、都市伝説とか地域のオバケ伝承が載ってるような本、あるかな?」



 図書室で受付を担当していると、やってきた先生が唐突に尋ねてきた。以前から先生の現代国語の授業を受けていたので以前から顔は知っていたけれど、直接二人で話したのはこれが初めてで。



「はすみ先生って、オカルトが好きなんですか?」



「どちらかと言えば嫌いだけど、生きるのに必要なんだよね」



 あの時はそれが冗談だと思っていたものの、どうやらそのままの意味だったらしい。

 僕は知っている限りの本を紹介してみた。近隣の図書館や近所からの蔵書提供もあってか、我が伝統ある私立イリオス学園の図書室には結構古い本も揃っている。妖怪とか怪異とか、そういったおとぎ話みたいなものも結構揃っていた。単なるオカルト本かと思っていたけれど、民俗学とか考古学とかなんかの学問にとってはこういう資料も重要らしい。



「へえ。思ってたよりもいっぱいあるんだね。今日は一冊くらいしか読めないけど」



 先生が手にしていたのは分厚い『実録! 恐怖の都市伝説集』という、いかにもなタイトルのバラエティ本だ。全国から集められたオカルト話についての解説が載っている本なのだが、いかんせん内容が薄い。オカルト関係の本に一家言ある僕は、素人相手にマウントを取れる機会だとばかりに提案することにした。



「それよりもこの辺りのオバケとか怪談に詳しい本があったはずなんで、明日までに探しておきますよ」



 親切心でそう伝えると、先生は目元を緩めて嬉しそうに僕を見た。学校の生徒たちに人気なのが分かる、美しい笑顔。静かで落ち着いた大人の女性の佇まいに、男子だけでなく女子たちからも注目を集めていた。

 この時の僕はまだ、単に美人な教育実習生に親切にしたいだけだったので、恋心も下心も何もない純粋な図書委員だった。逆にそれが良かったのだろう。先生はそれから毎日のように図書室に足を運び、僕も当番の日ではなくても放課後には通うようになった。



「海野くんのおかげで、とても調査が捗っているよ。ありがとう」



 今にして思えば、先生は化け物退治の調査を全く隠していなかったように思う。当たり前のようにそういう話をしていた辺り、それほど秘密にしていなかった。

 だけどあの日の僕は全く気付かず、自分と趣味が似たこの先生に友情みたいなものを抱いていたのかもしれない。



「はすみ先生、これを使ってください」



 だから、栞を渡したのも単なる親切心だった。

 後で恋に落ちるのを知っていれば、もっとオシャレだったり可愛かったり、せめて押し花で彩ったような手間のかかった物を渡していたはずだ。

 だけど、僕が選んだのは本当に便利なだけの、青い短冊型の栞だった。アルミ製の金属で造られた、少し頑丈なだけの物。それは、図書室にカラーバリエーションがいっぱいある、いわば図書室の備品だ。

 強いて言えば黄色のリボンがアクセントとして付いているが、いかにも本に挟むだけが目的の代物。

 先生が栞を受け取って目を丸くしているので、僕はため息交じりに伝える。



「先生、学校で渡されたプリントを栞代わりに使っているでしょう。こないだ返却してもらった本に入っていましたよ」



 僕の指摘に、先生は「あっ」と思い出したように口を開けて、それから嬉しそうに手にした栞を見つめていた。横顔を見ていると確かに『あ、可愛いなこの人』と思っていたので、僕が恋に落ちる可能性は既にあったのかもしれない。



「なるほど、本に挟む、金属の栞、ね。なるほどなるほど」



 何に納得したのかは分からないけど、先生は何度も栞を眺めている。そして目を細めて僕をまた見ると。



「この青い色は、海野くんらしいね。名前が海をイメージさせるからかな。そういう意味だと、黄色いリボンも蛍を模しているみたいに見えるし。うん、いい思い出の品だよ」

 

 特に意味もなかったのに、そんな風に名前と関連付けられてしまうと照れくさくなる。色違いの栞は図書室にいくらでもあったのに、たまたま渡した物が僕の名前を連想させる思い出になるなんて、全く考慮していなかった。



「ふふっ、それにしても栞のプレゼントだなんて」



 とてもご満悦過ぎる様子なので、居心地の悪くなった僕は。

 照れ隠しも兼ねて先生に話したのだ。



「そこまで喜ばないでください、単なる備品です。それに、そろそろ帰らないと危ないですよ。最近、この近くには『口裂け女』が出るんですから」



 それは本当に、何も知らなかった頃の僕がたまたま話しただけだった。だけど、話を聞いた瞬間の先生は、露骨に顔色が変化したのだ。

 あんまり感情が表情に出ない人なのは知っていたけれど。その時ばかりは明らかに、強い興味を示していた。猫とか犬が、目の前に玩具をぶら下げたらすっごい見てくるようなあの感覚に近い。



「なにそれ、すっごい興味ある話だね!」



 語調まで強くなっていたので、僕は得意になってしまったのだろう。

 もしくは、このクールな美人と言われてるけれど、本当は素直で愛らしい先生を、少しは怖がらせたい。そういう意地悪の意図もあったのかもしれない。

 だから。

 全く存在しない『口裂け女』の噂話を、でっち上げた。



「夜の22時過ぎから24時くらいの間に、駅から少し離れた児童公園の脇に細い道路があるんですけど、そこに『口裂け女』が現れたらしいんです。赤いワンピースを着た背の高い、髪の長いマスクをした女性の姿で。たまたまその時間帯に近くを通りかかった塾帰りの女子高生が、話しかけられてしまって……」



「『わたし、綺麗?』みたいな?」



「そうです。女子高生も不気味に思ったものの、マスクで覆われていない目元はとても美人だったから『綺麗だと思いますよ』と返事したそうで。すると、女性はマスクを取って『これでも綺麗かー!?』と叫び。その口は頬を裂いて、耳の近くまで裂けていた……」



「おお、典型的だね。それでそれで?」



 先生は怖がるのではなく、むしろ興味津々の様子だった。本来は怖がらせるのが目的だったのに、すっかりエンターテインメントになってしまっている。だから、本来ならばこの後は『ポマード!』と女子高生が『口裂け女』の弱点である整髪料の名前を叫んだおかげで助かった――という流れのつもりだったのだが……。

 悪戯心を抱いた僕は、凄惨なパターンの方を伝えたのだ。



「女子高生は咄嗟に『口裂け女』の話を思い出して『ポマード!』と叫んだんです。ですが、現代の『口裂け女』には全く通じませんでした。女子高生はあえなく彼女に捕まってしまい、口を包丁で引き裂かれてしまったんです……!」



 まあまあ脚色してしまったが、もともとの『口裂け女』も概ねこんな感じの話だったはずだ。確か『ポマード』が効かないヤツも現れた、みたいな話を見たこともある。オカルトや都市伝説が好きなはすみ先生なら知っていたかもしれないが、この食いつき様なら意外とまだ押さえていない話だったのかもしれないな。



「なるほど。この街に現れるのは『ポマード』の呪文が効果がないヤツで、包丁で口を引き裂くタイプか」



 先生は顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。

 もしかしたらこの時既に、どう戦えばいいのかを考慮していたのかもしれない。

 だけど、この時の僕は怖がらせることに失敗したと思って、更に余計な一言を付け足してしまったのだ。



「しかも、犠牲となった女子高生はまだ見つかっていないそうですよっ」



 最後は行方不明パターン。

 これも定番と言えば定番なのだが……。



「そうなんだ。それは大変だね」



 先生の目に映っているのは、それまでの愛らしい動物のような好奇心ではなく。

 怜悧で生真面目な……いや。

 どう殺せばいいのかをひたすらデジタルに考えている『殺人鬼』の目だった。

 それまでそこにいた可愛らしい女教師ではなく、何か物体的な無機物。

 それこそ、人を殺すための刃そのものみたいな。

 何人も人を斬り殺した日本刀は美しさと恐怖を同時に植え付けると言われている。

 今の先生の目は正に、それと同じように見えた。

 

「っ!」



 背中にゾクゾクとした寒気が走り、同時に何か触れてはいけないものに触れてしまったような、奇妙で居心地の悪い感覚に囚われる。僕の作り話のせいで、目の前にいる愛らしい先生の開いてはいけない扉を開いてしまったような、罪悪感めいたものも抱いて……。



「な、なんて、冗談ですけどね、すみません、そろそろ図書室を締めますので!」

 

 怖くなってしまったのを誤魔化すように、その日は慌てて図書室を締めた。先生はきょとんとしていたが特に疑うこともなく「またね」と挨拶をして去っていく。

 僕はと言えば早々に戸締まりを済ませると、駆け込むように帰宅した。

 ずっと頭からは先生の『目』が離れない。あまりにも冷たくて、あまりにも透明で、そしてあまりにも綺麗で。その美しさは圧倒的な『死』を連想させるものだった。

 もしもあの目に僕が映ってしまったら、それこそ殺されてしまう。

 そんな妄想に囚われ、それから僕は思い出しては震えるようになってしまい……。

 暫くは、バツが悪くなって図書室に行かなかった。当番の日も別の図書委員に代わってもらい、先生の授業でもなるべく目が合わないように過ごす。

 彼女を見る度に、恐怖を思い出してしまう。

 あの目は純粋な闇の深淵だ。

 深淵を覗き込もうとすれば、逆に深淵からも見られている……みたいな言葉もある。

 つまり、関わってはいけないと本能的に察した。



 そのまま先生と関わることなく日々を過ごし、一週間が経過した頃。

 もうすぐ、はすみ先生の教育実習期間が終了する辺りだと安心していたところで……。

 そのニュースが目に入ってきた。



『東京都豊島区長崎椎名町駅付近に"口裂け女"出現!? 私立イリオス学園の制服を着た女子生徒が行方不明に!!』

『衝撃の犯行の瞬間写真を公開! これが令和の口裂け女だ!』



 スマートフォンのおすすめ記事の欄に出てきたニュースを慌てて開いてみる。

 そこには公園の監視カメラで撮影したらしい写真が掲載されていた。

 色は白黒でよく分からないものの、背の高いワンピースの女が、我が校の制服を着ている女子生徒を襲っている姿が写っている。手には大きな包丁のようなものが握られており、逃げようとしている女子を掴んでいるような写真だった。



「え、なんだこれ……?」



 信じられない光景に、零した声は嗄れていた。

 自分が創作した『口裂け女』が実際に現れた?

 そこにある公園は、確かに僕が先生に話した場所だ。

 見覚えのある街並み、小さな横断歩道、信号機の付いた電信柱。

 どれも見知った特徴をそのまま写している。



「僕の話が現実になった? 僕のせいってことか? いやいや、そんなわけないっ」



 震える声で自分に言い聞かせたのだが、心のどこか……魂の部分では理解していたのかもしれない。

 この『口裂け女』は自分の作り話が生み出したもので。

 ――実際に被害者まで出してしまったのだ、と。

 その後、居ても立っても居られなくなった僕は、実際に写真が撮影された場所まで向かった。学校からそう離れていない場所なのもあり、放課後に向かえば二十分ほどで到着する。少し陽が傾いた頃は特に何もおかしい所はなかった。公園では子供たちがはしゃいでいる声が響き渡り、いかにも平和な住宅街の空気だ。

 だが、横断歩道の看板には『不審者を見かけたら即連絡を!』という言葉が書かれており、心臓がドクンと跳ねた。

 今はまだ『不審者』ということになっているのだろう。

 だけど、写真から感じた禍々しさは間違いない。

 アレは人間ではなく、もっと異質な何かだ。



「確か、僕は……22時から24時くらいに現れるって言ったよな」



 本当に僕の言った通りなのか確かめたいのもあって、ここからそう遠くない駅の近くにあるマクドナルドで時間を潰すことにした。四時間近くいるのは退屈ではあったが、家に帰ってしまうと取り返しのつかないような、そんな予感がしていたのだ。

 マックシェイクだけで時間を潰し、ようやく22時になったので横断歩道まで移動する。

 ごく普通に車が通り過ぎ、たまに歩いている人も見かけた。

 公園には何人かの人がベンチで休んだりしているし、駅から家に帰るらしき人影もちらほらと横断歩道を歩いている。なんてことのない、ごく普通の光景だ。

 だが。

 公園の時計が23時を過ぎた辺りで――。

 いきなり、まず音が消えた。

 人の歩く音、車の走る音、風の音すらも。

 いきなり訪れた静寂と共に、人影もすっかりなくなっている。

 ついさっきまで視線のどこかには誰かしらいたのに、今はどこを見回しても人影はない。

 ドクンドクンと波打つ心臓の鼓動が、耳に響く。



「はあ、はあ、はあ……」



 自分の荒い息遣いもうるさいくらいに響いていた。

 この空間で音を発しているのは、実在しているのは僕一人だけ。

 膠着状態のような時間が数分続いて……。

 

 ザッ。

 

 誰かが背後から近付いてくる足音が聞こえた。

 とても嫌な予感はしていたのだが、振り返る以外の選択肢がない。

 それほど、静寂というのは人の心を追い詰める。

 そしてそこには、予想通り。

 本当に『口裂け女』が現れたのだ。

 赤いワンピースを着た、マスクをした長い髪の背の高い女性。

 彼女はゆっくりと足音を立てて近付いてくる。

 僕はこのまま、この自分が生み出した化け物に殺されてしまうのだろうか。

 僕と話ができるくらいの距離に近付くと、マスク越しにもよく分かるくらいに不気味で奇妙な笑みを浮かべていた。

 僕は『わたし綺麗?』という質問が来ると思い、身構える。

 整髪料の名前が通じないという設定を作ったのは僕だったので、この質問を上手く回避することでしか生き延びる術はないと判断したからだ。

 だがそいつは、僕に質問などしてこなかった。

 僕の腕を掴んで体をぐいっと引き寄せると、僕の耳元にマスクに覆われた口を近付けて、もっと禍々しい言葉を囁く。



『もっと私の噂を広めないと、貴方の家族や友達から殺していくわ』



 それはある意味、殺されるよりも恐ろしい脅迫だった。

 この化け物は、僕に共犯になれと言っているのだ。

 自分が行方不明にする生贄を捧げろと。

 そうしなければ、家族や友人を殺害すると。

 僕が言葉も出ないほど怖がっていると――。

 気がつけば、人の気配も車の音も戻ってきていた。

 周りを見回しても、あの『口裂け女』はいない。

 もしかしたら夢でも見ていたのか?

 そんな希望は、誰かがこちらを見ているのが視線の端に映ったことで打ち破られた。

 電信柱の裏手。

 そこで、暗い顔をした制服姿の女子が、じっとりと僕を見つめている。

 目は真っ黒に塗り潰されていて、とても人間の瞳には思えない。

 その口元は、無惨にも引き裂かれて血を流していた。

 あれでは会話なんてできないだろう。だが、意識だけはハッキリと伝わってきた。



『貴方を許さない』



 あまりの恐怖に、僕はわけも分からず走り出していた。

 それからのことはよく覚えていない。

 どんな道を通ったのか全く分からないくらい、逃げるように家に帰っていた。

 一刻も早く布団にくるまってガタガタ震えたかった。

 泣きながら誰かに助けを求めたくて仕方なくなった。

 だが、僕がとった行動はもっと奇怪なものだった。

 部屋に戻った僕は、真っ先に机にあるノートパソコンを開くと、インターネットブラウザを立ち上げた。

 そして。

 頭と感情と体が全部恐怖でおかしくなってしまっていたのだろう。

 僕は匿名で、色んな場所に僕の創作話を投稿しまくっていた。



『令和の口裂け女出現! 場所は東京都豊島区長崎椎名町駅付近の――』



 学校の裏掲示板、街の情報板、匿名のSNS、オカルト情報収集サイト、などなど。

 考えられる限りの様々な場所に僕は書き込みを続けていた。

 何故なら、ずっと耳元に聞こえていたからだ。

 

『私の噂をもっと広めなさい』



 そう。

『口裂け女』に取り憑かれてしまった僕は、ただただ従うしかなかったのだ。



 三日後。

 

 行方不明者の数は……犠牲者は三名も増えてしまっていた。

 それは明らかに、僕の仕業だった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



【事件当日:23時 東京都豊島区長崎椎名町駅付近にて】




 このように、圧倒的なまでの恐怖存在『口裂け女』。

 それをあっさりと無傷で仕留めてしまったのが、目の前にいるはすみ先生だった。

 ――先生の戦う姿は、とても美しかった。

 巨大なハサミを巧みに使いこなし、かなりアクロバティックな動きで『口裂け女』の攻撃を回避。そしてスキを突いて、ハサミでズバッと首を切断したのだ。戦闘時間は一分にも満たなかったと思う。

 だけど、あの恐怖存在を圧倒したこと。

 そしてあまりに現実離れした戦い方。

 僕自身が元凶であるという罪悪感――。

 様々な感情がないまぜになって、僕は先生に恋をした。

 そんな初めての感情に震えていたというのに、僕は先生を殺さなければならない。



『女を殺せば、また私は蘇るわ。早く殺しなさい……』



『口裂け女』の声は、今もなお僕の耳元でずっと囁き続けているからだ。

 先生が退治しただけでは消滅しなかったのか、それとも僕の頭がおかしくなってしまい、声がずっと聞こえてしまっているだけなのか。

 後者なら有り難いが。

 

「この公園を通り抜けるのがマクドまでの近道みたいだ」



 先生はスマートフォンのマップに集中している。

 右手には小さくなったハサミを持っていて、指を通した状態で器用に画面をスライドさせている。無防備な背中は、巨大ハサミを振り回していたとは思えないほど小柄だ。

 リュックサックのジッパーは開けてある。

 後はこっそり包丁を取り出して突き刺せばいいだけ。

 先生は音が戻ったことで完全に油断しているだろう。

 だけど、僕の視界の端には常に見えていた。

 電信柱の影、公園の木陰、ベンチの下、茂みの向こう。

 暗がりにいる四人の犠牲者たちが真っ黒な瞳と裂けた口で僕をじっと見張っているのだ。

 僕のせいで行方不明になった少女たちは、元凶である僕を恨んでいるのだろう。

 激しい怒りと憎悪の籠もった視線で僕をひたすら見つめている。



『好きな人を殺せば、彼女もずっと貴方を見てくれるわよ?』



 耳元の声は甘く優しい声音になっていた。

 誘惑としてはあまりに悪質なものだったが、僕の罪悪感を削るためのものなのだろう。

 すっかりヤツの言葉に乗せられるような形で、僕は先生の背中との距離を詰めていく。

 先生が犠牲者たちみたいに恨めしそうな目を僕に向けてくれることなんて、もちろん望んでなどいない。

 だけど、視線の五人目が先生であれば僕は喜んでしまうのかもしれない。

 もしかしたらこの『口裂け女』も先生の声でずっと囁いてくれるかもしれない。

 だったら、この恋する人を殺害するという行為は正当化される。

 それがまともな判断でないことは、頭の片隅で理解していた。

 だというのに、僕にはそれが正義になっていたんだ。

 先生の背中は目の前だ。

 サラサラのセミロングの髪、その下辺りに包丁を突き刺せばいい。

 それだけで全ては取り返しがつかなくなり、僕の恋も永遠になる。



「ああいうの、いっぱい倒してるって言ってましたね」



 油断を煽るために、僕は平然と尋ねてみた。

 先生はまだスマートフォンのマップを見るのに集中している。

 今から顔を上げて僕を見て、それからハサミを構えたとしても僕がひと刺しする方が絶対的に速い。



「うん、そうだよ」



 先生は顔を起こすこともなく、目の前をのんびりと歩いていた。

 集中しているからだろう。辺りからは再び音が一切なくなっていて、僕と先生しかいなくなっていることに気付いていない。

 後は取り出したこの包丁を、先生の背中に突き刺すだけ。

 思いっきり深く突き刺せば、あまり苦しまないで死んでくれるだろうか?

 いざ、切っ先を先生に向けると、僕の心は恐怖以外の高揚に支配された。

 絶対にやってはいけない、取り返しがつかない、やればもう戻れない。

 それがとても理解できるからこそ、興奮してやらずにはいられなくなる感覚。

 本の中で殺人鬼が、人を殺す度に性的興奮をする描写があった。

 つまりこれは、先生と僕の愛の作業なのか。

 

『まずは右手に握ったままのハサミを落とせば、抵抗できないわ』



 耳元の囁きは冷静に次の手を指示してくれる。

 僕はあまりに強い興奮状態だったため、思考なんて全て放棄してしまっていた。

 単にこれを先生に突き刺して、早く気持ち良くなりたい。

 体中が、細胞のひとつひとつに至るまで、その欲望に満たされる。



「じゃあ、人間退治はどうなんですか?」



 先生の左肩に左手を置いて、彼女の体を固定。

 その時、僕は強く願った。

 殺される瞬間の先生の顔が見たい、と。

 だから、思いっきり肩を引っ張ってこちらを向かせた。

 

「えっ――」



 先生はとても驚いていた。

 いつもの澄ました顔には、動揺すら浮かんでいる。

 本当に、心の底から油断していたのだろう。

 薄く開いた唇の艶めかしさと、見開いた瞳の反射が、やっぱりとても綺麗で。

 まず僕は、右手に握られていたハサミを包丁で叩き落とした。

 サクッとハサミは公園の地面に突き刺さり、先生の手から離れる。

 それと同時に、返す手で胸の膨らみの下辺り、みぞおちに目掛けて包丁を突き刺す。

 先生は無防備で抵抗もない。

 全てがスローモーションに感じられた。

 切っ先がスーツの生地に触れる。

 スーツの繊維をぷちぷちと切り裂く小さな感触すら明確だ。

 この先にはシャツがあり、下着もあるのだろう。そしてその先には皮膚があり、血管があり、細胞があって、臓器に達する。

 衣服を構成する糸のひとつひとつが切れていくのが、脳に刺激として届く。

 本当は、この時間はごく一瞬だったに違いない。

 だというのに、僕は認識の世界で本当に長い時間をかけて先生を突き刺していた。

 ああ、もうすぐ先生の体を貫いてしまう。

 そうなった時、僕は一体どうなってしまうのか?

 あまりの悦びで、死んでしまうのではないか?

 だったらその最高の恍惚を早く得たい!

 そんな妄想でいっぱいだった時。

 

 想像もしていなかった感触で、包丁が停止した。

 

 この切っ先にあるのは衣服の繊維であり、それを貫けば肉体にまで届くはずだった。

 だと言うのに、包丁の先端に触れたこれは……金属?

 勢い良く突き刺した『口裂け女』の包丁は、先生の服の内側にあった謎の金属によって完全に停止させられていた。



「っ!?」



 スローモーションだった時間が一気に戻ってくる。

 先生は目をぱちぱちと瞬かせて、僕の顔と包丁を交互に見ていた。



「なるほど。海野くんの中に本体が取り憑いてたのか」

 

 彼女の納得した吐息が、僕の頬にかかった時。

 信じられないほどの後悔が僕の胸に怒涛のように押し寄せる。

 それはそうだ。

 恋する人、仲良くなった先生を包丁で突き刺したのだから後悔して当たり前だ。



「先生! これは、あの、その! いえ、えっと、だから!」



 大混乱している僕は、まともな言葉すら浮かんで来ない。

 支離滅裂に、ただ意味もなく叫ぶだけだ。

 僕の……包丁を握っている手を、先生はそっと左手で包んでくれる。



「人間退治はしていないよ。特に生徒は助けるものだからね」



 バシン! と激しい衝撃を受けて、僕の体が後ろに吹き飛ぶ。

 先生に攻撃されたのかと思って慌てて見てみたが、そうではない。

 さっきまで僕がいた場所には、いつの間にか『口裂け女』が包丁を握った手を先生に掴まれた状態で立っていた。



「えっ?」



 意味が分からない。さっきまでそこにいたのは確かに僕だったはずだ。なのに、そこには今、苦しそうに震えている『口裂け女』と、平然とした顔の先生がいるだけで。包丁も、全く先生に突き刺さっていなかった。



「さすが、先生……胸に何か金属を仕込んでいたんですね?」



 僕がようやく声を出すと、先生は敵と掴み合っているというのに首を振って。



「キミの、生徒の愛が助けてくれただけだよ」



 と、意味の分からないことを言う。



『死ねええええええええ!!』



 僕らの会話を無視して『口裂け女』が奇声を上げた。

 だが、先生は彼女を冷めた視線で見つめると「ふう」とため息を吐いて。



「同じのを殺してもキルカウントは増えないんだけど、仕方ないか」



 事もなげに『口裂け女』の体をひょいっとスルーしてかわすと、先生はハサミを拾わずに胸ポケットに右手を入れた。そこから取り出したのは……あれは……。

 僕が先生にプレゼントした、アルミ製の栞……?

 まさかあんな物が、僕の包丁を止めたのか?



「私は"ハサミ女"の"ロア"だから――」



 先生は僕の栞を人差し指と中指の間に挟むと。



「挟むものなら、なんでも武器にできるんだよね!」



 手にしていた栞で『口裂け女』に切り付けた。

 栞のメタリックな青色が街灯に反射し、まるで弧を描いたような青い軌跡を描くと『口裂け女』の首を綺麗に両断する。

 栞は本に挟む物。

 だから『ハサミ女』の武器になる。

 無理矢理な理屈を、先生の強さは押し通していた。

 再び、僕の目には『口裂け女』の生首が綺麗な放物線を描いて飛ぶのが見えた。

 そのまま公園の地面を三回ほど転がって、木にぶつかって止まる。

『口裂け女』だったものの生首。

 断面からはやはり大量の黒い煙が溢れていた。

『何が起きたのか分からない』、そんな目をした彼女の視線と、安心で泣きそうになっている僕の視線が交差する。

 見ていると、口がパクパクと不気味に動いた。



『お前をずっと許さない』



 声にならない最期の言葉は、僕の頭にしっかりと植え付けられた。

 それはきっと、毎晩恐怖の思い出となって僕を苛むのだろう。

 元はと言えば僕が生み出してしまった"ロア"だ。

 それが罰なのだとしたら……とても怖いし絶望的だけど……仕方ない。

 

「ふう。今度こそ『口裂け女』討伐完了」



 先生は栞を指に挟んだまま、僕の方を見てくれた。

 その眼差しは柔らかくて優しくて、やっぱり泣きそうになってしまう。



「キミのくれた栞のおかげで、生き延びたよ。ありがとうね」



 先生は地面に倒れたままの僕のためにしゃがんで視線を落として。

 優しく頭を撫でてくれた。

 温かい手の感触は確かに安心を与えてくれたけれど。

 だけど僕の耳にはもうずっと『口裂け女』の最期の言葉が響いている。

 だから目からはただひたすら、ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。

 

「心配しないで。私は"ハサミ女"だから、なんでもチョキチョキ切り取ることができる。それは、キミの記憶や因果も一緒。キミが『口裂け女』を生み出してしまったという現実も、無かったことにできるから」



 まさか、そんな夢みたいなことができるなんて。

 先生は本当に凄い人だと、一気に希望と感謝で胸が満たされる。



「私との出会いも全部消えちゃうけどね。海野くんの栞とても嬉しかった。ありがと」



 だけど、それは僕の恋の終わりも意味していた。

 先生との出会いが全て消える。それはとても寂しくて、つらいことだ。

 こうして仲良くなったのも、憧れたのも、恋をしたのも。

 全部、消えてしまうというのか。



「せ、先生、僕は、あの、先生のこと! 先生のこと――!」



 言いたい言葉は、それ以上出て来なかった。

 先生は優しい目で僕を見て、僕を撫でていた手でチョキを作る。

 そして、僕の頭の先から何かが出ていて、それを切り取るかのように動かすと。



「バイバイ、海野蛍くん。先生、驚いたよ。なんせ先生の本名は、本当は――」



 先生は最後に自分の本名を耳打ちしてくれた。

 だけどその名を、僕は覚えていられない。

 だからこそ悪戯っぽい、見たこともないような満面の笑みを見せているのだろう。

 なんとか先生だけでも覚えていたい。せめて、この恋心だけでも。

 そう強く願っていても。

 

「ちょきん、とね」



 愛らしい言葉が僕の耳に届くと同時に――。

 意識を失って、視界は真っ暗に染まった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



【事件後:16時 私立イリオス学園図書室にて】




 後日談。僕の記憶は即座に消えるものではなかった。

 因果の切断というものがどういう効果だったのかは分からないけれど『口裂け女』の噂話を聞く度に、はすみ先生のことを思い出せたのだ。だからあの事件から三日過ぎた今も、こうして彼女と僕の記録を残すことができている。

 だが、立つ鳥跡を濁さずと言うべきか。はすみ先生のことは、生徒たちの記憶から完全に消えてしまっていた。なんなら『教育実習生なんてこの学校には来ない』とまで教師に言われてしまう始末。先生が一体何者で、どうしてこの学校に来ていたのかすら不明だし、この違和感も僕は忘れてしまうのだろう。それが残念でならない。

 だから僕は、たまたま見つけたこの『フォークロア事件まとめサイト:ロア速報★』のページに、覚えている限りを記していた。かなり記憶に抜けがあるので、犠牲者たちがどうなったのか、僕はどうしてあの日あの場所にいたのか。そして何故そこに、たまたま先生が来たのか。全ては確かめる術がない。

 こうして記憶を漁っている今も、もう先生の顔も思い出せないのだから切ないものだ。

 だけど、この恋心だけは願い通り消えていなかった。

 図書室にあった備品の栞。

 アルミ製の金属でできたそれ。

 中に青いものを見つけた時に郷愁のような強い気持ちと同時に、不思議な先生に抱いた感情も戻ってきた。

 ここで誰かと、仲良く会話した。

 その人にこの栞をプレゼントした。

 

 そしてその人に、僕は恋をした。



 いずれこの感傷も全て霞のように消えてしまうのだろう。

 だから、せめてもの抵抗として栞を取り出し、指でなぞってみる。

 すると、ちょうど先端の辺りに小さな傷が出来ていることに気が付いた。

 

「この傷は……」



 不意に、柔らかく笑う誰かの甘い声が聞こえたような気がして。

 僕の初恋の記憶は、図書室の静かな空気に消えていくのだった。
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7、作家名
五月什一
SATSUKI TOICHI

参加作品
怪盗失格
怪盗失格
「なーにやってんの?」



 目に痛いほど真っ青な空の下で、俺と同じ高校の制服を着た彼女――前園美冬まえぞのみふゆは、落下防止柵の向こう側に立っていた。



「あっついよなぁ~。今日の最高気温四十度だってよ? 溶死するわ」



 変化に乏しいその表情。それでも少しだけ驚いた様子を見せる美冬の近くで、柵にぐでっと寄りかか――



「あっつ!」



 なんだこれ! こんなの素手で触ったら火傷するわ!



「ふふっ」



「あ、笑ったな? 熱いもんは熱いんだからしょうがないじゃん。つーかどうやってそっち側行ったの? これ手で触れる熱さじゃなくない?」



「我慢できないほどじゃないですし」



「マジか。実は火傷したりしてない? ほら、ちょっと見せてみ?」



 手首を掴んで観察。リスカの痕はなし。そっち方面に病んでいるわけではなさそう。



「それで、なにか用、ですか?」



 手を振り払われる。若干の警戒の色。まあ当然か。



「アイス食べに行かない?」



「…………はい?」



「いやこの暑さじゃん? 友達とアイス食べに行こうぜって話してたんだけど、ドタキャンされたんだよね。いや~スマン、やっぱ彼女とデート行くからまた今度な、だってさ。は?って感じじゃね? みんなテンションだだ下がりで解散待ったなしだったわ。なに、彼女がいるのがそんなに偉いの? ペアルックとかできるぐらい仲がいいのがそんなに自慢か? 彼女いない歴=年齢がそんなに悪いことか!? クソがァ! 羨ましいんだよ!」



 おっと、いかんいかん。つい熱くなってしまった。美冬、ドン引きしてんじゃん。あれもこれもゆだるような暑さと彼女持ちの裏切者が悪い。



「まあそれでも口はアイスの気分なので、暇そうな人を探してた」



「……私、暇そうに見えますか?」



「少なくとも忙しくはなさそうだけど?」



 じっと目が合う。先に逸らしたのは美冬の方だった。



「本当は止めに来たんでしょう?」



「まーね。よっ、と」



 柵を乗り越えて美冬の隣に立つ。



「美冬ちゃんはさぁ、秘密探偵って知ってる? 簡単に言えば、虐めや体罰を調査するために生徒として潜入している探偵のことなんだけど。いくら教師が目を光らせたところで虐めはなくならないし、むしろ体罰とかセクハラとか教師が問題を起こすことも多いじゃん? そういう不祥事の早期発見と予防を目的として素行調査の名目で雇われてるのが秘密探偵ってわけ。生徒に紛れて不穏分子を監視、告発するって仕事内容が秘密警察と似てるから秘密探偵って言うらしいよ。これ豆知識ね」



「へー」



「あ、興味ない感じ? んじゃ巻きで。とにかくさ。俺、それなんだよね」



「高校生探偵とかフィクションの中だけの話だと思ってました」



「実在するんだなぁ、これが。まあ殺人事件に挑んだり、密室トリックを解き明かしたり、怪盗と対決したりはしないんだけど」



「でしょうね……」



「なんでちょっとガッカリした感じなの。怪盗なんていないんだからしょうがないじゃん」



「いますよ、怪盗。最近なら怪盗・赤羽あかばねとか。しかも日本です」



「何十年も前の話だろそれ……。しかも尾ひれがつきすぎてほとんど都市伝説じゃん」



「詳しいんですね。意外です」



「偶々知ってただけだけどなー。美冬こそよく知ってたね。そういうの、好きなの?」



「さあ、どうでしょう……? ただ、怪盗、なんて呼ばれた人が、なにを思って怪盗になったのかは少し気になります」



「所詮コソ泥だし、金のためじゃね? ……なにその目。わかったよ。ちゃんと考えるよ」



「お金のためなら、もっと盗みやすいところから盗めばいいはずです。わざわざ怪盗になんてなる必要がありません。……本当に探偵なんですか?」



「オーケーわかった。俺、能力面から疑われてるのね」



 それはちょっと困るな。よし、ちょっと雰囲気出して、信用を取り戻そう。なーに、俺ならできるさ。一拍置いて、いざ。



「――法では救えないなにかのため」



 美冬の視線が俺に定まり、わずかながら興味が向くのを感じる。ふっ、チョロいぜ。



「これは推理でもなんでもないただの私見だけどなー」



「正義の味方、ということですか?」



「まさか。怪盗なんて所詮は悪党。だからその行いは恣意的なものに過ぎない。正義の味方を名乗るには公平性が足りてないよ」



「探偵の勘、というやつですか?」



「みたいなもんかなー。ま、あれだ。プロファイリングってやつ?」



「そんな無理に探偵キャラアピールしなくても」



「アピールとか言うな。ってあれ? なんの話してたんだっけ?」



「秘密探偵について特にいらない豆知識を教えていただきました」



「そうだった、そうだった。それでさー、これがなかなかにブラックでさー。まともに仕事ができる高校生探偵なんてほとんどいないから常に人手不足だし。高校生になってからバイト感覚で探偵始めたなんちゃって探偵も少なくないし。数も質も足りないのに、なんかあったら俺らが責められるわけだし。なのに報酬クソ安いし。学費が経費扱いでタダってことぐらいしか旨みないんじゃねぇかなぁ」



 なお学費分を報酬に含めて計算しても素行調査の相場より安い模様。やっぱクソだわ。



「だからまあ、職務上、学校側に報告する前に自殺されると困るんだよね」



「……別に、本気で自殺しようなんて考えてたわけじゃないですよ」



「え? マジで? もしかして俺の早とちりだった? 痛いヤツになってる?」



「はい」



「否定してよ」



 嘘つきだなぁ、美冬。……それにしてもちょいちょい辛辣だよね。俺のこと嫌いなの?



「でもまあ、こんなところに立ってるくらいだし、ちょっとは考えてたんだろ? ならなんかしら悩みはあるわけだ。ほら、お兄さんに話してみ?」



「お兄さんって……。先輩だったんですか?」



「いや? 同級生だけど」



「えぇ……。じゃあ――……名前、なんて言うんですか?」



「お? 俺に興味出てきた感じ?」



「やっぱりいいです」



「あー! 待った待った! 俺は風間英詩かざまえいし。高校生名探偵・風間英詩だ」



「そうですか。私は前園美冬です」



「うん、知ってる」



「……そういえば、なんで知ってるんですか?」



「そりゃ探偵だから。調査対象の個人情報ぐらい頭に入ってる」



「ストーカー……?」



「人聞き悪すぎぃ」



 確かに探偵なんて職業ストーカーみたいなもんだけど。



「まあいいや。それよりアイス食べに行こっか」



「悩みの話はもういいんですか?」



「暑すぎて外で喋ってるの怠くなってきた。涼しい室内でアイスデートしながら話そ?」



「今さり気なく要求をアップグレードしませんでした?」



「えー。いいじゃん。付き合い立てのバカップルみたいに食べさせあいっこしようよ」



「絶対イヤです」



「なんで?」



「なんでって……。そもそも私たち恋人じゃないですし」



「んー……じゃあ付き合う?」



 ちらっ。ひえっ、視線が冷たい。人間ってこんなに冷たい目ができるものなんだ……。



「風間さんのことが一つわかりました。こうやっていつも女の子に声をかけては食い散らかしてるんですね。女なら誰でもいいんだ。女の敵」



「いやいや誰でもいいってわけじゃないって。まずなにはともあれ顔が良くないと」



「うっわ、しかもルッキズムですか。最低ですね」



「褒めてるつもりなんだけど?」



「ひょっとして人を褒めるの下手ですか?」



「そう言われてもなー。俺が美冬のことで知ってるのなんてまだ表面的なことだけだし。後は精々スリーサイズぐらいだよ……」



 今初めて話しているんだから、こればっかりはしょうがない。……ねぇ、なにその拳。



「あっ、ちょ、目はやめて、目は! 無言で殴りかかるのは勘弁して! 職業病! 職業病だから! つい外見的特徴を測っちゃうんだよ! 悪気はあんまりないって!」



 というかこんな狭い足場で暴れたら――ああ、ほら、言わんこっちゃない。



「へ? ――――っ!!」



 ズルっと足を滑らせた美冬の表情が凍り付いた。追いかけるように跳ぶ。



「っと、危ない危ない。口説いてる最中に死なれちゃ困る」



 柵に引っ掛けたワイヤーに掴まりながら美冬を片腕で抱え込み――



「というわけで。どうせ死ぬならさ。その前に俺と恋愛しない? ――美冬」



 ――精一杯の決め顔で告白した。

 …………。それにしても美冬って本当に表情変わらねぇな。ほぼほぼ無表情じゃん。今、命救って告白したんだよ? きゃっ、素敵! 抱いて! ってならんの? 少なくともジト目で睨まれてるのはおかしいでしょ。



「嵌めましたね?」



 あ、バレテーラ。



「ふいに落ちることで、飛び降りに対して恐怖を覚えさせて投身自殺を阻止」



「無知な一回目はできても、知ってしまった二回目はできないことって多いからなぁ」



「そしてこの恐怖だとか緊張だとかそういう心臓の高鳴りを恋によるものと錯覚させる。吊り橋効果、でしたか? ナメないでください。そう簡単に恋に落ちたりなんてしません」



 ゆっくりと降下して地面に足がついた。美冬が俺を突き飛ばすように離れる。



「あ、おい。どこ行くんだ」



「帰るんですよ」



「アイスデートは?」



「お断りします」



 残念。完全にフラれたらしい。でもまあ最低限の目的は達成できたので良しとしよう。



「それとさっきの返事ですが――私と心中してくれるなら付き合ってもいいですよ」



 返事も待たずに美冬は去って行った。



「あー……そいつは悩むなー」



 けどまぁ。まずは仕事の続きと行きますかね。



    *



「よっ」



 美冬のアルバイト先に訪れた俺は、そっと美冬の背後に忍び寄り、軽く肩を叩いて人差し指を伸ばす。振り向いた美冬の柔らかな頬に、手袋に包まれた俺の指が刺さった。怪訝そうに目を細める美冬に、サングラスをずらして顔を見せる。



「…………古い」



 美冬が面倒くさそうにボソッと呟いた。おいこら、こっちはお客様だぞ?



「一周回って新しくない?」



「古いです」



 そんな冷たい目で見なくてもいいじゃん……。



「セクハラで通報しますよ?」



「そこまで!? 確かに最近はそういうの厳しいけどさぁ!」



「わかってるじゃないですか」



「ああ、うん。表情じゃ全然わかんないけど、わりとおこなのね……。でもいいのかなー? 俺にそんな態度とって。うちの学校、バイト禁止だったと思うけどぉ? 俺の報告書次第では……美冬ちゃん、どうなっちゃうんだろうねぇー?」



「ゲスい悪役みたいな台詞ですね」



「三下の演技なら任せろ。助演男優賞も狙えるぜ」



 ここはアミューズメントカジノ。いわゆる普通のカジノとは違いチップを換金をすることはできないが、それ以外は本物のカジノ同様、カジノゲームを楽しむことができるアミューズメント施設だ。性質上、賭場というよりはゲームセンターに近い。

 美冬はディーラー役なのだろう。明るい色の髪を肩につかない程度にまとめたポニテ。ストライプのシャツに黒いネクタイとベスト。ホットパンツとニーハイの隙間を埋めるガーターと絶対領域が眩しい。美冬が俺の視線から逃れるようにもぞもぞと足を動かす。



「……どこ見てるんですか?」



「うなじ、太股。うなじ、太股。くっそエロい」



「ふんっ」



「ローキック!」



 他の客からは見えない絶妙な角度とこの威力……。やるな、美冬。



「はぁ……。風間さんこそ、なんでこんなところにいるんですか? ここ、十八歳未満入店禁止なんですけど」



「スーツ着てればいちいち年齢確認なんかされないっての」



 持っててよかった変装用スーツ。



「人を呼んで来ますね」



「ちょちょちょ、ちょっと待ったちょっと待った! ここは裏取引と行こうじゃないか。俺、美冬のバイト、黙る。美冬、俺の年齢、黙る。オーケー?」



 溜息交じりだったが、取引成立。これでお互いに弱みを握りあった。一蓮托生だぜ。



「とりあえずさ。せっかく来たんだし付き合ってよ。デートの埋め合わせってことで」



 誰もいないポーカーテーブルを親指で指差す。



「ルールは知ってるんですか?」



「ロンドンで親父に習った」



 俺と美冬しかいない一対一のテーブル。美冬が慣れた手つきでカードを二枚ずつ配った。遊びのチップを適当に賭ける。♥A♥J。悪くない。



「ここ、上のフロアってなにがあるの? VIP会員しか入れないとか言われたんだけど」



「そのままの意味ですよ。VIP会員しか入れない専用フロアがあります」



「VIPになる方法は?」



「さぁ? 私はそちらの担当ではないので」



 ♠Q♥10♦9。お、ワンチャンありそう。ちょっとレイズいっとくかー?



「それより風間さん。――つけましたね?」



「まさかー。そんなわけないじゃんー」



 やっべ。動揺して一気にチップ崩しちゃったよ。オールインじゃんこれ。でもダサいから引っ込めるのはやめよ。どーせ遊びだし。



「では今日初めて会った風間さんが、その日のうちに私のバイト先に来たのは偶然だと?」



「そうそう偶然偶然」



「……ではこうしましょうか。このゲーム、勝った方がなんでも一つ質問できるというのはいかがです? 当然、負けた方は嘘も誤魔化しもなしで」



「へぇー? いいね。乗った」



 キタ――! ♥K! ワンチャン♥Qがくればロイヤルストレートフラッシュ。こなくてもストレート! 勝ったな。ククッ、さーて、なにを質問してやろうか。夢が膨らむぜぃ。



「♣Qですね。それでは――ショーダウン」



 チッ。そう上手くはいかないか。まあいい。どっちにしろ勝ってるだろうしな。



「♥A♥J。ストレートだ」



「♥Q♦Q。フォーカードです」



 ……………………は?



「私の勝ちですね」



 得意げに、しかし淡々と美冬がチップを回収する。



「え? マジ? 嘘でしょ……」



「マジです。さてそれでは」



「ああ、うん。そうだよ。美冬を尾行してました」



「いえ、それはもう反応でわかってるので別の質問を。――風間さんって、本当に探偵なんですか?」



「まだ疑ってたの!?」



「よく考えたら特に証拠もないですし。単なる悪質なストーカーという可能性も……」



「いやいやいや! 本当だから!」



「でも告白とかしてきたじゃないですか」



「それは! …………あー、うん」



 冗談だから! → へー。風間さんってやっぱりそういう軽薄な人なんですね。女の敵。

 ガチだけど! → 恋愛感情を拗らせてストーカー化……。通報しておきますね。

 つ、詰んでる。どうしようもないやつだ、これ。



「ヤッホー。美冬チャン、元気カナ?」



「っ。ご無沙汰しております。酒井様」



 救世主おっさん! 救世主おっさん現る!



「今日は、最高気温、四十度だってネ。オジサンが若い頃は、もっと涼しかったヨ。美冬チャンは、熱中症とか、大丈夫カナ?」



「はい。ご心配いただきありがとうございます」



「そういえば、美冬チャンは、今日、フロアデビューだったヨネ? オジサン、張り切って来ちゃったヨ。今日は、美冬チャンと遊ぼうカナ? なんちゃって」



「かしこまりました。ではVIPフロアへとご案内いたします」



 酒井というらしい乏しい頭髪をなんとか隠そうと努力した形跡が見える腹の出っ張ったおっさんが、ねちょっとした手つきで美冬の肩を抱く。いや別に脂汗をかいているわけじゃないんだけど、なんというか、こう、空気というか雰囲気というかがねちょっとしているのだ。美冬、よくあれに顔色一つ変えずに耐えられるな……。俺なら反射的に背負い投げしそう。



「酒井様。こちらは一般フロアですので」



「ああっ、そうだったそうだった。ゴメンネ」



 酒井がパッと離れる。あ、やっぱり耐えがたかったのね。



「美冬」



 呼び止めれば、一度立ち止まって振り返ってくれた。



「なんでしょう?」



「ポーカーフェイス、上手いね。それも職業病?」



「――さあ? どうでしょうか?」



 美冬は一瞬きょとんとしてからクスリと小さく笑って、今度こそ酒井と連れ立ってVIPフロアとやらに向かった。



「さてと。俺も俺の仕事をしますかね……」



 席を立ち、歩き出す。途中、VIPフロアから降りてきた男性とぶつかったが、お互いに軽く頭を下げて何事もなかったかのようにすれ違った。ほくそ笑む。



「悪いね。ちょっと借りるよ。後で落とし物として届けておくからさ」



 スったVIP会員証。これで俺もVIPフロアに入れるわけだ。

 

    *



『あのクソガキ! どんなイカサマしてやがる! 優良顧客を蹴散らしやがって……。こっちのプランがオジャンだ! ……酒井様は?』



『まだフロアにはおられるようですが、私のテーブルにはもう』



『チッ。どこから湧いてきやがったんだクソガキが。……どこのどいつだ?』



『わかりません』



『だったら体でもなんでも使って上手いこと聞き出してこい!』



『…………』



『このフロアに上がった意味くらいわかってんだろ? 金がいるんじゃないのか?』



『…………わかりました』



『そうだ、それでいい。あの苦労の一つもしたことがなさそうなヘラヘラしたツラ、どうせどっかのボンボンだ。搾れるだけ搾り取って親を引きずり出せ。わかったな?』



『……はい』



「ハッ、苦労の一つもしたことがなさそうなヘラヘラしたツラで悪かったな」



 美冬に仕掛けた盗聴器から聞こえてくるのはきな臭い裏事情。まあいいさ。想定の範囲内だ。美冬がフロアに戻ってくるのを耳にしてイヤホンを外す。



「どーこ行ってたの?」



 後ろから忍び寄って肩を組む。びくっと美冬が一瞬緊張した。ちらっと横目で様子を窺ってみれば――うわっ、すごい露骨に迷惑そうな顔してる。相変わらず変化に乏しい表情だけど、だんだん読めるようになってきたわ。



「三度目……。足音を消して背後から近づくのが趣味なんですか? 変態ストーカーさん」



「オイオイ、趣味で尾行してるような三流以下と一緒にしないでくれよ。一流の名探偵は尾行対象に気取られるようなヘマはしないってだけさ」



 これ以上嫌われるのもあれなので、美冬の肩から腕を外して空いているテーブルに誘う。



「それよりさ。アイス食べない? 奢るよ」



「スタッフが口にしているものは一つ残らずお客様の奢りですよ。まあいいですけど」



 一個三千円の豪華な高級アイスと一杯四千円の無駄に洒落たノンアルカクテルを二人分注文する。これだけで一万四千円也。ぼったくりもいいところだ。



「なんていうか、カジノっていうより、ガールズバーとかキャバクラって感じだよな」



「へぇ……。行ったことあるんですか……」



「イメージだよイメージ! だからそんな冷たい目で見ないで! もしかして忘れてる? 俺、高校生だからね?」



「それにしてはずいぶんと羽振りがよろしいようで」



「全部おっさんどもから巻き上げたチップだけどな」



 テーブルにぶちまけられた数百万円分のチップを弄ぶ。これを全部換金して美冬に渡したら問題は解決するだろうか。まあパクった会員証だから無理なんだけど。



「ずいぶん強いんですね。意外でした」



「言ったろ? ロンドンで親父に習ったって」



「さっきは私にボロ負けしたクセに」



「わざとだよ、わざと。無理やり口を割らせるのは趣味じゃないんだ」



 ということにしておこう。だってその方がカッコいいじゃん?



「それでどんなイカサマをしたんですか?」



「えー、酷くない? イカサマなんてしてないよー」



「うそばっかり。うそつきは泥棒のはじまりですよ」



「泥棒、泥棒ねぇ。ま、そこはお互い様でしょ。ルーレットは回転数がコントロールされてるし、シックボーはダイスを振ってるカップの下が可動式でカジノ側にとって都合のいい目のダイスにすり替えるタイプ。シューも同じく細工済み。ずいぶん露骨だよねぇ。まあ闇カジノなんてたいていそんなもんらしいけど」



「…………もうここがどういう場所なのかわかったでしょう? 大火傷する前に帰った方がいいですよ」



 換金できるチップ。違法賭博。露骨な接客サービス。他の客の話や盗聴できた内容によれば性接待もか。しかもJKビジネス。――完全にアウト。真っ黒だ。いるだけでもヤバイ。そういうレベル。俺だって帰りたい。だけど俺にはまだやることがある。



「それは美冬次第じゃない?」



「はぁー、もう勝手に……っ? アイス? 涼しい室内……。……もしかして、私が話すまで尾行を続けるつもりじゃ……?」



「下卑た目つきした脂ぎったおっさんどもをカードで蹴散らしてあげたじゃん」



「それとこれとは、というかそのせいで」



「俺から巻き上げろって話になってるんでしょ。――どんな手を使ってでも」



 美冬が驚いたように目を見開く。



「……どこまで読んでるんですか?」



 残念。読んでなんかいない。ただ盗み聞いただけだ。



「ここのシステムって面白いよな。飲食ぐらいなら現金でも購入したチップでも獲得したチップでもなんでも支払えるけど、あっちのサービスはそうじゃないらしい」



 女性スタッフを連れて別のフロアに移動する男を顎で指し示す。



「その夜、一番多くのチップを積み上げたヤツが一夜を共にできる。ただしゲームで勝ち取ったチップでなければ積み上げられない。なるほど。ここにいるのは誰も彼もが勝ち組だ。おまけにギャンブルにのめり込むような人種。『勝ち取った』という付加価値はこれ以上ないほど大きいだろうさ」



 まあ大金に物を言わせてダランベールでチマチマ稼げば購入チップを獲得チップに変換することもできるだろうけど、そっちは例外というか救済措置みたいなものだろう。あんまりにも勝てなくてサービスも受けられないとなったら客が離れるしな。



「げへへっ。どうする? 美冬が望むならチップの塔を築いてあげてもいいわよん?」



「どうぞご自由に。私に止める権利はありませんから」



「足。足踏んでるから。口ほどに物を言うじゃん」



 まあ冗談はおいておいて。



「そんでもって美冬はそのことに納得していない、と」



「まさか。当然納得していますよ。そうじゃなきゃこんなところにいません」



「嘘だね」



「……どうしてそう言い切れるんですか?」



「だって美冬、俺のセクハラに過剰反応してたじゃん。美冬の性格からしてスルーする方がよっぽど自然だろ? だけど美冬は必ず反撃していた。これからここで起こり得ることを連想しての防衛反応だ」



 俺の足の上から美冬の足が退けられる。おいおい図星だって言ってるようなものだぜ。



「さぁ、それじゃあどうして自殺を考えるほど嫌なのに法的リスクを背負ってまでこんなところで働いているのか。なにかしらの事情があるんだろうけど……ま、金だろーね。身辺調査はしたけど、脅迫の線は薄かった。後の問題はなんのために金が必要なのかだけだ」



 美冬が諦めたように笑った。――落ちたな。単純なホットリーディングとバーナム効果の組み合わせだけど、これがなかなか効果的。心なんて本人にさえあやふやなものを見抜くぐらいなら、こちらで用意したシナリオに合わせて信じ込ませた方がよほど容易い。ホワイダニットは作るものなのさ。ここまでチョロいと将来騙されないか不安になるけど。



「ご明察。流石の推理力です。本当に探偵だったんですね」



「嘘でしょ。まだ疑ってたの……?」



「学費ですよ、学費。ほら、うちの学校、学費高いでしょう?」



 探偵を雇うにはコストがかかる。有名私立とはいえ、当然、それを支えるだけの収入が必要だ。学費も相応に高くなる。が、問題はそこじゃあない。



「なんでまた急に。入学できてるってことは一年の頃は問題なかったんだろ? 親の事業でも失敗したか? まぁなんにせよ急な経済困難事由なら奨学金が」



「母親が男と出て行ったんです」



「…………お、おう。お、お父様は……?」



「いませんよ。母子家庭だったので」



「そ、そうか……。ん? ってちょっと待てよ? じゃあ今美冬は、一人?」



「はい。なので奨学金の申請も転校手続きもできません。退学だって強制的に除籍にならない限り無理でしょう。なにせ保護者の許可がないので。……もういいですか? 探偵の仕事もこれで十分でしょう?」



「んー……ま、そうだな。予想外に重い話だったけど、確かに探偵の仕事はここまでだ」



「では私は仕事がありますので」



「ああ、ちょっと待って。これ、落とし物。返しといて」



「……どうやってVIPフロアに入ったのかと不思議に思ってましたけど、まさかこんな手だったとは思いませんでした」



 呆れたような表情を見せる美冬がVIP会員証を受け取って席を立つ。

 これで調査は終了。探偵の仕事は終わり。あくまでも探偵の仕事は調査だ。解決は警察か弁護士の仕事。これから美冬がどうなるのか。その答えは探偵である俺には関係ない。

 そう。だから。

 それじゃあカイトウ編といこうか。――さぁ、ショータイムだ。

 

    *

 

 流れ作業のようにカードを配りながら思う。

 きっと今夜、私が買われることはない。積み上げられたチップがそれを許さない。

 もちろん大金に物を言わせてこれ以上のチップを積み上げることはできるのだろうけど、今のところそれをする人はいなそうだ。あるいは風間さんの言う通り、ここに来る人たちにとって『勝ち取る』ということの価値は私が思うよりも遥かに大きいのかもしれない。

 結局、風間さんはチップを換金することなく、全て私に積み上げて帰った。……たぶん。

 フロアに姿は見られないし、帰ったはずなのだが、まだどこかに潜んでいてもおかしくない……。あの人ならやりそう。

 ――ウソだ。本当はわかってる。風間さんが私につきまとっていたのはあくまでも探偵としての仕事だったから。仕事が済んだのならこれ以上私に関わる理由はない。

 だからきっと、これは風間さんなりの執行猶予なのだろう。

 今晩中に足を洗え。これはそういうメッセージ。

 もし私が明日からもここを訪れるようならば、風間さんは容赦なく私を告発するだろう。そうなれば私は退学になる。それどころか犯罪者の烙印を押されるかもしれない。

 だけどここを辞めたら結局学費が払えずに退学になるしかない。もう三ヶ月も滞納しているのだ。これ以上は学校も待ってはくれないだろう。もっとも裏の事情を知ってしまっている私を運営が逃がしてくれればの話だが。

 ――詰んでいる。選択肢を与えるというにはあまりにも残酷だ。どちらを選んでも結果が変わらない。私は破滅する。



「ふふっ、流石は名探偵。犯人を追い詰めるのはお手の物というわけですか」



 もはや笑うしかない。

 その時、ふと、フロア内が騒がしいことに気付いた。



「美冬ちゃん。これ、なにかのイベント?」



 お客様に見せられたのは黒地に赤文字が踊る特徴的で不吉な予告状。



『今宵、貴方の“秘密”を頂戴する』



 凝ったデザインとは対照的に、ただ一文のみが書かれたシンプルなそれ。見覚えがないはずのそれに、なぜだか私は既視感を覚えた。



「いえ、特にそういった話は聞かされておりませんが……。確認いたします」



 インカムのスイッチを押す。



『なんだ! このクソ忙しい時に!』



「申し訳ございません。予告状?のようなものが出回っているようなのですが」



『知るかよ! こっちが聞きてえぐらいだ! クソッ、こっちはなにも聞いてねぇぞ……。客になんか聞かれたら、適当に誤魔化せ。わかったな』



 一方的に通信を打ち切られる。辺りを見渡せばいくつもあったディスプレイまでもが次々とこの予告状らしきものを映していった。



「申し訳ございません。お答えできないことだったようで」



「そっかー。これ、どこかで見たことがある気がするんだけど、どこだったかなー?」



「この予告状、どちらにございましたか?」



「あっちこっちにあるよ。そこら辺に普通に置いてあったり、シューから出てきたり。いつの間にかポケットに刺さってた、なんて人もいたね」



 悪戯にしてはずいぶんと手が込んでいる。なんて思った瞬間、視界が真っ暗になった。



「停電……? すぐに予備電源に切り替わりますので――っ!」



 急に腕を強く引かれて、口を塞がれる。驚き。恐怖。動けない。待って、どこに連れていかれるの!?

 照明が点いて視界が戻る。私を捕まえていたのは、仮面で顔を隠した赤い衣装の怪人。



「まさか……怪盗・赤羽?」



「これはまたずいぶんと懐かしい」



「なるほど、そういう趣向でしたか」



 お客様方に納得の輪が広がっていく。

 違う。これは余興なんかじゃない。本物の不審者だ。そう叫ぼうにも口を塞がれている。引きはがせない。足を踏みつける。微動だにしない。せめてもの抵抗として睨みつけようとして――



『前園美冬。ラストチャンスを差し上げよう。今から選択肢をくれてやる』



 いつの間にかつけられていたイヤホンから、今日一日でずいぶんと聞きなれてしまった声がした。



『二つに一つ。私とゆくか、彼らとあるかだ』



 私を押さえつけていた彼の腕から力が抜かれた。これならいつでも逃げ出せる。



『どちらを選んでも茨の道。君に安寧は訪れないだろう。しかし、その覚悟があるのなら――どうか私の手をとって欲しい』



 なにをやっているのだろう、この人は。

 こんなことをしてもなんの得もない。ただ徒いたずらにリスクを背負うだけ。

 なにがしたいんですか? なにを敵に回しているのかわかっているんですか? どうやってこの状況を切り抜けるつもりなんですか? そのコスプレはなに?

 ああ、だけど。一つだけ確かなことがあるから。私の選択は――

 

    *

 

 や、や、や、やべええええええええええええええええええええ! やっちまったぁあああああああああああああああああああああ! データ改竄したら逃げるつもりだったのにいいいいいいいいいいいい! しくじったぁあああああああああああ!



「レディ――――ス、アンド、ジェントルメン! 今宵、当カジノへお越しの皆々様。支配人に代わり、歓迎の意を申し上げる。ようこそ! 私のステージへ!」



 ちくしょう! こんな状況でもペラ回しは絶好調だぜ! 主演男優賞は獲ったな!



「さて、先刻予告した通り、貴方の秘密を頂戴した。……今、私の手の中にある」



 ま、しょうがないか。上手いこと逃げ出せたならともかく、見つかってしまった以上、データ改竄がバレる前に、ここで闇カジノには引導を渡さなければならない。美冬をこいつらと心中させるわけにもいかないし、こんな時のための用意もしてある。

 なぜなら俺は怪盗・赤羽三世。この衣装に袖を通した時から覚悟はできている。

 赤い羽根は勇気と善行の象徴。怪盗はどこまでいっても悪党に過ぎないからこそ、己が良心に従い、勇気を持って己に恥じることなき行いをなさねばならない。だから。



「取り返す方法はただ一つ。この私を捕まえることだ!」



 大仰な身振りで注目を集め――黒服が突入してくるまで三、二、一、今――指を鳴らす。



「いたぞ! 取り押さえろ!」



 明らかに堅気ではないいかついスーツ姿の男たちがこのフロアへ入ってくる。同時、仕掛けた装置から着色ガスが一気に噴出。視界が奪われる中、美冬の手を引いて駆け抜ける。

 ところでまだ美冬から返事を貰ってないんだけど、逃げもしなければ抵抗もしないってことはそういうことでいいのかな? まあ都合よく解釈していいってことにしとこ。

 フロアから飛び出して向かう先は階段。前方から黒服が一人。バラバラに向かってくるとは練度が低いな。

 一瞬、美冬の手を放して、踏み込む。先手必勝。投げ飛ばす。チョロいな。バリツは探偵の必修科目だぜ? おっと、今は怪盗だったか。



『なんとしても捕まえろ! 野郎、よりにもよって顧客データを盗みやがった! これが表に出れば終わりだぞ!』



 拝借したインカムから怒鳴り声が聞こえる。情報が抜き放題で結構なことだが、うるさいのでもう少し静かに話して欲しいところだ。



「はっ、はっ、顧客データなんか盗んだんですか?」



 もう美冬の息が上がってきたか。思ったより体力ないな。いや、こんなもんか?



「それだけじゃない。そう、例えばこんな仕掛けも」



 ポチっとな。



『エレベーターが止められただぁ!? クソがぁ! システムがハッキングされてやがる!』



 はい、これで援軍は即席の檻に閉じ込められましたとさ。いやー、仕込んでよかったバックドア。スマホで簡単、遠隔操作。まあそのうち対策されるだろうから、そう何度も使うことはできないけど。

 階段に到着。駆け降りようとして、階下から複数の足音。ちっ、美冬を連れて突破するのはリスキーだな。ならプランRだ。美冬の手を引いて階段を駆け上がる。



「はぁっ、はぁっ、こ、こっちは、はっ、屋上」



「問題ない」



 屋上に到着。仕掛けを確認。時間は――参ったな。予定よりも少し早い。まあ美冬も限界っぽいし、ちょうどいい休憩時間か。引っ張れるだけ引っ張って、無理そうならすぐに離脱しよう。捕まったら元も子もないし。

 一分もしないうちに黒服どもが追いついてきた。屋上の縁に追い詰められる。



「美冬、てめぇ……。なに一緒になって逃げ回ってんだ。捕まえるなり、足止めするなり、ちったぁ働けや」



 この声はインカムに向かって怒鳴っていたヤツか。たぶん美冬の元上司。しかしこの状況で美冬が裏切っていないと考えるとは。存外人がいいのか、美冬が勝ち取った信用がそれだけ大きいのか、あるいは侮っているのか。まあどれでもいいか。



「すみません。私、カジノ辞めます」



「あ?」



「やっぱりオジさんとエッチするのイヤです。私は母とは違うので」



 一瞬の静寂。吊り上がる元上司の眦まなじり。



「てめぇ!」



「フハハハハハハハハ! フラれたならば私が頂戴しても文句はあるまい?」



 高笑いで恫喝を阻止。もう時間稼ぎは十分だ。

 美冬を抱いて一歩後ろへ。あと一歩で落ちる。



「おい、待て。てめぇら、まさか」



 赤くなったり青くなったり忙しい男だ。



「覚悟はいいかな、お嬢さん?」



「はい。――ずっと前から」



 遠く。サイレンの音が聞こえる。美冬を抱えたまま空中に身を投げた。

 

    *



「雇ってもらいに来ました」



 ………………は?

 闇カジノでの華麗なる脱出劇から一夜明けて。事務所のドアを開けると、やたらと大荷物を持った美冬がいた。美冬は事務所に入るなり荷物を降ろしていく。いやちょっと待て。



「雇う? え? 誰が誰を?」



「英詩さんが私を、です」



「美冬が俺を、ではなく?」



「依頼したいこともないのに探偵なんて雇ってどうするんですか。そもそもそんなお金ありませんよ。私、今、一文無しなんですよ?」



 オーケー。まずは落ち着こう。俺は今、相当混乱している。うん、まずは、そう、とりあえず話を聞こう。まずは聞き取り調査。これ、探偵の基本。美冬を応接用のソファに座るよう促す。



「……なんで隣に座ったの? 普通、正面に座らない?」



「正面……? やれやれ英詩さんは欲張りですね」



 よっこいしょ、なんて美冬が俺の膝の上に登った。首に手を回されて、至近距離で見つめ合う。美冬の瞳に映る俺は……呆気に取られていた。そりゃそうだ。



「これで満足ですか?」



「うん、不満しかないね? 誰かさんの綺麗な顔に視界が占領されて、他になにも見えないんだわ。その瞳に吸い込まれそう」



「ところでここはお茶の一つも出さないんですか?」



「話聞けよ。傍若無人か」



 立ち上がったら美冬が落ちる。しょうがないので腰を支えて抱き上げる形で立ち上がろうとすると、俺の手が腰に触れる寸前で美冬が膝から降りた。



「なるほど。お茶汲みは助手の仕事というわけですね」



「いやそんなこと一言も言ってないけどね。というか助手ってなんだよ」



「助手では不満ですか? なら秘書でも内弟子でも、肩書はなんでも構いませんよ」



「そういう意味じゃないよね? どう考えてもなんで急に雇って欲しいとか言い出したのかでしょ……。美冬って、探偵になりたかったの?」



「いえ別に探偵になりたいわけではないです」



「じゃあなんでだよ……」



 台所に向かう美冬を見送りながら溜息をつく。わけがわからない。

 というか美冬、なんか距離感おかしくね? 昨日まで俺のこと風間さんって呼んでたじゃん。なんで急に英詩さんになったんだよ。隣に座ったり、膝の上に乗ってきたり、そういうことするタイプじゃないでしょ、君。その違和感に比べたらなぜか事務所の台所の位置を知ってることとかどうでもいいわ。いややっぱ気になるわ。なんで知ってるの?



「台所の場所は英詩さんの視線と間取りから推理しました」



「しれっと心読むのやめてくれない?」



「すみません。つい。どうでもいいことを考えていそうだったので。どうぞ」



「ひどい」



 美冬がちゃっかり俺の隣に座る。もうなにも言うまい。ツッコんだら負けだ、負け。いっそのことこの状況を楽しもう。せっかくなので淹れてもらったお茶を一口。うまっ。



「いつでも店が開けるレベル」



「うーん……ここはちょっと立地が」



「うん、誰も事務所潰して喫茶店開けなんて言ってないね」



「まあ二人の愛の力があれば大丈夫でしょう。よろしくお願いしますね、ア・ナ・タ?」



「言ってないねぇ!」



 つ、疲れる……! これホントに美冬か!? 誰かが変装してるんじゃないだろうな……? チラッ。このスリーサイズは間違いない。美冬だ。



「それでさっきの話ですが、立派な志望動機なんてありませんよ。そもそも私を探偵にしようとしたのは英詩さんでしょう? なにを今さら驚いてるんですか」



「俺、別に美冬を探偵にしようだなんて思ってないけど?」



「だったらなんで初めて会った時に秘密探偵について話してくれたんですか?」



「ただの愚痴だけど」



「バイト感覚で始められて人手不足。報酬は安いかもしれないけど学費が無料。ものの見事に今私が抱える問題を解決できますね? 英詩さんはこういう解決方法もあるって教えてくれたんでしょう?」



「名探偵じゃん」



「なので雇ってもらいに来ました」



「迷探偵じゃん」



 どうしてそうなった?



「それだと俺のところじゃなくてもよくない? なんでここに来たの?」



「それはもちろん英詩さんが一番頼りになるからですよ」



 …………。



「お、ぐらついた。ちょっろ」



「ちょろくねーわ。ぐらついとらんわ。精々震度7だわ」



「ぐらっぐらじゃないですか」



「お前、そりゃしょうがないだろ……。男は頼られると嬉しくなっちゃう可哀想な生き物なんだからさぁ」



「したたかな女ほどおねだり上手ですけどね」



「ところがどっこい、それでもいいのが男だ」



 哀しき習性よ。



「まあそれでも断固拒否するんだが」



「えー」



「えーじゃない。もっと大手に行けよ。そっちの方が研修とか色々充実してるって」



「まあまあそう言わずに。あ~んしてあげますから」



 お茶請けとして置かれていたクッキーを片手に美冬が身を乗り出してくる。



「え? 嘘でしょ。それで喜んで引き受けると思われてるの?」



 まあ食べるんだけど。



「もぐもぐ……。うっま。これどこの商品?」



「愛情たっぷりお手製クッキーです。手土産に持ってきました」



「着々と餌付けされてる気分」



 さてと、どうしたもんかな。知らない仲でもないし、できることなら助けてあげたいけど、正直、今の風間探偵事務所には人を雇う余裕なんてない。



「んー…………、うん。やっぱ」



「イヤです。責任とってください。……私にあんなことしたくせに」



「はいちょっと待ったー! 意味深な言い方やめようね!? 俺、なんもやってないよー!」



「私の職場を潰したじゃないですか」



「やってたわ」



「朝のテレビで違法カジノが摘発されたってニュースを見た私の気持ちわかります? いつ警察が来るのかと怖くて怖くてしょうがなかったですよ。なのに英詩さんは一人でさっさと帰っちゃうし……」



「でも警察は来なかっただろ?」



「はい。誰かさんがデータを改竄してくれたおかげで」



 おおう。そこまでバレてんのね……。



「落ち着いてからようやく気付きましたよ。予告状の『貴方の“秘密”』が指すのは私が違法カジノで働いているという秘密。そのために英詩さんは違法カジノにある私に関するデータを改竄した。わざわざ予告状を送ったのは現場を混乱させて警備に隙を作るため。まさか本気で犯行を行うつもりの人物が予告状を送ってくるなんて馬鹿なことをするはずがないという意識の間隙を突き、悪質な悪戯だと勘違いさせて必要以上に警戒させない。実際、お客様は予告状を見つけてもカジノ側が主催したイベントだと思っていましたよ」



「やってることが違法賭博だしな。少しでも不安を感じれば一気に客が離れかねない。だから悪戯を仕掛けられたなんて不祥事を避けたいカジノ側が全力で誤魔化してくれると読んでたよ」



「いつから準備していたんですか? あれだけの仕掛け、潜入したその日のうちにできるようなものではないでしょうし。それに考えてみれば偶然あの時私と出会ったと考えるよりも、以前から調査をしていたからあのタイミングで現れることができた、と考える方がよっぽど自然です」



「んー……まあ、そうね」



「ああ、やっぱり二ヶ月前からですか」



「俺、まだなんも言ってないよ?」



「学費の滞納をしてから私が呼び出されたのは一回だけ。それも一ヶ月目だけです。それ以降は私も母も呼び出されるどころか催促すらされていません。おかしいでしょう? 誰かが止めてくれていたとしか思えません」



「それが俺だって?」



「はい。身辺調査は探偵の仕事なのでしょう?」



「なるほど」



「…………足りませんか?」



「え? なにが?」



「私の探偵としての適性です」



「これ自己PRのつもりだったの!?」



「知らないんですか? 就活で重要なのは自己PRですよ。ネットに書いてありました」



「知らんわ! 就活なんてしたことないわ! まだ高校生だわ!」



「色仕掛けもダメ。正攻法もダメ。英詩さん、手強いですね……」



 いや色仕掛けはわりと効いてたよ。だって男の子だもん。

 でもそっか……色仕掛けのつもりだったのか…………。だから俺から触れようとしたら逃げたのね。うん……。そっか。……別に泣いてないよ? ホントだよ?



「もうなんでもいいので住み込みで雇ってください」



「今さり気なく要求をアップグレードしなかった?」



「してませんよ。内弟子でもいいって言ったじゃないですか」



「なるほどね! ダメに決まってんだろ!」



「そう言われても……。もう住むところもありませんし」



「なんで!? 今まで住んでた家は?」



「母が家賃払ってないのでそろそろ住めなくなります」



「おぅ……、大荷物はそういうことか……。いやでも流石に同棲はちょっと……」



「言い寄ってきたくせに」



「ぐふっ。いや、それは」



「わかってますよ。あれが本気じゃなかったことくらい。大方私の自殺を止めるためと、あわよくば調査対象との距離を縮めて調査を有利にしようってところでしょう?」



「いや、まあ、そういう意図がなきにしもあらずではあるけどぉ……。全部が全部嘘ってわけじゃ……」



「なに気まずそうにしてるんですか。別に怒ってませんよ。追い詰められて弱ってる女の子の純真無垢な乙女心を弄ぶクソ野郎だなんて思ってません」



「怒ってんじゃん」



 え? 俺、土下座した方がいい?



「ふふっ、そんな顔しないでください。そのことについては不思議なことに本当に怒ってないんです」



「あ、そうなの?」



「はい。散々セクハラされましたし、それで反撃したらバーナム効果とホットリーディングで適当に言いくるめられましたけど怒ってません」



「すみませんでしたー!」



 即土下座。やべぇわ。俺、完全にクズだったわ。他に盗聴器仕掛けるタイミングなかったとはいえ、もうちょっとやり方を考えるべきだったわ。



「このままだと私、英詩さんにたぶらかされた挙句、今日寝るところもないですけど、怒ってませんよ」



「雇わせて……ぜひとも雇わせていただきますぅ……!」



「……なるほど。罪悪感に訴えかけるのが効果的なタイプですか」



 不穏な呟きが聞こえてきたけど気にしない。気にしてはいけない。



「ほら、そんなところでうずくまってないで、こっちに座ってください」



「はい……」



 ソファをポンポンと叩く美冬に促されて隣に座る。思わず溜息が漏れた。



「もう、そんなに落ち込まないでくださいよ」



「いや、振り返ってみるとあんまりにもあんまりなガチクズムーブすぎて、ちょっと。いくら必死だったとはいえ流石になぁ」



「……必死だったんですか?」



 あ。



「そ、そんなことねーし? これくらい名探偵にとっては余裕よ、余裕」



「ふーん。そですか」



 美冬が俺の肩に頭を預けてくる。え? なにちょっと急に。なんか空気、甘くない?



「英詩さんは、どうして私を助けてくれたんですか?」



「えー。なんでって言われてもなぁ。そんなたいそうな理由なんてないよ」



「怪盗の犯行動機は恣意的なものだって言ったじゃないですか」



「だってさー。好きな子を助けるのに理由なんている?」



「うそばっかり」



「…………」



「……え? あの告白……、まさか、本気で…………?」



 じっと黙して見つめれば、露骨に美冬が狼狽する。可愛いけど、ちょっと面白い。



「む。英詩さん。楽しんでませんか?」



「さてと。じゃあまずは美冬を秘密探偵に登録するところからだな。仕事内容については追々、実地研修ってことで。いやーブラック感がスゴイな」



「話、逸らしましたね? はぁ……。ズルい人」



 なにかを諦めたように溜息をつく美冬が再び頭を預けてくる。……なんで?



「英詩さんって、探偵と怪盗、どっちが本業なんですか?」



「しいて言うならどっちも、だな。その二つは本質的にイコールなんだ」



「イコール、ですか?」



「フィクションでは探偵と怪盗はライバルとして描かれることが多いけどね。現実の探偵は情報を盗む者と言える。言うなれば探偵は情報怪盗なんだ」



「では私は探偵と怪盗、両方の助手に雇われたんですね」



「あー……無理に巻き込むつもりはないぞ?」



「やりますよ。助手ですから」



 …………。ねぇ、やっぱり空気、甘くない?



「あ。そういえば私、一つだけちょっと怒ってることあります」



「え? 俺まだなんかやらかしてる?」



「心中してくれませんでした」



「ごめ…………いや、それは俺、悪くなくない?」



「心中してくれるって言ったのに」



「言ってな――ひえっ。ハイライト、消さないで? 美人だから余計に怖いの。いつもの可愛いキミでいて?」



「『私と逝くか』って言ったじゃないですか」



「逝くか、じゃなくて行くか、ね! なにそれ、怖っ! そんなこと考えてたの!?」



「逃げ場もないし、心中してくれるつもりで屋上に向かってるんだと思ってました。なのにワイヤーとか使ってあっさり脱出するし」



「そこは華麗な脱出劇を褒めろよ! なんでそんなに心中したいんだよ!?」



「決まってるじゃないですか。もう置いて行かれたくないんですよ」



「あー……なら別に心中じゃなくてもいいんじゃない?」



「私は好きな人にも、私を愛してくれた人にも、そんな思いはさせたくありません」



「だから心中?」



「はい。最高のハッピーエンドでしょう?」



 母親は男と出て行って美冬を捨てた。父親がどうだったかは知らない。だけどもういないことだけは知っている。

 美冬がゾッとするような笑みを浮かべた。



「英詩さんは私を裏切らないでくださいね?」
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8、作家名
達間涼
TATSUMA RYO

参加作品
クールビューティー アンド ザ ビースト
クールビューティー アンド ザ ビースト
 ポタポタ、と──雨の音を幻聴に聞いた。

 この世界から久しく失われてしまったはずの、恵みの足音を。

 だが、水の一滴もこの肌を濡らすことはない。やはり、ただの幻聴……。

 固くザラザラとした砂礫の感触の上に、少年は、力なく横たわっていた。

 病に侵されたわけでも、どこか怪我をしたわけでもない。ただ、全身が渇いていた。

 行く当てもなく、地図もなく、しかしなにかを求めて。岩と土塊ばかりの死の大地をひたすらに行進し続けた末の、リタイアだった。限界がきたのだ。喉も、舌も、脳も臓腑も、細胞の一つ一つまでもが水を欲している。だが、そんなモノはどこにも在りはしない。

 助けを求めようにも、声も出ない。ここで死ぬのだろうな、と少年は思った。

 そんな時だった。



『────ψρχχ、ζ────?』



 唯一生きた感覚が、不思議な声を聞いた。泡あぶくが水中でコポコポと唄っているような、雨垂れが鼓膜の壁をヒソヒソと叩いているような……少女のような、声を。

 それはしばらく少年の傍を漂ったあと、ふと隣にやってきて、少年の頬に触れた。

 そして、ぽちゃん、と──冷たくも心地よい波紋が頬を打って、ゼリーのように柔らかくて潤んだ感触が、少年の唇を優しく包み込んだ。

 抵抗することなく開かれた少年の口腔に──〝水〟が、流れ込んできた。

 まるで人工呼吸でもするように、呼吸のリズムに合わせて、澄んだ〝水〟が喉の奥へと注ぎ込まれる。それは呼吸というにはあまりに拙く、一方的な、口移しだった。

 ……僕は一体なにをされて。そこにいる〝君〟は一体、なんだ……?

 そんな疑問はやがて、内側からたちまち渇きを潤していく快感の底へと沈んでいって、少年の意識は得体の知れないなにかに溺れるようにして、昏くらく眩くらんで消えた。



   * * *



 深度三二四〇メートル──《深界》。

 サンゴ礁のように捻くれた構造をした奇岩群と、塩と砂礫とがミックスされた白い砂漠が延々と続く元海底を、少年──オトギリはザクザクと足音を擦りながら歩いていた。



「……はぁ……、はぁ……っ」



 海底には度々強い突風が吹き抜ける。その度に塩やら砂やらが飛沫となって舞い上がり、吹雪のように旅人の行く手と視界を遮ってくる。顔を覆う防塵ゴーグルとマスク、それからボロ布同然の旅装束などには、べったりと白い粒が張り付いていた。



「本当にこの先にあるのか、マイム? こんな場所で遭難でもしたら明日には塩漬けだ」



 オトギリのぼやきに言葉を返してくれる者はいない。代わりに、腰に提げた透明な水筒ボトルの中でちゃぽんと跳ねた水音を聞いて、オトギリはマスクの下で苦笑する。



「……わかってるさ。どのみち僕には、君の直感に賭ける以外に道はないんだ」



 視界不明瞭な塩嵐の中を、オトギリは手にした杖で進路を掻き分けながら歩き続けた。



 海が地上を離れ空を回遊する〝生き物〟になったのは、今から三十年ほど前の話。

 この星の約七割を占める、広大にして底知れぬ神秘の大海。それはある日突然、空気を孕んだシャボン玉のようにゆったりと──浮上した。陸地を別ち一繋がりだったはずの海は七体の〝海月くらげ〟へと形を変えて、まるで雲のように空をぷかぷかと漂うようになった。

 そしてその日を境に、世界各地で〝水〟の叛乱は始まったのだ。

 海が空を覆う海月くらげに変わってすぐ、地上には雨が降らなくなった。湖はヒトを寄せ付けない厳格なコロニーと化し、川は水路を外れて勝手気ままに暴れ回る大蛇と化し、人類がせっせと地下に貯め込んだ水資源は巨人となって街から溢れ出す始末……。

《アクアパッツァ》──所謂いわゆる、「意思を持った水たちによる集団ストライキ」だ。



 ──彼女たちは思い出したにすぎない。生命の母たる尊厳と、本来在るべき自由を。



 ある学者は、突如として水が生物染みた活動を始めた超常現象ミラクルをそう結論付けたが、多くの人にとってそれは到底歓迎できるはずのない、生きた自然災害に他ならなかった。

 水が自らを守る術と知能を手に入れると、人類はたちまち深刻な水不足に陥った。

 水がなければ生きてはいけないのが人間という生き物だ。

 以来、人類は水から水を取り返すというまるでトンチのような狩りを繰り返し、限られた水資源を巡っては国と国、あるいは人と人とが苛烈な争奪戦を幾度となく繰り広げ、そうこうしている間に人類はその数を四分の一にまで減らしていた。

 ──渇きと銃弾。それが死因の大半だった。

 しかしそれだけの犠牲を払っても、その四分の一を養っていけるだけの水はまだ、ない。

 だからこうしてオトギリは、かつて海が住んでいた未開拓の地──《深界》を訪れることになったのだ。この渇ききった世界を生き抜くために必要な、オアシスを求めて。



「…………音だ……」



 しばらく歩いていると、途端に塩嵐が止んだ。周囲を飛び交っていたノイズも消え去り、しんとした静寂の中にチョロチョロ──と、水が流れ落ちる音を聞いた。



「──っ、どこかに湧き水があるんだ! この音は、こっちか……!?」



 自然と進む足の速度も速くなり、それに合わせて腰の水筒ボトルも元気に揺れる。

 鼓膜に捉えた音を辿って向かった先には、確かに湧き水があった。岩肌に空いた窪みが水飲み場のような形になっていて、そこに、湧き水が溜まっているのだ。



「やったぞマイム、──水だ! 君の直感は正しかった!」



 嬉しさのあまり、オトギリは前のめりにその泉に飛びついた。なにせ三日ぶりの新鮮な水だ。オトギリは邪魔なマスクを取り去って、泉から手のひらに湧き水を掬い取った。

 キンと冷えた感触が、神経を震わせる。たったそれだけで疲れと渇きが癒えるようだ。

 だが、掬い上げた水に顔を近付けようとした、その瞬間──、



「──痛つッ!」



 ズキン、と──鋭い痛みがオトギリの手を突き刺した。

 危機を感じ取ったのだろう。その水は突然球体に形を変え、ハリセンボンのように針を全身に生やして、オトギリを攻撃したのだ。もしすんでのところで水を手放していなければ、今頃は顔中穴だらけになっていたに違いない。あるいはそのまま口にしていたら……。



「……くそっ、ここの水も《水精マイム》の住処か! それならそうと早く言ってくれ!」



 ウニボールと化した水はオトギリの手から逃れると、威嚇のつもりかポンポンと地面を跳ね始めた。そして、その鞠を弾ませるかのような水音は次々に周囲の水溜まりから溢れ出し、一つ二つ三つ──やがて十を超え、あっという間に周囲を取り囲んだ。

 どうやら知らぬ間に、彼女たちの群生地テリトリーに足を踏み入れてしまっていたらしい。



『──ギュキィィィ──!』



 流石に迂闊過ぎたか。オトギリは、プツプツと血の滲んだ手を握り締める。

《水精マイム》──海月くらげの浮上と共に各地で誕生した水状生命体を、人類はそう名付けた。

 彼女たちがなぜ一個の生命体へと進化を遂げたのかは未だ謎だったが、実際に相対してみて分かるのは、彼女たちは共通して「人間嫌い」だということだ。

 生存本能、という奴なのだろうか。彼女たちは徹底して人類との共生を拒み続けた。人類が前代未聞の水不足で絶滅しかかっている原因は、まさにその協調性のなさにあった。

 ……厄介だな、どれだけの数がいる。追い払えるか?

 オトギリは《水精マイム》に意識を向けつつも、唯一武器に成り得る杖に手を掛ける──と、そこでオトギリは、ついさっき泉の横に杖を立てかけたままだったことに気が付いた。



「ちっ、迂闊がすぎる……!」



 それは自分に対して吐いた悪態だったが、彼女たちはそれを自分たちへの宣戦布告と受け取ったようで、数体の《水精マイム》が海栗うに形の球体を弾ませ、オトギリへと飛び掛かった。

 身を守る術はない。一秒後には集団リンチ、数秒後には蜂の巣だ。

 そして、彼女たちが一斉に跳ねたその直後──、



『──κιτ──!』



 シュパーンッ! と、小気味のいい音が迫り来る凶弾をまとめて──蹴り飛ばした。

 雨が降ったように聞こえたのは、《水精マイム》たちが水飛沫となって弾け飛んだ音だった。

 なにが起こった? ふと思い当たって腰の水筒ボトルに触れてみると、蓋が開いていた。さっきまで中に入っていたはずの〝水〟が、いつの間にか全てなくなっていた。



『────ια────』



 いつの間に出て行ったのか、オトギリの前には一糸纏わぬ姿の少女が立っていた。

 少女は海のように透き通ったコバルトブルーの肌をしていて、髪や瞳も同じ色。すらりとした細身の輪郭には女性的な凹凸があり、二の腕や腰、太ももにはフリルのような飾りが付いている。クリオネのような透明感と蠱惑的な質感を持った、ヒトならざる何者か。

 それは〝水〟によって人間の姿形を模倣した──《水精マイム》の少女だった。



「……助かったよ、マイム。君はいつもいいところで現れる」



『──ω──』



「ああ、褒めてるんだ。そうだ、君から彼女たちに伝えてくれないか? 僕たちは敵じゃないって。それからもしも仲良くなれそうだったら、『喉が渇いた』ってのも一緒に」



 少女──マイムはチラとオトギリを振り返って、思案するように小首を傾げた。

 するとそこに、これ好機と背後から一体の《水精マイム》が飛び掛かる──が、マイムはその一体を掴み取って足元に叩きつけると、その上から容赦なく踵で踏みつけた。ウニボールの針はマイムの足の甲まで突き抜けていたが、同じ水状生命体である彼女は特に気にする素振りをみせることなく、グリグリと足の裏で、同胞の頭を撫で擦った。



『──θ、νο──』



『……ミギミギ! ニューニューニュー!』



『──νν、φ──?』



『……ミギ! ……ュギュム……』



 彼女たちの間でどんなやり取りが交わされたのかは知る由もなかったが、どうやら交渉は上手くいったようだ。マイムの足の裏から解放されたウニボールはすっかり針も萎えた様子で、トボトボと、仲間たちの元へと帰っていった。

 世界は大きく変わったが、弱肉強食という自然界の法則は未だこの世界でも有効らしい。



   * * *



 ──数日前、オトギリはその《水精マイム》の少女に命を救われた。

《深界》は常に未知との戦いであり、人間が生きていくにはあまりに過酷な環境だ。これまでにも多くの人間がオアシスを求め訪れたが、道半ばで死んでいった者も多い。

 だから《深界》の探査は十から数十人規模のチームを組んで行われるのが普通だ。

 調査拠点となるキャンプ地を築き、定期的に地上に戻って物資を補給しながら、数ヵ月の時間をかけてゆっくり調査範囲を広げていく。それが《深界》探査のセオリー。

 だが、それに反してオトギリは一人だった。

 艱難辛苦かんなんしんくを共に分かち合う仲間はおらず、水と食料は現地調達。バックパックに最低限の物資は入っていたものの、そんな物は一週間と保たずになくなってしまった。

 食料はまだいい。《深界》には海に見放されてもなお図太く生き残った深界生物たちが生息していて、貝類や甲殻類、両生類と、案外空腹を凌ぐだけならなんとかなった。

 問題は水だ。海が住まなくなった《深界》はまるで死の大地だった。海底には幾つもの水源が眠っているそうだが、そのほとんどは塩の砂漠の底の底に沈んでいるか、海底洞窟の奥の奥に隠れ潜んでいるかのどっちかだ。

 その日その日を生き抜くだけでやっとだった。日ごとに摩耗する体力と精神。生きるために歩き続ける日々。そんな悪あがきがいつまでも通用するほど、人間は丈夫じゃない。

 延々水と出会えずに旅を続けたある日、オトギリはついに渇きに耐え切れず力尽きた。

 そして死を覚悟したあの時──オトギリは彼女と出逢ったのだ。

 塩の砂漠に埋もれていた小瓶の中で、たった一人生まれ生きてきた孤高の《水精マイム》。

 ──それが、彼女マイムだった。



 海栗うに形の《水精マイム》の群生地をあとにし、日がな一日歩き続けたところで、オトギリはマスクを外して息を吐き出した。塩気を含んだ空気の匂いに、思わず噎むせそうになる。



「──マイム、水をくれないか?」



 オトギリが腰の水筒ボトルを軽くノックすると、カポン──と独りでに、蓋が開いた。



『……──ρ、δ──……』



 水筒ボトルからちゃぷりと外に現れたマイムは、ぷわっと泡のような欠伸あくびを吐き出すと、透き通った海色の肌を微かな陽光の下に晒して、まるで人間かのように伸びをした。



「呑気なもんだな。お休みのところ悪いけど、喉が渇いた。僕にも水を分けてくれ」



 催促するつもりで、もう一度水筒ボトルをコンコンと叩く。すると──、

 振り向きざまにマイムは、キスをしてきた。



「──ぅ、んぐ!」



 ぷるりとした冷たくも柔らかな唇がオトギリの乾いた唇に重なると、マイムはそのまま舌と唾液を絡ませるようにして、トクトク──と、オトギリの口腔に水を垂らしていく。

 それはまるで、舌先から身体の芯までを甘い蜜がトロトロと伝い落ちていくようで……。



「──ぷはっ……、マイム! 口移しはやめてくれって言っただろ? 水筒ボトルに注いでくれるだけでいい」



『──ε──♪』



 マウストゥマウスの給水を終えると、マイムはするりとオトギリの身体に肢体を絡ませ、抱き着いてくる。ゼラチン質のしっとりとした感触を相手に、どうにか理性を保つ。

 水状生命体である彼女にも胸の膨らみがあり、くびれがあり、お尻だってちゃんと二つに割れている。そんな最大公約数少女が自らの美貌を惜しむことなく素っ裸でまとわりついてくる。これが寓話かなにかなら、きっと彼女は旅人を惑わす悪い精霊に違いない。



「まったく。彼女たちに水を分けてもらって、少し重たくなったんじゃないか?」



『──ν、θ──?』



「ホント、《水精マイム》っていうのはつくづく不思議だな。水筒ボトルに収まるくらいに小さくなってみせたり、僕ら人間と同じ姿形になってみたり。なあ、いつか君も海月くらげみたいに、空を覆い尽くすくらい大きくなったりするのかな?」



『──β、χ──』



「もしもそうなったら、今よりもずっと大きな水筒ボトルを探さないとな」



 とても会話になっているとは思えなかったが、それでも、反応があるだけマシに思えた。



「それで、マイム。次はどっちの方角に向かえばいい?」



 オトギリはそう尋ねながら、おもむろに杖を正面に掲げた。

 そうするとマイムはしばらく風を読むような仕草をしてみせたあと、オトギリの手を取ってその方角へと手を引いた。今いる地点から、西の方角だ。

 試しにその方へと少し歩いてみると、杖の先端がコツンと岩にぶつかった。コツコツと叩いて確かめてみれば、その壁は高く高く聳そびえ立っている。



「……早速行き止まりじゃないか。この向こうに僕らが求めるオアシスがあるのか?」



『──φ、ο──』



 マイムはなにかを耳元で囁いたあと、一仕事終えたとばかりにしゅるんと、水筒ボトルの中へと戻っていってしまった。彼女はあまり塩風に吹かれるのが好きではないらしい。

 パタン、と水筒ボトルの蓋が閉じる音がして、再び孤独な時間がやってくる。



「ホント、頼りになる相棒だよ」



 仕方がない。オトギリはマスクを被り直し、海溝の如く深く聳え立った壁沿いを歩き始めた。そうしていればいつかはその壁も、目的地の方へと折れてくれるはずだ。



   * * *



『──ッ……デー、メーデー。こちらダ……、バーズ24……至急、救ム……!』



 それを見つけたのは、元より日向とは縁遠い《深界》が、朱色あかいろに暮れ始めた頃だった。

 初めは《深界》を吹き抜ける塩嵐の音かと思った。酷いノイズ混じりの音で、しかし近付けば近付くほどに、それがスピーカーから発せられる人の声であることに気付く。



「これは……、船か?」



 音の発生源は一隻の探査船だった。船底のほとんどは白い砂漠の表面に沈み込んでいて、船首は岩山にでもぶつけたのか大きく損傷している。恐らくは墜落したのだろう。



「──誰かいるのかっ!? いるのなら返事をしてくれ!」



 船は梯子タラップが降りたままになっていた。入口の扉も開けっ放しだ。オトギリはカツンカツンとわざと足音を鳴らして、船内に足を踏み入れた……が、人が出てくる気配はない。

 船橋ブリッジか? スピーカーの声の主がいるとすれば、そこかもしれない。

 ──だが、そこにも人はいなかった。

 音声は録音された物だった。船橋ブリッジの操作盤を弄ると、ボイスレコーダーが延々リピートしていた騒々しい音も止まった。──と、止める時に余計なボタンを触ったのか、ピッ、とトラックが切り替わる音がしたあとに、さっきとは違う音声が流れ始める。




『──こちら《ダイバーズ‐244》──探査船船長、ノットマン。我々の船は《深界》探査からの帰還中、巨大な塩嵐に遭い墜落した。無線で救難信号を送り続けているが、もう七日も反応がない。備蓄も底を突き始めた。数日前に水の確保のため調査隊を出したが、彼らはまだ戻ってきていない。オアシスに無事辿り着いてくれているのなら、いいのだが。もしそうでなければ………………救援を待つ』




 船橋ブリッジのボイスレコーダーに記録された航海日誌は、墜落当日から今流れた七日目までで、それ以降はなかった。救援が来たのかどうか、一番重要な頁トラックが欠けている。



「これを録音した人は……船のクルーたちはどこに消えたんだ?」



 船は無人だった。航海日誌によれば二十三名の船員がいたそうだが、船内にはその内の一人も見当たらない。しらみ潰しに部屋を覗いていって、どこにも人の気配がないことを確かめると、ようやくオトギリはこの船がすでに廃棄された物ガラクタであると悟った。



「電気系統は生きてるみたいだけど、飛ばすのは流石に無理か……そりゃそうだよな」



 はあ……と溜め息が漏れ、思ったよりも自分が落胆していることに気付く。



「……今日はここで休ませてもらおう。案外、なにか残ってるかも」



 倉庫には缶詰が残っていた。数はそう多くないが、マイムは食事を必要としない。一人分の腹を満たすだけなら十分。それになにより、もう何日も味の付いた物を食べてない。

 船内にはクルー用の居住スペース(二段ベッドがすし詰めになった狭苦しい部屋)もあったが、せっかくならもっと落ち着ける場所がいい。船橋ブリッジに一番近い一等地、そこにある書斎染みた内装の船長室に、オトギリは荷物を下ろした。

 ゴーグルとマスクを外して、全身に背負った装備を服ごと脱ぎ捨てる。足元にはドサッと塩の山が落ちてきた。一体何日分の積み荷だろう……。オトギリはパンツ一枚の格好になると、汗と一緒に肌にまとわりついた塩をせっせと払い落とす作業に移った。

 そこでふと、先ほどから空になったままの水筒ボトルの方に目をやった。



「さっきからなにをしてるんだ、マイム? なにか面白い物でもあったか?」



 そう尋ねると、むにゅ──と、あのうるおいボディが抱き着いてきた。



『────ξμμγ────?』



 マイムはその勢いでオトギリをベッドに押し倒して、這うように肌を密着させてくる。肌の表面をじっくり舐め回されているような危うい錯覚に、たちまち身体が熱くなる。



「……マイム!? 今は駄目だ……! 今はなんか、マズい」



 彼女が突然抱き着いてくるのはいつものことだったが、今回のはどうも様子が違った。

 愛撫するような優しい手つきで身体を撫で回してきて、仕草の一つ一つがやけに艶なまめかしい。心なしか彼女の身体も火照っているように感じる。まさか裸の僕を前にして、彼女の中に眠っていた野性的ななにかが燃え上がって……いや、まさか。彼女は水だぞ?

 と、不意に、どこか懐かしくも鼻をつんと突くような匂いに気が付いた。



「……ん? なんか君──、酒臭くないか? それ、なにを持ってるんだ?」



 マイムの手には、手榴弾くらいのサイズの小瓶が握られていた。手に取ってみると、匂いでそれが酒だと分かった。軽く揺すってみると、瓶の底でチャポチャポと音がする。



「こんなものどこで拾って……ってまさか、これを飲んだのか?」



 なにやら部屋の隅でガサゴソとやってるなあ、とは思っていたが。まさかアルコールにまで鼻が利くとは思ってもみなかった。船長が部屋に隠していた宝物ヘソクリだろうか?



『──ε──』



 ちゅぷり──と、マイムはオトギリにキスをして、体内で水割りにしたそれを口移しでお裾分けしてくれる。水と酒を9:1で割ったような薄っすい味がした。



「貴重な水を君は……、渇きに酒はタブーだっていうのに。もう絶対に飲ませないからな」



 聞いているのかいないのか。マイムはベッドの上から滑り降りると、今度は椅子の上でステップを踏んで踊り始めた。水でも酔っぱらうんだな、と妙な感心を抱く。



「他の人が今の君を見たらどう思うんだろうな。人類から水を奪った元凶が、酒に酔って、踊ってる。なあ、ちょっとは罪悪感とか感じたりしないのか?」



 酔ったついでに口が軽くなったりはしないか、と思ったが、当然そんなことがあるはずもなく、返事の代わりに、パシャッ──と水飛沫が飛んでくるだけだった。



『────θαιι、κρο────♪』



「それは歌か? 今日は随分と上機嫌じゃないか」



 オトギリはベッドの端に座り直して、適当に選んだ缶詰を一つ開けた。香ばしい醤油タレの匂いがする。缶詰の中身は、焼き鳥だった。思わぬご馳走に笑みと涎が湧いてくる。



「まあ、いいか。君といると、自分が独りぼっちじゃないってつい錯覚しそうになるよ」



 オトギリは小瓶を片手に、机の上の水筒ボトルを目掛けて乾杯をする。そして、マイムの歌声と焼き鳥を肴に、オトギリは小瓶に残っていた最後の一滴を飲み干した。



   * * *



 小窓から差し込んだ朝日が顔に掛かる。朝日と言っても辛うじて日の光を感じる程度の色と熱だったが、オトギリは目を覚ました。船長室のベッドの寝心地は、これまで岩陰で寝起きしていたのが嘘のように感じられて、起きるのが億劫になるほどには快適だった。

 それでも、ベッドから飛び起きざるを得ない事情ができてしまった。



「──マイム、起きろ! 音がする……! 船の外だ。誰かが来た!」



 オトギリは脱ぎっ放しにしていた服と装備を慌てて身に着けながら、枕元の水筒ボトルに呼びかける……が、彼女は水筒ボトルの中で小さく波紋を揺らすばかりで、なかなか起きてこない。



「……いや、君はそのままにしておく方がいいか」



 オトギリは水筒ボトルをバックパックの奥底に仕舞うと、杖を手に取って、船長室を出た。

 まさか船のクルーたちが帰ってきたのか? いや、これは多分、違う。警戒はしつつも、オトギリの足取りは軽やかだった。途中なにかに躓いて転びそうになったが、その勢いのままに外に出る。そして、梯子タラップに足をかけてすぐ、上空から大きな影が降りてきた。

 それは──〝船〟だった。鯨のようなフォルムをした楕円形の胴体に、巨大なプロペラを内蔵したヒレ形の両翼。地上と《深界》とを繋ぐ、空飛ぶ探査船。



「──《ダイバーズ》か!」



 梯子タラップが地上に降ろされると、船内からは続々と、厳めしい装備に身を包んだ船員たちが降りてきた。数は十人とちょっと。彼らが身に着けているマスクには、昆虫のような口吻ストローが付いている。彼ら《ダイバーズ》がアメンボと揶揄される所以ゆえんだ。

 そしてアメンボ集団の中でもその男は、一際大きな足音を立てて、梯子タラップを降りてきた。



「おぅおぅ派手にぶっ壊したもんだな、ええ? そいつはお前の船か?」



 軽薄でいて、しかし威圧感のある濁声に、オトギリはつい萎縮してしまいそうになる。



「……いや。一晩、借りてただけだよ。それよりもあんたたちは──」



「ならいい。──お前ら、船を検めろ! オアシスに通ずる情報があれば全部攫さらえ!」



 男の号令で、アメンボたちはぞろぞろと群れを成して、廃船を物色し始めた。

 リーダー格らしいその男は、廃船の傍に寄って見上げながら、携帯型の水煙草に口吻ストローを突き刺した。風に乗って漂ってきた煙が顔にかかり、オトギリは顔をしかめる。



「多分、彼らはなにも残してないと思う。僕が来た時にはもう誰もいなかった」



「──あら、それならとんだ無駄足だったかしら。せっかく救難信号を見つけて来たのに」



 遅れて、船から女が降りてきた。彼らよりもずっとラフな格好で、装備の上に白衣を羽織っている。パタパタと白衣の裾が風にはためく音は、鳥が羽ばたくのにも似ていた。



「あんたたちは《ダイバーズ》……で、いいのかな?」



「ええ。私はエイチよ。一応はドクターってことになるのかしら。博士と医師、両方の意味でのね。で、あっちで偉そうにしてる彼はボルツ。見ての通り、私たちの船長ね」



「そうか。じゃあ、本当に。……よかった」



「よかった?」



「ああ、えっと。僕はオトギリだ。あんたたちみたいな人に出会えるのを、待ってたんだ」



「ふぅん? それは光栄ね。救難信号はあなたが?」



「いや、そうじゃないけど。似たようなものだよ。あんたたちはこの船の救難信号を聞いて来たんだろ? 僕も助けを求めてた。ずっと……」



 握手でも求めるような歓迎っぷりに対して、白衣の女──エイチは、訝しげにオトギリの、お世辞にも綺麗とは言い難いみすぼらしい格好に、目をやった。



「……あなた、他に仲間は? 《ダイバーズ》ではなさそうだけど」



「仲間は、いない。住んでいたコロニーなら東の方にあるけど、今は一人だ」



「たった一人で《深界》に? 一体どうして?」



「それは……色々と事情があって」



 彼女が不審に思うのも無理のないことだが、その事情を話すのはどうにも憚はばかられた。

 どう答えたものか……。オトギリが答えあぐねていると、煙草の臭いを身に着けた大男──ボルツが、ザクザクと後ろから歩いてきて、言った。



「《深界ここ》に来る奴なんて二種類しかいねえよ。一つは、オアシスを掘り当てて一山当てようっていう、俺たちみてえな探索者ダイバーズ。もう一つは、ハズレくじを引いて地上を追われちまった、憐れな追放者ロストマンだ。──で、お前はどっちだ、ええ?」



 嫌な質問だ。あまりに的確に傷を抉えぐるものだから、突然、全身に酸素を運ぶための管がキュッと縮み上がってしまったかのような、どうしようもない息苦しさに襲われた。

 オトギリが黙っていると、廃船の方から船員の一人が叫ぶのが聞こえた。



「──船長、この船はハズレです! こいつら、碌ろくに水源の情報も持ってない。それに、オアシスを見つけるどころか、水の一滴でも有難がったに違いありませんよ!」



「あァ? なにがあった!?」



「死んでるんですよ! 船の中にゴロゴロと干からびた死体が転がってる! 中はまるでゴーストシップだ。この様子じゃあ、この辺りにオアシスなんて──」



 船員の報告を聞いたボルツとエイチは、ともに困惑の表情を浮かべ、オトギリを見た。

 オトギリもまた、言葉を失っていた。知らなかったからだ。船の中には誰もいないと思っていた。まさかすぐ隣に死体が転がっていただなんて、全く気が付かなかった。



「ふぅむ。オトギリ君、って言ったわね。あなた──これが何本に見える?」



「……なんなんだ、いきなり」



「簡単なテストよ。いいから答えてみて。今、私は指を何本立てているでしょう?」



 エイチはオトギリの正面に回って、そう尋ねてきた。他人ひとを小馬鹿にしたような簡単な数当てゲームだ。だが……オトギリはその簡単な問いにも、答えることができなかった。



「──あなた、目が見えてないのね?」



 オトギリは答えなかった。名探偵に犯行を暴かれた犯人のような面持ちで、唇を噛む。



「盲目で、追放者ロストマンか。確かにワケありね」



「ドクターっていうのは、他人ひとのコンプレックスを陳列するのが仕事なのか?」



 なにそれ? と、エイチは首を傾げる。ただの独り言だ。



「チッ、時間を無駄にしたな。もうここに用はない! お前ら、さっさと引き上げるぞ!」



 ボルツはすっかり興味を失くした様子で、そう叫んで踵きびすを返かえす。

 彼らが撤収していく気配を悟ったオトギリは、慌てて、ボルツの背を追いかけた。



「ま、待って──僕も連れていってくれ! 僕も、あんたたちの船に乗せてくれないか?」



「あァ? 馬鹿言え。なんのメリットがあって、追放者ロストマンなんざ連れていかなきゃならん」



「人助けだと思ってくれたらいい。こんな場所に一人見捨てていくなんて、良心が痛むだろ? 地上に送ってくれるだけでいいんだ。ここでないどこかなら、どこでも」



「役に立たない奴を口減らしのために《深界》に堕とす。珍しくもねえ、どこでもやってることだ。飲み水が勿体ねえからな。お前もそうやってコロニーを追い出された口だろ? すでに役立たずの烙印を押された奴を、どこの誰が受け入れてくれるってんだ、ええ?」



 それは、と言葉に詰まる。正論だった。だが、ここで置いていかれてしまったら、もう二度と生きた人間には会えないかもしれない。そう思うと、余計に、必死になった。



「なら、僕を雇ってくれ。僕も元は《ダイバーズ》にいたんだ。確かに目は見えないけど、船の仕事なら身体が覚えてるし、《深界》の探査だってなにか手伝えることが──」



 そこまで言ったところで、ふと、ボルツが立ち止まり、振り返った。彼は背中に背負った銃ライフルを片手に構えると、その妙に焦げ臭い銃口をオトギリの額に突き付けて、言った。



「いいか、お前は競争に負けたんだよ。適者生存、それがこの世界のルールだ。そんでそのルールブックにはこうも書いてある。──死人は黙って、一人で死んでろ」



 口吻ストローの先端から吐き出された煙が、薄汚い鼠ねずみをあしらうように、ふぅ──とオトギリの顔にぶつかって、後ろへと流れていく。オトギリはその煙に逆らって、前に踏み出した。



「……死人は喋らない。僕は、彼らとは違う」



   * * *



 まるで竜の背中を歩いているようだと思った。ゴツゴツとささくれ立った鱗が無数に並び立つ背中を、小人になって歩いているような気分だ。ヒトの行く道じゃない。



「……おーい、マイム。少し待ってくれ! 一人で先に行くなよ!」



 岩が砂利感覚で敷き詰められた険しい岩石地帯を、オトギリは歩いていた。杖の先端で石塊いしくれを掻き分けながら、時にはその杖で自分を支えて一歩一歩と進んでいく。

 マイム印の羅針盤コンパスは、再び西を指した。そして西へ西へと進んでいるうちに、この悪路だ。彼女はわざと自分を苦しめようとしているのではないか、と疑いたくもなる。



「悪かったよ、マイム。バッグの中に閉じ込めてたことは悪かった。でも、彼らにはまだ君のことを知られたくなかったんだ。だからさ、そろそろ機嫌直してくれよ」



 マイムは怒っていた。缶詰と一緒にバッグの中に放置されたことがよほど気に食わなかったらしい。外に出した時にはもうへそを曲げてしまっていて、水筒ボトルに戻ることも嫌がった。拗ねた様子で先に先にと行ってしまう彼女を、オトギリは水音だけを頼りに、追いかける。

 もしも彼女にまで見捨てられてしまったなら、今度こそ、僕は終わりだ。



「──うわっ!」



 不意に、つま先が鱗の角に引っ掛かり、躓いた。焦って足元をよく確認しなかったせいだ。音と僅かな光しか届かない盲目の世界には、いつだって見えない凶器が潜んでいる。迂闊だ、と内心悪態を吐きながら、オトギリの身体は前に倒れていく。顎の少し先には鋭く尖った岩があるが、気付かない。鉱物の逆鱗が喉元に突き立つ──寸前、柔らかな水のクッションが、オトギリの身体を掬い上げるようにして、支えてくれた。



「……マイム、か。ありがとう……助かったよ」



『──ηο──』



 仕方のない奴だ、とでも言いたげな声音だった。案外近くにいてくれたらしい。

 また、塩嵐が吹雪いてきた。岩と岩の隙間に空いた自然の避難所に潜り込むと、適当な場所に腰掛けて、休憩にしよう、と言ってマイムから水をもらった。彼女はチョロチョロと水筒ボトルに水を注いでくれる。口移しじゃないのが残念だ、とは言わなかった。



「……惨めなもんだよな。僕は結局、誰かの助けなしには生きていけないみたいだ」



 水筒ボトルに口をつけ、渇いた唇と喉を潤しながら、地上にいた頃をふと思い返す。

 オトギリが生まれ育ったコロニーは、決して豊かな場所ではなかった。

 限られた水源と、《ダイバーズ》が《深界》から持ち帰ってくる水資源。唯一の生命線であるそれらを維持するためなら、平気で弱者を切り捨てる道を選ぶ。酷な街だった。

 早々に両親を亡くしたオトギリは、長らく浮浪児としてそんな街の陰に住み着いていた。

《ダイバーズ》に入団したのは、仕事を選んでいる余裕なんてなかったからだ。身よりもなければ、碌に教育も受けてない。なにかしらの技術に秀でているわけでもない。それでもこの街で生きていくためには、誰もが自分の価値を示す必要があった。

《ダイバーズ》の仕事は危険ではあったが、シンプルだった。《深界》に行って、水を見つけて、帰ってくる。それだけだ。幸い体力には自信があった。数年と続けているうちに、これが僕の天職なんだろうと考える程度には、性に合っていた。

 しかし、何度目かの出航を迎えたある日──オトギリは視力を失った。

 まだ離陸前の、鯨のような探査船の胴体がポップコーンのように弾け、ヒレ形の両翼から吹き飛んだプロペラの破片が港を掻き毟った。熱を多分に含んだ爆風が、周囲の大気を薙ぎ払い、今まさに船に乗り込もうとしていたオトギリの身体を、撥ね飛ばした。

 探査船を爆撃したのは、ミサイルだった。コロニーが管理している水資源を狙った、他国からの先制攻撃。その狼煙のろし代わりに、コロニーの港が襲撃されたのだ。

 オトギリが医務室で目を覚ました時、戦争はすでに終わっていた。コロニーは無事だった。奴らを返り討ちにしてやったぞ、と誰かが吠えていた。その誰かの姿はまるで、粗い目のフィルターに掛かったかのように見え、その障害は幾ら目を擦っても治らなかった。

 医者ドクターは、爆風に目を焼かれたせいだろう、と言った。もう二度とその目が良くなることはないだろう、とも。それはこの世界では事実上の──死刑宣告だった。



「コロニーの維持の妨げになる。それが僕を追放した連中の言い分だったよ。戦争のあとで余裕がなかったんだな。要は口減らしさ。それから船に乗せられて、最低限の水と食料だけ持たされて、《深界ここ》に置き去りにされた。勝手に躓いて、転んで、じゃあバイバイ。そういう世界なんだ。僕みたいな奴からどんどん死んでいく。そういう酷な世界」



 回想を終えて、オトギリは岩陰の外に意識を向ける。塩嵐は止みそうにない。



「それでも僕は生きてたいんだ。だからまだもう少しだけ、僕に付き合ってくれるか?」



 隣に座るマイムの方を見る。すると、マイムは唐突にオトギリの手を取って、グイッと引っ張り上げた。あまりの力強さに、思わず杖を取り落としそうになる。



「おっと、急に引っ張るなよ。びっくりするだろ?」



『──νδ、σ──!』



「まったく、気が早いな。まさかこの嵐の中を行くつもりか?」



 そう尋ねると、マイムは水状の身体を小さくして、オトギリが手に持っていた水筒ボトルの中へとするりと潜り込んだ。なるほど君にはその手があったか、と感心する。



「いつの間に反抗期は終わったんだ?」



『──φ、ο──』



「ホント逞しいな、君は。他人ひとを使う才能があるよ」



 オトギリはやれやれと肩を竦すくめ、水筒ボトルを腰のベルトに引っ掛ける。案内は頼むぞ、と声をかけると、水筒ボトルは前に押し出すように跳ねた。……出発だ、と一人呟く。



 塩嵐の中、竜の背中のような険しい岩場をしばらく歩き続けていると、不意に、嵐の音に混じって、ピュォーッと隙間風のような音が聞こえてきた。洞窟の奥から吹いてくる風だ、とすぐに分かった。水筒ボトルも一層大きく揺れて反応している。──ビンゴだ。

《深界》にはまだ未発見の海底洞窟が幾つも眠っている。これもその内の一つに違いない。そう思い、オトギリは逃げ込むようにその洞窟の中へと駆け込んだ。

 洞窟に入ると、嵐の脅威も去る。入口の外でゴォゴォと吹雪く音だけが騒がしい。



「嵐の中に隠れた洞窟か。でも君がいたんじゃ、この洞窟も隠れ甲斐がないな」



『──ω──』



「ああ、褒めてるんだよ。……さぁ、進もう。この先に君が見せたい物があるんだろ?」



 洞窟の中はミミズが掘り進んだかのような一本道で、巨大な空洞がずっと奥まで続いているようだった。杖で石を小突く音ですら、遠くまで響き渡って聞こえる。

 不意に、ぱちゃぱちゃ──と、耳の横を蝶の羽音が掠めていった。──《水精マイム》だ。

 蝶の《水精マイム》は水音を鱗粉の代わりに散らしながら、奥へと飛んでいった。オトギリはその蝶に導かれるようにして、洞窟を進む。羽音の数は次第に増えていく。

 そして、洞窟の最奥に辿り着いたところで、青く澄んだ水面の反照が二人を出迎えた。



「……これは…………」



 洞窟の最奥には大きな湖があった。鍾乳洞の天蓋に守られたその湖は、深く底を見通すことができるほどに澄んでいて、涼しげな水音と心地よい冷気とが岩肌の防音室の中に絶えず染み渡っている。……見つけた! 紛れもないオアシスの絶景が、そこにはあった。

 水面みなもには蝶や鳥の形をした《水精マイム》が飛び回り、水中には魚の形をした《水精マイム》が泳ぎ、水辺には海栗うにやヒト形の《水精マイム》が集ってなにやら楽しそうに談笑している。

 そこは──幾百もの《水精マイム》たちが棲む、彼女たちだけの楽園だった。

 彼女たちはオトギリの存在に気付くと、警戒心を露わにして、こちらを睨んだ。オトギリの目には彼女たちの姿は映っていなかったが、歓迎されていない気配は十分に感じた。

 このまま袋叩きに遭うのではないか、と心配しかけた矢先、



『────νον────!』



 水筒ボトルから勢いよく飛び出したマイムは、一流の水泳選手のような華麗なフォームで、湖に飛び込んでいった。トポン──と、ささやかな水飛沫が跳ね、水面に波紋を作る。

 初めてマイムと会った時、彼女は両手ほどの小瓶を住処にしていた。これほどまでに大きな水溜まりを見たのは初めてだったに違いない。マイムは湖の底の底、端の端までを存分に泳ぎ回り、鳥かごから解き放たれた鳥のように、全身で、オアシスを堪能していた。

 気付けば、マイムの周りには多くの《水精マイム》が集まってきていた。余所者だと言って追い出されることはなく、すっかり仲間の一人として受け入れられている風でもあった。

 なんだ、人間よりも随分と懐が深いじゃないか、と。なんとなく不公平感を覚える。

 彼女は今、一体どんな表情を浮かべ、仲間たちと触れ合っているのだろう?



「……そうか。きっと君自身も、オアシスを探してたんだな。多分、そうなんだろう」



 マイムは自分が呼ばれたと思ったのか、湖の水面をつま先で滑ってやって来ると、オトギリを湖に招き入れるようにして、手を伸ばした。



『────ψ、τν────』



 オトギリはそんな気配を感じて、咄嗟に後ろに手を引いた。差し出された海色の指先が、不思議そうに、宙を彷徨さまよっている。



『──ζ、φι──?』



「ありがとう、マイム。君のおかげでここまでこれた。君がいなければ僕はとっくに死んでいた。感謝してもしきれないよ。でも、残念だけど…………ここでお別れだ」



 そう言ってオトギリは、ポケットから手のひらサイズの──〝発信機〟を取り出した。

 それは、彼らと別れてからずっと、ちっぽけな罪悪感と共に仕舞ってあった物だ。その発信機はチカチカと赤く点滅しながら、今もなお、信号を送り続けている。



「君は逃げろ、マイム。──彼らが来る」



 その直後──、

 平穏だったはずのオアシスに、アメンボ装束の海賊たちが一斉に雪崩れ込んできた。



『────!』



 ゴーグルと口吻ストローの付いたマスクを身に着けたアメンボは、節足動物染みた六本の脚形のスラスターを背後に吹かして、洞窟内を我が物顔で飛び回る。彼らの手にはすでに銃ライフルが握られていた。しかしその弾倉シリンダーに装填されているのは鉛の銃弾などではなく、──雷いかずち。

 アメンボの一人が引き金を引くと、銃口からはバジッ──と蟲の断末魔のような雷光が迸ほとばしり、それは洞窟の中を駆け巡って、水辺にいたヒト形の《水精マイム》に噛み付いた。

 パシャン、と──《水精マイム》はただの水飛沫となって、地面に飛び散った。



「──おぅおぅ本当にオアシスを見つけちまうとは、たまげたな! それもこいつはトンデモねえ、大当たりだッ!」



 ボルツは目の前に広がる宝の山に目を輝かせながら、湖の岸辺へと足を踏み入れた。



「さあて、お前ら! こっから先は狩りの時間だ! 灰は灰に、塵は塵に。水は水に還るのがこの世界のルールだ! 《水精マイム》共は一匹残らず殺して、水に還してやれ!」



 船長からの号令だ。アメンボたちは一層猛り狂って、湖への侵攻を開始する。

 逃げ惑う水も、立ち向かう水も、立ち竦む水も、蝶も鳥も魚も海栗うにもヒト形も……四方八方から降り注ぐ雷の銃弾を前に飛沫となって、死んで逝く。

 彼らが手にしているのは、《水精マイム》を殺すことに特化した電解銃ライフルだ。それは水の叛乱以降、彼女たちの中に芽生えた生命を否定する、人類の抵抗の象徴でもあった。



「……思ったよりも来るのが早かったな。あんたたち、ずっと尾ついてきてたのか?」



「ええ、空からね。塩嵐のせいで船を停める場所には少し困ったけれど」



 オトギリは背後の足音に振り向いて、通信機をエイチに投げ渡した。それは彼女に借りた物だった。彼ら《ダイバーズ》にオアシスを献上するための、取引の証として。



「信用されてるのかいないのか。まあ、なんでもいいさ。これで約束は果たした。約束通りオアシスを見つけて、案内までしたんだ。そっちも僕の願いを叶えてくれ」



「だそうよ、船長」



 と、エイチはその船長の方に顔を傾ける。虐殺の光景を愉快そうに眺めていたボルツは、煩わしそうに顔をしかめながら、電解銃ライフルを肩に担いだ格好で歩いてくる。



「あァ、約束だ? なんて言ったっけな」



「僕をあんたの船で雇って欲しいって話だよ。今朝、あの廃船の前で、そう約束しただろ」



 オトギリは、彼に銃口を突きつけられながらも言った言葉を、改めて口にする。



「あァ、そうだったな。約束だ。頑張った奴には、それ相応の褒美をやらねえとな」



 ボルツは口吻ストローから煙を吹いて、電解銃ライフルを肩から降ろした。次の瞬間──バジッと銃口から稲光が瞬いて、雷の放射が、そのすぐ正面にあったオトギリの身体を突き飛ばした。



「──ァ、かッ……!」



 オトギリは、馬の後ろ脚に蹴り飛ばされたような勢いで、地面を転がった。

 雷は一瞬のうちに全身を駆け巡って、血管も内臓も焼き切っていた。焦げた臭いが鼻の穴から抜けていって、口の中へと戻ってくる。身体のあちこちから焦げた血が噴き出して、衣服をあっという間に赤黒く染め上げた。感覚という感覚が、ドロリと零れ落ちる。

 なにが、ナぜ? という疑問が先にあって、撃たれたという実感が、遅れてやってくる。



「……ぅ、ぐ……ぁ……んた、……僕を……騙ィた、のカ……!?」



「よく考えてもみろ。オアシスが手に入った今、馬鹿正直に約束を守るメリットがあるか? ないんだな、これが。ほら、よく言うだろ。死人に口なしって奴だ」



「……ふざ……ッ、……ぐぞ! ……待て、よ……待、ェェェ…………ッ!」



 オトギリは地べたを這いずって、手を伸ばす。割れたゴーグルの内からその姿を睨むが、暗闇の中に赤い染みが広がっていくばかりで、奴の足音は次第に遠ざかっていく。



「悪く思わないでね。馬鹿な取引を持ち掛けてきたのは、あなたの方なんだから」



 頭上で誰かがなにかを囁いていたが、もはや碌に顔を上げることすら叶わなかった。

 これはきっと、報いなのだろうな、とオトギリは思った。

 マイムの好意を裏切って、彼女の居場所を海賊共に売り渡そうとした、報いだ。

 一人で死ぬのが怖かった。誰の目も届かない場所で、無価値に、人知れず死んで逝くのが怖かった。そんな孤独感から逃れるためだけに、唯一の友人を裏切ってしまった。

 ……そうだ。彼女はちゃんと逃げただろうか。せめて、それくらいは……。



「──な、なんだこいつ……ッ、ぐあ……!」



 空からアメンボが一人墜ちてきた。グシャ──と、地に叩きつけられたその男の頭部に、



『────κιτ、κιτ、κιτ、κιτ────!』



 空から降り立った彼女は、さらに踵を叩きつけた。二度、三度、四度と。



「なにしてやがる! この《水精マイム》が、撃ち殺して──」



 背後で別の男が叫ぶ。銃口から雷が放たれるよりも早く、彼女は身を翻し、男の頭部に回し蹴りをぶち込んだ。十数人の、武器を携えたアメンボたちを相手に、マイムは地面を蹴って、湖の上空を飛び回る連中にも蹴りを浴びせながら、次々に撃墜していく。



『────κ、ιαααα────!』



 マイムは戦っていた。その姿は見えなかったが、彼女の咆哮が、昏い世界を震わせる。



『──、──!?』



 不意に、バジィッ! と雷音が吠えた。銃口から放たれた青白い稲妻──それはマイムの背中に直撃し、水のみで構成された彼女の肉体を無造作に引き裂いた。

 まるで水風船を針で突いたように、パシャン、と水飛沫が弾けて散った。



「……ほぅ、まだ生きてんのか。活きがいいだけはある」



 頭部と、左半身。マイムにはそれだけが残されていた。マイムは未だ体内を駆け巡る雷の残留に苦しみながらも、どうにか湖に逃げ込もうと、必死に地べたを這いずっている。



『……、……。……』



 這いずって、這いずって、地面に擦れる度に、水状の肉体も削れ落ちていく。その背後ではボルツが電解銃ライフルを構えて、水溜まりのような姿をしたそれに、狙いを付けている。



「逃がすかよ。こういうのはきっちり殺さねえと、あとで大抵面倒になるんだ」



 ボルツが笑う。引き金を引く。バジッ、と銃口から火花が散る。口吻ストローから吐き出される煙の音が、鮮明に聞こえる。ちゃぷ、ちゃぷ──と、彼女が這いずる音がする。

 雨の音を、幻聴に聞いた。

 それは多分、やはり幻聴なのだろうけれども、それがどうしても彼女の悲鳴のように聞こえて。──助けて、と。聞こえるはずもない救難信号メーデーが、僕の耳に届いた気がして。

 気が付くと、オトギリはマイムに覆い被さるようにして、動いていた。



「────────ッ!」



《水精マイム》を焼き殺すための稲妻が、背中を裂いて、すでにボロ雑巾のようになったオトギリの肉体に、僅かながらに残った血肉をも焼き焦がして、体内でスパークした。

 これが自分にできる唯一のことだ。オトギリは事前に脳に叩き込んでおいたプログラムを実行するように、マイムの残滓のこりかすを抱いたまま、ザボン──と、湖の中へと飛び込んだ。

 沈んでいく。

 オトギリの中には、意識と呼べるものはもうなに一つ残っていなかった。ただ、後悔と、結局拭い去れなかった孤独感と、それから、まだ死にたくないな、という未練。それだけを残して、オトギリの肉片は湖へと溶けていく。

 沈んでいく。

 マイムの中には、唯一意思だけが残っていた。目の前で死に逝く彼を抱きしめようと手を伸ばして、それが叶わないと知ると、自らの身体を彼の元へと引き寄せるようにして、泳いでいった。そして彼の残骸を心の中で搔き集めると、その一つにキスをする。

 血と肉と水とが溶け合って。意思と水とが重なって。ヒトと水とが混ざり合って。

 そして世界はぐるりと──反転した。



   * * *



「おいおい、なにしてくれてんだよお前。俺のオアシスに勝手に死体沈めてんじゃねえよ。汚ねえだろうが、ええ?」



 ボルツは、銃口からも口吻ストローからも煙の臭いを吐き出しながら、湖の底を覗き込んでいた。

 死にかけの《水精マイム》の残骸に、彼はトドメを刺そうとして、そこに、オトギリ少年が割って入った。エイチの目にはその行動が、《水精マイム》を庇ったように見えた。



「罪滅ぼしのつもりだったのかしら。だとしたら、身勝手な男ね」



 ボルツは湖の岸辺に立って、面倒な仕事を増やしやがって、と湖の底に沈んでいった死人に唾を吐いている。彼も彼で身勝手な男だ、とエイチは肩を竦める。

 ──と、ボルツが顔をしかめたのはその直後のことだった。



「……あァ?」



 湖から、手が伸びてきた。人間の手だ。水中から伸ばした手を、岸辺に腕ごと引っ掛けて、誰かが這い上がってくる。次に、頭部が水面から顔を出す。人間の頭だ。オトギリの頭だ、とすぐに気付く。ゴーグルもマスクも付けておらず、初めて彼の素顔を見ることになったのだが、湖から這い上がってくる必要がある人間など、それ以外考えつかない。



「……お前ッ、まだ生きて──」



 さしものボルツも、驚愕のあまり思わず後退っていた。死人が帰ってくるとは、と。

 ボルツはすぐさま引き金を引いた。せっかく湖から死体を引き上げる手間が省けたというのに、彼は撃った。バチャン──と湖の水面上で水飛沫が跳ねた、その瞬間──。

 青く透き通った〝水状の腕〟が、ボルツの顔面に喰らい付いた。



「──ッお、ごぉ……ッ!」



 それはまるで獲物に飛び掛かる大蛇の如き獰猛さで、マスクの隙間からボルツの口内に侵入したその腕は、そのまま喉をゴボゴボと貫いて、彼の臓腑を内側から喰い荒らした。彼の腹は、止めどなく体内に流れ込んでくる水によってブクブクと膨らみ、そして、全身の穴という穴から、まるで噴水かのように真っ赤な水が噴き出した。

 べちゃ、と──地上で溺死したボルツの死骸が、その場に崩れ落ちた。



「────────」



 死骸の前には、いつの間にか湖から這い上がってきていたオトギリの姿がある。ボルツを死に追いやった〝水状の腕〟は、さも当然のように彼の左腕へと帰っていく。

 オトギリの身体は明らかにヒトのモノではなくなっていた。欠損したヒトの部分を補うように、水で象かたどったヒト形のパーツが彼の肉体と同化している。片腕はヒトで、片腕は水。片足は水で、片足はヒト、というように。パッチワークで作ったツギハギの人形のような、ヒトに《水精マイム》を足してそこから人間性を差し引いたような、奇妙な姿を彼はしていた。



「──てめえ、船長を! ぶち殺してやるッ──!」



 彼の背後から、アメンボの一人が電解銃ライフルを撃った。完全に不意を突いた一発だったが、彼はその雷音に見向きすることなく身体を揺らして、躱かわす。さらにその動作で、勢いよく足を振り払った。〝水状の足〟が、ホースの先端から噴き出した水のように数メートル先の男を目掛けて伸びていき、男の身体を締め上げ、体内の水という水を絞り取って殺した。



「──ば、化け物ッ!」



 と、誰かが叫んで、引き金を引いた。そう言った誰かも水状のなにかに襲われて、水死体となって、墜落した。ヒトの形をした、ヒトではない何者かの手に掛かって、一人、また一人とアメンボが死んで逝く。

 これは異常事態だ。私の手には負えない。そう判断して、エイチは仲間に背を向けて逃走を図る。……が、背後から伸びてきた腕が足首に絡みついてきた。受け身も取れずに、エイチは無様に転んだ。振り返れば、半人半妖の化け物が近づいてくる。



「……ひぃっ、来ないで! 私はなにもしてないでしょう!? だから、殺さないで!」



 エイチは必死になって、懇願する。意味があるかは分からないが、口と鼻を手で隠す。

 化け物の眼は片方が白く濁っていて、もう片方には海色をした球体が浮かんでいた。その海色の球体の表面には、怯えた表情で化け物を見上げる自分の姿が映っている。自分が水の中に囚われ、溺れているような錯覚に、エイチはぶるりと身震いした。



「……あ、あなた、は……オトギリ君なの? それとも──」



 やはり彼は答えてくれなかった。あるいは彼女かもしれないが、どっちでもいい。

 チョロチョロ──と、下着の内側から漏れ出た液体が、股の下に黄色い染みを作った。化け物は、その場に屈みこむと、ゆっくりと顔を近付けてくる。殺される! そう思った直後、化け物はなにを思ったのか、失禁してできた水溜まりに舌をつけて、舐めた。



「────マズい────」



 彼が取った行動も、彼女が言った言葉の意味も全く理解できなかった。未知への恐怖と疑問とが一杯一杯になって溢れ出し、エイチはぐるりと白目を剥いて、気を失った。



   * * *



 目が覚めた時には全てが終わっていた。という経験は、コロニーの港が襲撃された日を思い出させる。あの時も今と同じように気を失っていて、ベッドで目を覚ました時には、目を閉じる前の世界より180度、色んなモノがひっくり返っていた。



『──目が覚めたのね、オトギリ君──』



 オトギリはハッとして、声がした方に顔を向ける。その呼び方からエイチの声かと思い、警戒したが、水のフィルターに掛けられたようなその声には、どこか聞き覚えがあった。



「……その声、まさかマイムか?」



『──そう、ボク。あなたはいつも、そう呼ぶね。マイム。マイム、って──』



 半信半疑で尋ねるオトギリに、彼女は言葉の発音を楽しむかのように答えた。

 マイムは湖の水面に、つま先立ちで浮かんでいた。オトギリは岸辺から湖に両足を垂らした格好で、周囲に聞き耳を立てる。濁った瞳に映った世界は相も変わらず真っ暗だ。



「彼らは……《ダイバーズ》はどうなった?」



『──彼らなら、まだその辺りにいるよ。もう動かないけど──』



「……死んだ。いや、殺したのか。じゃあ、あれは……夢じゃなかった……?」



 オトギリは自分の身体をまさぐって、どこにも傷がないことを確かめる。撃たれたこと自体が夢だったのか、それからあとのことが夢だったのか、曖昧だ。

 もしかして、今こうして彼女と話していることこそが夢なのだろうか?



「僕はなんで生きてるんだ?」



『──それは多分、ボクと混ざり合ったからじゃない? 《水精マイム》の心臓は、心だから。生きる意思さえあれば、どんな形であれ蘇る。ロマンチックに言うなら、奇跡ミラクル──』



「……君はいつからそんな、流暢に言葉を話すようになったんだ?」



『──ボクは元からよく喋ってた。あなたが理解できなかっただけで──』



「君は、僕の言葉が分かってたのか?」



『──ううん。でも、今なら分かる。それも、あなたと混ざり合ったから、かも──』



 混ざり合う、ということの原理はよく分からなかったが、あの時確かに彼女と一つになったという実感もあって、そういうものか、と不思議と納得できた。



「僕のこと、怒ってないのか?」



『──怒る? どうして──?』



「僕は君の居場所と、君の同胞を彼らに売ったんだ。自分の価値を示すためだけに。本当なら、彼らと一緒に死体になっていてもおかしくない人間だ。むしろ、そうあるべきだ」



『──あなたは、死にたかったの──?』



「そうじゃない。そうじゃない、けど……」



 彼女の問いかけに、オトギリは戸惑った。自分でもどうしたいのか分からなかった。

 すると、マイムは湖からすぅーっと岸辺に滑ってきて、オトギリの隣に座った。



『──だったら、生きてたらいい。ボクはあなたに死んで欲しいとは思わないし、今更あなたにいなくなられたら、多分、困る──』



 そう言ってマイムは、すぐ傍にあった杖を手に取って、オトギリに手渡した。



『──ボクはまだ、色々な景色を見てみたい。それはあなたがいないとできないこと──』



「いいのか? せっかく、オアシスを見つけたのに。ここは君の居場所だろ?」



『──いいの。ここはいいところだけど、ボクには少し、広すぎる──』



 マイムは湖に目を向ける。コポコポ──と、湖の奥底から幾つもの泡が、水面に浮かび上がってきた。それはシャボン玉のように膨らんで、やがて、蝶や鳥になったり、魚になったり、海栗うにやヒト形になったりする。湖は、さっさまでの喧騒を忘れてしまったかのように、元の平穏な楽園の姿を取り戻していた。



「まったく、贅沢な悩みだな。……まあ、君がそれでいいなら、いいさ」



 それから少しだけ休憩して、オトギリは多少の未練を残しつつ、湖を発つことにした。

 洞窟の外は相変わらず塩嵐が吹雪いていて、そういえばそうだった、と肩を落とす。



「そういえば、君に聞きたいことがあったんだ」



 オトギリは洞窟の外に顔を覗かせながら、腰に提げた水筒ボトルに話しかける。水筒ボトルからは『──なに──?』と言葉が返ってくる。



「君はどうして、僕を助けてくれたんだ? 初めて会った時だ。僕が死にかけてた時」



『──ああ、それは──』



 彼女は、少し眠たそうにしながら言った。



『──あなたが助けを求めてたから。助けて、って。声がしたから──』



「なんだそれ。そんなこと言ってたか? 僕が?」



『──言わなかった? じゃあ、幻聴かな──?』



「…………いや、どうかな。言ったかもしれない。あの時は、意識が朦朧としてたから」



 多分、と思う。心ではずっと助けを求めていたのかもしれない。心の中で叫んでいただけの救難信号メーデーを、偶々、彼女は見つけてくれたのだ。彼女の言葉を借りるなら、奇跡ミラクルだ。



「──待って、オトギリ君!」



 待って、と。背後から女の声がした。振り返ってみると、ぜぇぜぇと息を切らしながら、エイチが駆けてきたところだった。まさか生き残りがいたとは、と驚く。



「なんだ。あんた、生きてたのか」



「待って、置いていかないで。私も連れていってよ。ほら、約束したでしょう?」



 身勝手な、と呆れを通り越して可笑しくなる。まるで水に映った自分を見ているようだ。

 オトギリは水筒ボトルの蓋から怪訝そうに顔を覗かせるマイムと顔を見合わせて、笑った。



「あんた、船は出せるか?」




 深度三二四〇メートル──《深界》。

 その遥か上空では、今日も海月くらげが風に凪いでいる。
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9、作家名
斜守モル
NANAMOL MOL

参加作品
鮫の王
鮫の王
 かつての世界では、癌や脳卒中、心臓病といった病気が死因ランキングの常連だった。

では2406年現在、主たる死因はなんだろう? ……そんな簡単な質問をしたら、きっと子供にだって馬鹿にされてしまう。性別・年齢・地域に関わらず、長期にわたりランキングトップを独占し続けている死因。

 ――それはもちろん“鮫による外傷”だ。

 そう、鮫。またの名をシャーク。海で暴れたり、頭がたくさんあったり、高速できりもみ回転したりする、あの鮫だ。

 サメといえば最強・最凶・最狂の三拍子が揃う、言わずと知れた絶対王者。

 襲われたら決して無事ではいられない。どこかの大学教授が発表した文献によれば『鮫に襲われた人間が助かる確率』は、1%にも満たないという。



「……つまり俺は、99%死ぬってわけだ」



 絶望的な数値を呟きながら、目つきの悪い青年はどす黒い血を吐いた。

 場所はスラム街の路地裏。天気は雨。気温は10度を下回る。水はけの悪い石畳にぐったりと倒れたまま、青年は現状の分析をする。

 内臓がだいぶやられている。骨は数本折れている。右腕は捻じれて自由が利かないし、少し離れた高架下に、ちぎれた脚が落ちている。事態はかなり深刻だった。

 ……それじゃあ、あいつはどうだ? 俺を襲ったあいつのほうは?

 目の筋肉をどうにか動かし、青年はそいつの巨体を睨む。ドロドロの粘液に覆われた巨体の鮫が、雨に打たれて小刻みに痙攣を続けていた。



「絶対……先にくたばるもんか。勝つのは俺だ……」



 もはやそれだけが、青年の生きるモチベーション。とはいえ肉体はとうに限界を迎えていて、軽い走馬灯すら見えかけていた。

 危険なのは分かっていた。雨の日に外に出るっていうのは、こういうことだ。しかも連日の雨。歴史に残る大豪雨の中だ。

 水ある所に鮫が出る――それが世界の常識だ。海は桁外れに危険だが、陸地といえども安心は出来ない。地上鮫ランド・シャークは、ごく一般的な変異鮫だ。

 しかし通常、地上鮫の性質は比較的大人しい。サイズも小さく、普段は人目につかない場所でネズミでも食べながらじっとしている。

 ところが雨が降ったら話は違う。水を吸った鮫の身体は何十倍にも膨れ上がり、人間を襲うまでに狂暴化する。だから人々は、雨の日には外に出ない。このスラム街の人々ですら、大雨の日は廃墟に閉じこもって内側から防水シートに釘を打つ。どこの誰だって、雨の日の外出が自殺行為だと知っているのだ。

 では何故外に出たかと言うと――簡単だ。青年は配達業を生業にしているのだが、雨の日の配達料は笑ってしまうほど高いのだ。しかも連日の雨ともなれば、食料の備蓄も尽きてくる。命がけで配達をする人間は滅多にいないし、結果として相場は跳ね上がる。どんなに法外な値段でも、依頼がじゃんじゃん舞い込んでくるのだ。

 これでも一応、対策はしていた。海や川はもちろん、水たまりの出来やすい場所には近づかない。少しでも異変を察知したらすぐ逃げる。闇ルートで買った護身用の拳銃を、いつでも取り出せるように隠しておく。

 ……結果から言えば、それらは全く無意味だったわけなのだが。

 やつが隠れていたのは、地下に張り巡らされた用水路の中だった。いくらスラム街とは言え、さすがに用水路ともなれば鮫対策のために頑丈なコンクリートで固めてある。だから何の問題もない……はずだった。

 異変に気付いたのは、地響きのような轟音が響いて、激しい衝撃とともに地面が割れ、片脚が吹き飛んだあとだった。極度に巨大化した鮫が、分厚いコンクリートを打ち砕いて地上に出現していたのだ。

 見上げるほどに大きなそいつは、全身が真っ黒なヘドロやゴミで覆われていた。禍々しさすら感じるそいつを一目見て、すぐに勝てないと直感した。

 けれど、そのまま無抵抗で喰われるのは癪だった。

 だから青年は銃を構え、たった1発だけの銃弾を放った。全身がヘドロまみれだったから、銃弾がどこに当たったのかは分からない。けれど、どうやら奇跡的に急所を直撃したらしい。そいつは攻撃をやめてのたうち回り、やがてビクビクと痙攣を始めた。

 ――そして、今。

 青年は、自らの生命活動が終わりを迎えるのを実感していた。全身が冷え切って、肺に酸素が入っていかない。小刻みに黒目が震えて、全てのものが二重に見える。



「……俺の、負けだな……」



 すでに声は形にならない。ひゅうと虚しく息が漏れる音さえ、雨音に負けて消えてゆく。瞼を開く体力すら失って、青年は静かに目を閉じた――その時だ。



「――鮫は死んだよ。お兄さんの勝ちだ」



 聞きなれない声が、青年の鼓膜を振るわせた。

 最期の力を振り絞り、どうにか瞼をこじ開ける。目の前に倒れる、山のような巨体の頂上に――白い軍服を身に纏った、見知らぬ少女が立っていた。



「すごいね」



「……誰だ」



 巨体からぴょんと飛び降りると、少女はしゃがんで青年の顔を覗き込んだ。

 ぼやけて見えるせいかもしれないが、かなり美人の部類だろう。どこか外国の血が入っているのかもしれない。ボリュームのある金髪を一本に結わえた、17歳ぐらいの女だった。



「私は医者だ。だから、今からお兄さんを診察する」



 そんなことを言いながら、少女はボロボロになった身体に触れる。スプーンのような道具で傷を掻き出し、曲がった腕を引っ張り、ちぎれた脚を見て「あーあ」と呟いた。



「うーん……これは致命傷!」



 うるせえ、そんなの見れば分かるんだよ。力なく睨みつける青年をよそに、少女は滑らかに“診察結果”を話し始めた。



「出血がひどすぎる。内臓がほとんど壊れてる。骨折ぐらいはどうにでもなるけど、ちぎれた傷口が汚すぎて再接着は困難。ほんと、意識があるのが不思議なぐらい」



「…………」



「つまり、現代医学で治療は不可能! 残念だけど、死ぬしかないね。弱っちい人間ごときに耐えられる怪我じゃないし、こればかりはしょうがない」



 この少女はわざわざ死にかけの人間に、こんなことを伝えるために現れたのだろうか?

 怒る気力もなく呆然としていると、突然少女は笑顔を浮かべ。



「つまり何が言いたいのかっていうと――」



 ざあざあ降りの雨の中、青年に顔を近づけてそっと耳元で囁いた。



「お兄さん――“鮫”になる覚悟はある?」



 ***



 世界各地で奇妙な鮫による人的被害が報告され始めたのは、陸地の8割超が海に沈んだ、およそ20年後のことだった。

 とある東の海上都市に、突然、のろのろと四足歩行する鮫が出現したのだ。人々は驚き、すぐさま銃で射殺した。翌日また現れたから、もちろん同じように射殺した。そんなことが数日間続いた。しかし1週間後、現れた鮫は少し様子が違っていた。

 その鮫には、銃が効かなかった。急所を撃っても、びくともしない。住民はパニックになって逃げ惑った。すると鮫は立ち上がり、もの凄いスピードで追いかけてきたと言う。

 程なくして、その都市の人間は全てが食い尽くされてしまった。後の研究によって、鮫は銃撃に対応するために、急所の皮膚を何十倍にも厚くしていたと判明した。

 その研究結果は、世界中に衝撃を与えた。

 つまり鮫は、たった1週間のうちに進化していたのだ。通常なら何万年、何百万年、あるいはそれ以上の時間がかかるはずのことを……たった1週間で。

 どうやら世界中の鮫は、突然変異を促進するウイルスのようなものに感染しているらしかった。それによって高度生命体にしては異常とも言えるスピードで変異・進化し、まるで陸地時代のB級映画に出てくるような奇妙奇天烈な鮫の存在が、空想ではなく現実のものとなっていた。そして困ったことに――それらは総じて凶暴だった。 



 ***



「――おはようございます。やっと起きましたね、シロワニさん」



 柔らかな声音が、ふんわりと青年の目覚めを包み込む。

 電球の眩しさに顔をしかめ、青年は何度か瞬きをした。やがて、ゆっくりと焦点が合ってくる。声の主は、白いワンピースを着た10歳ぐらいの可愛らしい女の子だった。

 手を握ってみてくださいと言われたので、言われるがまま握りしめる。柔らかい。いくつか簡単な計算問題を出されたので、素直に答える。

 すると女の子は、ほっと安心したような笑みを浮かべた。




「よかった! 大丈夫そうですね、シロワニさん」



「そのー……さっきから言ってる、シロワニ? ……ってのは、何のことだ?」



「お兄さんの新しいお名前ですよ。カグラさんが付けた、とっておきのコードネームです」



「カグラさん? 君は?」



「わたしはラブカ。シロワニさんと同じ、カグラさんに命を救われた存在です」



 そう言いながら少女は立ち上がり「カグラさんを呼んできます」と微笑んだ。

 ぱたぱたと遠くなってゆく足音を聞きながら青年――シロワニは、どうにか状況を飲み込もうと必死に頭を働かせる。

 はっきりと覚えているのは、自分が鮫に襲われて死にかけていた瞬間までだ。



(……そうだ。たしか、医者を名乗る変な女が現れて、もう助からないとか言われて……)



 それで――最後に“何か”を告げられたのだ。

 もうほとんど意識が無くなっていたから、はっきりと内容は覚えていない。でも何か、自分にとってとても重要なことだった気がしてならない。

 ……あれから、どれぐらいの時間が経過したのだろう? 

 ゆっくりと半身を起こし、シロワニは周囲を見渡した。

 自分が寝ていたのは、無機質な金属製の台だった。台に直接擦り切れたタオルを敷いただけの、簡易的なベッド。周囲には大量の本や薬品、機械のようなものが散乱している。なんとなく病院なのかと思っていたが、どちらかと言えば研究室のような雰囲気だ。

 そうやって辺りを見回しているうちにシロワニは、ちぎれて無くなったはずの脚が再生していることに気が付いた。恐る恐る指先に力を込めると……しっかりと動く。多少強張るが、痛くもない。



「治ってる……?」



 信じられない思いで、シロワニはぽつりと呟いた。

 つまり、自分はあの女に助けられたのだ。世話を焼いてくれたのは、あのラブカという女の子だろう。最先端の医療技術を駆使したのか、あるいは根気強く治療を続けてくれたのか……いずれにしても、ありがたいことだ。

 次に頭をよぎったのは、悲しいことに医療費のことだった。

 これだけの治療だ、かなり高額の請求がされるだろう。保険になんて入っていないから、払える見込みはゼロに近い。



「……参った」



 シロワニの視線は、無意識のうちに出口を探していた。逃げるなら今のうちだ。我ながら恩知らずにも程があるが、背に腹は代えられない。

 出口はすぐに見つかった。金属製の大きな自動ドアが、向かいの壁に付いている。さっそく逃げようと腰を浮かせた瞬間――自動ドアがゆっくりと開く。



「やあ、お兄さん――いや、シロワニ。生まれ変わった気分はいかが?」



 軍服に白衣を羽織った金髪の女が、真っ赤な棒つきキャンディーを舐めながら颯爽と登場した。間違いない、あの雨の日に出会った女だ。



「私はカグラ=レインウォーター。シロワニの命の恩人で、このアジトの――」



 挙動不審に彷徨さまようシロワニの視線に気づいたのか、女はわずかに肩をすくめて苦笑する。



「……ま、そう急がずに。これからシロワニには、話さなきゃいけないことが沢山あるんだ」



 逃走失敗。シロワニはがっくりとうな垂れる。

 そんなシロワニの前に腰かけて、カグラ=レインウォーターは衝撃的な言葉を吐いた。



「単刀直入に言うと、お兄さんはもう普通の人間じゃない」



「は?」



「鮫人間だ」



 そう言いながら白衣のポケットから手鏡を取り出し、シロワニの鼻先に突き付けた。



「……⁉」



 愕然とする。

 鏡の向こうにいる人物は、自分であって自分でない。

 口元から零こぼれるのは、ギザギザと尖った歯の並び。明らかに人間のそれではない。視線だけで人を殺してしまいそうな、怪物じみた三白眼にギョッとする。

 もともと人相は悪かったが、最早そんなレベルじゃない。混乱と戸惑いが渦巻く中、ようやく口をついて出たのは、場違いなほど現実的な言葉だった。



「……こんな強面こわもてじゃ、配達先の玄関を開けてもらえない……」



「なんだ、そんなことか」



 予想外のセリフだったのか、カグラがフフッと笑い出す。

 あまりに軽い反応に、シロワニはムッとしながら抗議した。



「客商売なんだ、こっちは! 配達に行って、受け取り拒否でもされたら――」



「鮫人間は配達なんてしなくていいよ」



「配達が出来なきゃ、治療費だって払えないんだぞ!」



「……今さら、そんなことを言われても困る」



 キャンディーで頬を膨らませながら、カグラは困ったように肩をすくめた。



「私は聞いた。鮫になる覚悟はあるのかと。それで、お兄さんは頷いた。うん……たぶん頷いていた。突然、首がガクッってなってたし」



「……それは気絶ってやつじゃないのか」



「ま、まあ! この際どっちでもいいっしょ! ……てか、見た目に関してはどうにでもなるの。定期的に抑制剤を摂取してたら、人間みたいな外見に抑えられるからね」



 カグラはついさっきまで舐めていた棒つきキャンディーを、無防備なシロワニの口に突っ込んだ。口の中が少女の体温で満たされて、甘ったるい血のような味が広がった。

 間もなくして、牙が縮み、筋肉が鎮静し、ゆるやかに人間の肉体に変化していくのを実感する。なるほど、このキャンディーが抑制剤だったのか。

 ほっと胸を撫でおろすシロワニを見つめながら、切り替えるようにカグラが言った。



「シロワニには“ヘドロザメ”の心臓を移植した」



 眉をひそめるシロワニに、カグラが1冊の本を手渡してきた。鮫の絵がたくさん載った、図鑑のような分厚い本だ。そのうちの1つ――黒い粘膜で覆われた巨大な鮫を指差しながら、カグラは淡々と説明を続ける。



「シロワニを襲ったあの鮫だよ。素体ベースは古代種のオオメジロザメ――淡水でも生息出来る人食い鮫の一種だ。変異度はⅣa・危険度はⅤb。排水管や下水に溜まったゴミやヘドロを纏うことで変異を続け……やがて驚異的な獰猛さと再生力を宿した鮫となる」



「そいつの心臓が……俺の中に?」



「人体再生治療は難易度が高い。最新設備や一流技術だけじゃ不十分で、特別に再生力の高い、新鮮な鮫細胞が必要となる……運が良かったね、シロワニ。きみの命を繋いだのは、どれだけ取り除いても蓄積を続ける――しつこいヘドロの遺伝子だよ」



 にわかには信じられなくて、シロワニは自分の胸に手を当てた。

 ドクドクとした心臓の鼓動がありありと感じ取れる。自分の内側にもう1つの生命体がいるような、そんな奇妙な違和感を覚えながらシロワニはカグラに向き直った。



「助けてくれたことは礼を言う。でも……タダってわけにはいかないだろう?」



「察しがいいね」



 ふふっと笑って、カグラはもう1本キャンディーを取り出しガリガリと齧った。



「シロワニに施した治療の、法的根拠は“特例法”と呼ばれるものだ。生命の危険がある場合に限り、鮫細胞を利用して、肉体の修復・強化を行っても良いという法律だけど……特例法の適用には、ひとつ守らなければいけない条件がある」



 カグラは人差し指をぴんと伸ばし、シロワニの胸を軽くつついて言葉を続けた。



「貴重な鮫細胞は、国にとっても重要な資源。それを使わせてもらうわけだから……特例法の適用者は、軍に所属し、民衆のために鮫退治をする義務がある」



 そう言いながら、カグラは羽織りの白衣を脱ぎ捨てた。彼女が纏う純白の軍服には、鮫を象かたどった重厚な紋章が輝いている。



「この部隊のリーダーは私。さっきのラブカを始めとして、他にもメンバーはいるんだけど……困ったことに、ちょうど戦闘員が不足していてね。シロワニには私たちの部隊の戦闘員として働いてもらいたい」



「……拒否権は?」



「あると言ったら、嘘になるね」



 あははと悪戯っぽく笑いながら、カグラは大きく伸びをした。

 そしてぴょんと立ち上がりシロワニの顔を覗き込むと、調子を変えて明るい雰囲気でこう言った。



「まあ、安心してほしいな! 治療費は請求しないし、最低限の衣食住は保障出来る。たしかに危険と隣り合わせだけど、慣れれば抜群に稼げるよ。鮫をいっぱい倒して、美味しいものでも食べに行こ?」



 にこっと笑って、シロワニに手を差し出して来た。

 願ってもない条件だ。治療費の不安から急激に解き放たれたシロワニは、気付けば安堵の息を吐き、カグラの手をしっかりと握り返しているのだった。



 ***



 シロワニが負傷した用水路付近は、すでに修復工事が始まっていた。

 地盤の破損は、都市沈没の原因となる。だから通常の工事よりも優先して修復が行われるのだ。もうこの世界に、天然の島や大陸は数えるほどしか残っていない。

 22世紀初頭に加速化した海面上昇に伴って、各国は人工島造成に巨額の予算を投じ始めた。やがて必ず訪れる“海の時代”を生き抜くために、人類は全く新たな居住地区を作り出したのだ。

 ここは、日本領・第18海上都市“松風マツカゼ”。

 浮島構造の一般的な海上大地メガフロートであり、人口200万人程度の中規模海上都市として知られている。

 この国の中心は、ほんのわずかに残った大地のひとつ――霊峰・富士の頂上だ。現在では“第1都市・桐壺キリツボ”と呼ばれている富士の島を基盤として、いくつもの海上都市が蓮花のように連なり国家を作る。

 ほとんどの海上都市は、同一の浮島構造により成り立っている。それはすなわち、海に浮かんだ都市基盤となる“海層”と、都市中心部から伸びた巨大エレベーター・タワー上に広がる“空層”から成る二層構造の浮島だ。

 もともと海層地域は、美しい自然に囲まれた高級リゾートとして開発された。しかし鮫の侵攻によって立場は逆転。空層は限られた身分の人間しか住むことが許されない特級居住区となり、海層の――特に海岸から1㎞以内の地域は、危険に満ちたスラムと化した。



「……いつかは行ってみたいよな、空層ってやつに」



 空高く伸び、雲に突き刺さったエレベーター・タワーを眺めながら、シロワニはぽつりと呟いた。



「順調に仕事が進めば夢じゃないよ。まあ、でも私なら――」



 傍らを歩くカグラが、悪戯っぽくにやりと笑う。



「自分だけの海上都市を作るけどね!」



 棒つきキャンディーをくるくると器用に回しながら、少女は軽い足取りで石畳を歩いてゆく。

 リハビリも兼ねた外出は、シロワニにとって悪くない気晴らしだった。久しぶりに見た空は突き抜けるような快晴で、数日前の悲劇が嘘のように感じられる。

 それでも横を歩く少女の存在こそが、変わってしまった現実の紛れもない証拠だ。



「……ところでシロワニ。人前では鮫になっちゃダメだよ」



 声をひそめてカグラが言い、タバコ型の抑制剤を渡しながら「ちゃんと吸って」と囁いた。タバコに火をつけて煙を吸えば、どこか血なまぐさい匂いが肺の中に充満する。



「私たちの部隊は、発足したての秘密部隊なんだ。関係者ですら知らない場合も多い。だから極力、目立つ行動は控えるように」



 慣れない味に顔をしかめるシロワニをよそに、カグラがキャンディーをがりがりと齧った。抑制剤の形状は自由に選べるそうだが、カグラ曰く「シロワニが可愛いキャンディーとか舐めてたら悪目立ちするから」との理由でタバコが選択されていた。



「……それを舐めてるってことは……つまり、君も鮫人間なのか?」



 声を潜めながら、ずっと気になっていた疑問をカグラにぶつける。すると少女はあっさりと頷き「もちろん」と答えた。



「私のパパってさ、けっこう有名な大学教授なの。13歳の時だったかな? フィールドワークに着いて行った先で、酷い事故に遭って……それでパパが治療してくれたんだ」



「俺と同じような治療を?」



「そ。けっこう賛否両論あったみたい……私は、感謝してるんだけどね」



 遠い目をして空を見上げるカグラは、少しだけ寂しそうな表情をしていた。

 親が大学教授ということは、きっと彼女は空層出身のエリートだ。そんな人間が今、どうして海層のスラム街を拠点として活動するようになったのか――あまり深く考えるのは、彼女の内面に土足で踏み込むようなものだろうか。

 もともと失うものなど無かった自分とは、別種の苦しみがあったに違いない。

 結局シロワニは大して追求することが出来ないまま、その話題を打ち切った。少し印象の変わったカグラの横顔をちらりと見遣り、ようやく慣れてきた煙草の煙をゆるやかに吐く。

 ――奇妙な物音に気付いたのは、その時だ。

 キィキィという、蝶番が軋むような耳障りな音だ。音の出所は、道沿いに建つ廃工場。カグラも違和感に気付いたようで、立ち止まってアジトとの通信を始める。



「――聞こえる、ラブカ?」



『――はい。この音は……たぶん、ネジザメの亜種ですね』



「危険度は?」



『せいぜいⅣa……いえ、音からして小型種なので恐らくⅢかと』



「それは丁度いい!」



 ラブカとの通信を切ったカグラは、くるりと振り返って上機嫌でシロワニに告げる。



「それじゃシロワニ……さっそく、実戦といこうか!」



 ***



 打ち捨てられた工場内部は、酸化したオイルの匂いが充満していた。



「急に実戦と言われても――」



 錆びつき軋んだ床を歩きながら、シロワニはカグラの背中に声を掛ける。



「戦い方が分からないのだが。武器らしい武器も持ってないし、まだ体が鈍ってる」



「こういうのはさ、荒療治が一番なんだよ! 差し迫った必要性を感じないと、せっかくの能力も眠ったまんま」



 ゆるい調子でそう答えて、カグラはずんずんと歩みを進める。

 突き当たりのドアを開けた瞬間、強烈な異臭が鼻をつく。錆びた機械からオイルが漏れ出て、床に大きな油溜まりを作っていた。



「これが鮫の発生源か……」



 呆れたように言いながら、カグラは機械の裏側へと回った。

 ドア付近に立ち尽くしたまま、シロワニはカグラが戻るのを待った。しかし、しばらく待っても戻らない。やがてキィキィという耳障りな音が、無視できないほど大きくなってゆく。

 ギョッと身を固くして、シロワニは音の方向に目を向けた。



「……ッ‼」



 金属板をランダムに溶接したような、歪な形の鮫がそこにいた。体調は1メートルほど。最も特徴的なのは、顔面の中心から伸びる電動ドライバーのように尖った鼻だ。鈍色の無機質な目でシロワニを捉え、威嚇するように鼻をキュインと高速回転させている。



「カグラ! 鮫が出たぞ!」



 慌てて叫ぶが、応答がない。シロワニの声だけが、廃墟にむなしく反響する。何度呼んでも結果は同じ。藁をも掴む思いで、シロワニはアジトとの通信を入れた。



「――聞こえるか、ラブカ⁉ カグラが消えた!」



『ええ⁉』



 素っ頓狂な声を上げて、ラブカが焦った様子で指示を出す。



『そ、それは困りました! えーと……わたしは駆けつけられないので、シロワニさんが頑張って倒してください!』



「いやいや、無理だ! だいたい、こいつは何なんだ⁉ こんなメカメカしい鮫……聞いたこともないんだが!」



『大丈夫、わたしがサポートしますから! ちょっと情報を送りますね』



 腕に装着した通信機器が光り、敵とよく似た鮫の絵が空中画面上に投影される。



『――ネジザメの亜種、コガタネジマキザメです。最大の特徴は、回転するドリルのような鼻。これで標的を串刺しにして、穴だらけにするわけです』



「……こいつも、ウイルスに感染した鮫が変異してるのか?」



『うーん……さすが、いい所に気付きますね。実は、これはちょっと特殊なパターンなんです。具体的に言うと、ウイルスに感染したスクリュードライバーが鮫化したような感じで』



「そんなことある⁉」



『いやー、びっくりですよね! 変異鮫はまだまだ分からないことだらけです。だからこそ興味深いのですが……とにかく、ネジザメ全般は物理攻撃に耐性があります。弱点は動作不良を引き起こす、水と高温――』



 ――ザシュッ。



 突然、腹の辺りに衝撃が走った。

 恐る恐る、シロワニは視線を下へ向ける。高速回転する鮫の鼻が、シロワニの下腹部に突き刺さり、グリグリと肉を抉えぐっていた。



「……ッ!」



 衝撃的なビジュアルに、強烈な吐き気とともに眩暈めまいがした。

 しかし精神的なショックとは対照的に――シロワニの肉体は意外なほど“平常”だった。



(……なぜだ? こんな大怪我をして……なぜ俺は、平気な顔で立っていられる⁉)



 異常事態に、シロワニの脳は混乱していた。

 やがて傷口から、ドロドロとした黒いヘドロのようなものが湧き上がる。ヘドロは地球外生命体のように脈打ちながら、腹部に空いた大穴をしっかりと塞いだ。

 弾力のあるヘドロに押し出され、コガタネジマキザメは勢いよく床に叩きつけられる。素早く体勢を持ち直した変異鮫は、困惑した様子でシロワニを睨んだ。



「――ラブカ! なんか、傷口から出てきたんだけど⁉」



『……ああ、ごめんなさい。電波が悪いみたいです! とにかくシロワニさん、心臓だけは死守してくださいね! ファイトです!』



 その言葉を最後に、アジトとの通信は途絶えてしまった。



「……1人で戦えってことかよ……」



 怒り狂う変異鮫を前にして、シロワニの首筋を冷たい汗が流れ落ちた。

 改めて実感する。もう、己が普通の人間ではないのだと。

 ……正直ショックだが、今はそんなことも言っていられない。普通の人間でないのなら、きっと勝ち目があるはずだ。

 手のひらを見つめ、ぐっと拳を握りしめる。筋肉収縮に伴い、前腕の毛穴という毛穴から磁性体のようなヘドロが大量に飛び出して来た。飛びかかってきた変異鮫をギリギリのところで避けながら、シロワニは必死に状況を整理する。



(……力を込めた部分から、このヘドロが出てくるんだ。それなら……)



 蠢くヘドロに意識を集中させる。シロワニの意思に従って、ヘドロは急旋回を開始した。

 そうやって試行錯誤しているうちに、シロワニは自由自在にヘドロを操ることが出来るようになってゆく。手足のように器用な動きをすることはもちろん、伸ばしたヘドロを柱に絡め、空中を飛び回ることにも慣れてきた。

 しかし……まだ足りない。これだけでは、あの強靭な変異鮫を倒すことは出来ないのだ。



(……そういや、ラブカが言ってたな。あいつの弱点は、水と高温――)



 激しい攻撃を避けながら、シロワニは周囲に目を走らせた。油に濡れた工場内に、水の気配は一切ない。そうなると、残された手段は……。



(高温……ってわけだ)



 結論に達し、シロワニは胸ポケットからライターを取り出す。

 これをオイル溜まりに投げ入れれば、激しく爆発するだろう。同時に分厚いヘドロで全身を包み込み、その耐久性にすべてを賭ける――あいつを倒すには、これしかない!

 突進してくる変異鮫に、シロワニはライターを突き付けた。指先に力を込め、火を点けようとした――その瞬間。



「……あ」



 一瞬の躊躇。

 このまま大爆発を引き起こせば、どこかに捕らわれたカグラまで怪我をしてしまう――迷いが生まれ、動きが止まる。

 変異鮫は、そのチャンスを見逃さなかった。キィキィと耳障りな声で笑いながら、回転速度を急速に上げ、シロワニの心臓めがけて飛び込んできた。



「……クソッ!」



 ダメだ、間に合わない! 

 体勢を崩し、無防備な心臓を守ることも出来ず……シロワニは反射的に目を閉じた。



「――75点」



 シロワニと変異鮫との間――わずかな隙間に、何かがゆらりと現れた。

 空間に溶けてゆくように、光学迷彩が剥がれ落ちてゆく。そうして何もなかったはずの空気中に、ひとりの少女が出現した。

 金髪をポニーテールに結わえた、白い軍服を着た少女だ。少女はちらりとシロワニを振り返ると、透き通った碧眼を細めて嬉しそうに微笑んだ。



「……なんだけど……心配してくれたから、5点加算! 合格点だよ、シロワニ!」



「カグラ……」



 コガタネジマキザメに両腕を絡ませ自由を奪うと、カグラは落ち着いた様子で、その金属質の身体の隙間に注射器で水を注入する。

 変化が生じたのは、わずか数秒後のことだった。変異鮫は壊れたような金属音を響かせてのたうち回り、やがて全身が錆びて動かなくなった。



「……どう、驚いた?」



 鮫の死体を踏みつけながら、カグラは得意げに微笑んだ。



「私に移植されたのは、ミミック・オクトパスから変異した擬態鮫ミミック・シャークの細胞だよ。なかなか、面白い力でしょ?」



「……ずっと見ていたのか?」



「うん。ずっと近くにいた。さすがにさ、ここで死なれたら困っちゃうもん」



「……おかげで寿命が縮んだぞ」



「ふふ、大成功だね! シロワニは能力を扱えるようになったみたいだし……」



 すっかり錆びた鮫に目を遣りながら、カグラは目を輝かせ。



「ネジザメ系の変異鮫は、武器にも加工出来るから高く売れるの! ちょっと錆びちゃったけど、内側には使える部分もあるはずだし……今夜はご馳走が食べられるね!」



 浮かれた様子でハイタッチを求めてきた。

 そうして、シロワニにとって初めての実戦は幕を下ろす。

 夕飯に食べた、カグラおすすめのクラゲパイは……悔しいことに、心が震えるほどの美味しさだった。



 ***



 それからの毎日は順調で、ときどき外に出ては変異鮫と戦って、安定した報酬を得る日々を過ごしていた。能力の扱いにもだいぶ慣れて、危険度Ⅲ以下の鮫相手であればシロワニ1人でも無理なく対応出来るまでに成長した。

 鮫の死体を担いで街まで売りに行くのは、いつもシロワニの役目だった。

 秘密部隊とはいえ軍の組織なのだから、それなりにコネやパイプでもありそうなものなのに……指定されるのは、決まって民間の寂れた取引所だった。

 政府の取引所よりも、ずっとレートが高いのだとカグラは言った。



「……はい、まいど。いつも有難うね~」



 今日もシロワニは、朝一で顔見知りの職員に鮫を売る。

 死体と引き換えに受け取ったのは、高級クラゲパイが20個買えるほどの報酬だ。配達員時代の収入と比べたら雲泥の差だが、それでも命をかけて戦った成果としては、決して高くはないだろう。

 だから今日の午後、シロワニは新たなステップへ進むことになっていた。



「……ねえ、きみ。最近すごいね!」



 取引所の出口で、知らない男に声を掛けられる。スラムには不釣り合いなほど上質なスーツに身を包んだ、20代中盤のいかにも優秀そうな男だった。



「噂を聞いたよ。毎日のように鮫を持ってくる青年がいるんだって」



「うん? ……まあ、軍に所属させてもらってるし、仕事だから……」



 シロワニは上の空で応答する。

 なにせ午後から、はじめての“海中探索”をするのだ。落ち着いてなどいられない。



「……軍? どこの部隊?」



 しかし男は、俄然興味を持ったように身を乗り出してくる。



「ん? カグラ=レインウォーターの……」



 うっかり答えかけたところで、カグラから口酸っぱく言われていた言葉を思い出す――秘密部隊なんだから簡単に身分を明かしちゃダメだよ、シロワニ?



「……いや、なんでもない。急いでるから、また今度」



 慌てて話題を切り上げて、シロワニは足早に帰宅する。

 頭の中は海中探索で一杯で、数分後には謎の男の存在などすっかり忘れてしまっていた。



***



「――それじゃあシロワニ、心の準備は大丈夫?」



 小型ボートの縁に腰かけて、カグラは小さく首を傾げた。ゆらゆらと揺れるボートのすぐ下は、吸い込まれそうなほど深い青色が広がっている。



「この辺りの海域には、第11海上都市“花散里ハナチルサト”が沈んでる。日本古来の文化を大切にする……とっても綺麗な街だったんだってさ」



 もともと日本には54の海上都市が存在した。しかしいくつかの都市は鮫によって修復不能な被害を受けて、現在では深海に沈んでしまっている。花散里も、そのひとつだ。

 沈没した人工島には、貴重な資源が眠っている。新たな人工島建設や、武器作成に必要不可欠なレアメタルやレアアース――今回の海中探索の目的は、それらを持ち帰ることだ。

 カグラが海に飛び込もうとする気配を感じ、シロワニは思わず「あっ」と叫ぶ。不思議そうに振り返った少女に、シロワニは慌てて指摘をする。



「潜水服を忘れている!」



 世界が水没してから飛躍的に進化した潜水服は、旧時代のモデルと比較すると見違えるぐらいスマートだ。全身を覆う透明な膜のようなデザインで、この膜が海水から酸素を作り出す。振動から音声を再現することも出来るので、意思疎通用のホワイトボードも必要ない。

 そんな画期的なデザインだから、つい着用を忘れてしまうのも無理はないが……。



「鮫に襲われる前に、溺れて死ぬぞ」



 真剣な表情で忠告したシロワニの顔を、カグラはしばらくぽかんと見つめ。



「……シロワニ? 潜水服を着た鮫を見たことがある?」



 けらけら笑い出したかと思うと、シロワニの手を引っぱって、そのまま海へとダイブした。



(…………ッ‼)



 ばしゃん。

 細かく砕けた空気の粒が、ふたりの身体を包み込む。ひんやりとした海水は、心地よい羊水のように肌に馴染んだ。輝く帯となった陽光を浴びて、カラフルな魚たちが泳いでいる。

 思わず手を伸ばしてみれば、彼らは逃げずにシロワニをくるくる囲んで泳ぎ出した。



(ここが……あの、誰もが恐れる“海”なのか……)



 息を呑むほど美しい。シロワニはしばらく任務を忘れ、夢のような光景に浸っていた。

 やがてカグラに先導されて、深海への潜水を開始する。

 泳ぎに自信は無かったけれど、何の問題もなく自由自在に水中を移動することが出来た。この遊泳能力も、きっと鮫の心臓を移植した影響なのだろう。

 潜水を続けてようやく到着した沈没都市は、想像以上に本来の姿を保っていた。

 伝統的な石塀に囲まれた、風情のある小路。瓦屋根の民家に混ざって、趣のあるおでん屋の看板なんかが並んでいる。

 今にも人々の話し声や、作り立ての夕飯の匂いが立ち込めてきそうな錯覚に陥る。

 町並みを肌で感じながら大通りに移動して、カグラに指示された通りに採掘をした。任務は概ね順調で、1時間が経つ頃にはレアメタルでバッグがいっぱいになっていた。



「そろそろ浮上しようか、シロワニ」



 すっかり満足したような表情で、カグラが任務の完了を知らせる。

 本当はもう少しだけ、海に包まれていたい気持ちがあった。しかし滞在時間が長ければ、

それだけ危険な鮫に襲われるリスクも上がる。まあ仕方ないかと浮上を開始した瞬間――何かが爆ぜるような音が響いて、目の前でカグラが血を吐いた。



(……襲撃か⁉)



 シロワニはとっさに振り返る。金属質のクジラに似た不気味な物体が、すぐ目と鼻の先に浮かんでいた。腹部にある歯車のような装置が回転し、それに対応してヒレ部分の円筒が狙いを定めるように動いている。銃口のようだ。カグラはあれに撃たれたのだ。

 これもまた、機械から変異したネジザメの一種だろうか? ……シロワニは初め、そう思った。しかし何か、言葉に出来ない違和感がある。違和感の原因を探ろうとそいつをじっと見つめていると、突然、口の部分があんぐりと開いた。



「……⁉」



 中から出現したのは、ガラス張りの操縦席コックピットだ。

 よく見れば側面に、軍のマークが刻まれている。ここに来てシロワニは、それが変異鮫の一種ではなく、軍所有の潜水艦であることに気が付いた。

 操縦席には男が1人座っていた。あの顔には見覚えがある。今朝、民間の鮫取引所で話しかけてきた、エリート風の男性だ。



「――興味深い案件があるので来てみたら……」



 男の声が、潜水艦に取り付けられたスピーカーから水中に響く。男はシロワニに向かって白々しく会釈をしたあと、苦しむカグラに視線を移す。



「まさか君に会えるとは。久しぶりだね、カグラちゃん」



「……お前は……!」



 撃たれた腹を押さえたまま、カグラがさっと顔色を変える。命に別状は無いだろうが、かなり痛そうだ。おそらくカグラは、ヘドロザメほどの再生力を持っていないのだ。



「……カグラ、あいつと知り合いなのか?」



「……ガスタ=ユスリカ。パパの裁判で派遣されてきた、軍選弁護士」



「裁判?」



「大怪我をした私に……認可を受けてない、研究中の治療をしたことが問題になったの。そのときに弁護を買って出たのが、あの男。でも……あいつはわざと負けた。不利な証拠、でっちあげの証拠ばかりを悪用して、パパを陥れたんだ」



 鬼の形相で睨みつけるカグラの言葉を、男――ガスタは肩をすくめて否定する。



「カグラちゃん、言葉は正しく使いなさい。きみはもう死んでいたし、きみのお父様のやったことは治療じゃなくて死体窃盗および死体損壊。残酷な命への冒涜だ」



「違う! 私は死んでなんていなかった! あの時の私は低体温で、極度に心拍数が落ちていて……それであのヤブ医者が、死亡判断を誤った。裁判前に何度も証言したはず。それなのに、お前は――」



「でもねえ、書類上死んでるの。そういう事になってるの。法律は絶対のルールなわけ。つまり戸籍も持たず、鮫の細胞を宿したカグラちゃんは……法律上、ただの鮫。鮫は殺しても、なんの罪にも問われな~い!」



 嬉しそうに叫びながら、ガスタはまたしてもカグラに向かって砲撃した。砲弾は右足を直撃し、カグラは激痛に顔を歪める。



「――なにやら、複雑な事情があるのは分かったが!」



 とっさにカグラを庇うように両手を広げ、シロワニは男に向かって叫ぶ。



「その後、いろいろあって同じ軍に所属することになったわけだろ? だったら、こんな所で争うべきじゃない! こんな――」



「……ハァ」



 必死に訴えるシロワニを憐れむような目で見下ろして、ガスタはこれ見よがしにため息をついた。



「可哀想に。君も、まんまと騙されて」



「……何の話だ」



「存在しないんだよ、カグラ=レインウォーターの所属する部隊なんて。彼女は軍を騙ることで、君みたいに無知な人間を信用させ、良いように利用したんだ」



「……⁉」



 ギョッとして、シロワニはカグラの方を振り向いた。

 カグラのことだ。こんなふざけた嘘をつかれたら、怒って即座に否定してくるはず。

 ……しかしカグラは俯いたまま動かない。青ざめたまま唇を噛んで、シロワニと目を合わそうともしない。

 その反応に、シロワニは真実が何かを一瞬で悟った。



「……本当なのか。あいつの話は」



 静かに問うと、カグラは小さく頷いて。



「……パパが投獄されたあと」



 ぽつりぽつりと、震える声を絞り出す。



「戸籍もなくなって、何者でもなくなった私は……パパの研究日誌を持って、スラムに逃げたの。あいつらに、この研究を渡しちゃいけないと思ったから。それで、独学で技術を身に着けて……瀕死の人の、再生を――」



「ハイ、自白~‼」



 潜水艦の中ではしゃぎながら、ガスタがこちらを指差した。



「取りました、言質取りました! あいつはやっぱり、父親未満の犯罪者! あ、戸籍もないから犯罪者にすらなれないか? うーん、それじゃあ……」



「お前は少し黙って――!」



 あまりの煩さに、シロワニは舌打ちをして男を睨む。

 ――その時だ。潜水艦の背後から、ゆらりと大きな影が現れるのが見えたのは。

 声を上げる間もなく、そいつは潜水艦に噛みついた。

 頑丈な潜水艦が大破して、金属の欠片が海中に舞う。



「……⁉」



 巨大な――いや、巨大という言葉では言い表せないほど、規格外の大きさの鮫がそこにいた。全身が見えないから、正確な体長は分からない。ただ少なくとも50メートル以上はあるだろう。本能的な畏怖を感じずにはいられない、あまりに雄大な姿だった。

 ザザッという雑音に続いて、耳元の通信装置からラブカの声が聞こえてくる。



『大丈夫ですか、シロワニさん⁉ 周囲のレーダーが、異常な鮫影を観測しています』



 ラブカの声には余裕がなかった。いくつか鮫の特徴を告げると、ラブカは息を呑んだ様子で少しの間、黙り込む。



『……それは恐らく、メガメガロドンです。絶滅種である古代鮫・メガロドンの成長抑制因子を壊し、さらに巨大化するよう変異した……とても珍しい種類の鮫』



「対処法は?」



『逃げる者を獲物だと思う性質があるので、背中を向けることは厳禁です。メガメガロドンの変異部分は体長サイズに限局しています。特殊な能力はありませんから、心臓を真っ二つに引き裂けば倒せるでしょう。ただし……』



 そこで、ラブカがわずかに言いよどむ。



『大きいということは、それだけで非常に危険なのです。まず心臓まで武器を届けるのが困難ですし……それに中途半端に痛めつけたら、余計に狂暴化してしまう。そうなったら、もう手が付けられません。倒すチャンスは、たった1度きりと思った方がいいでしょう』



「一度の攻撃で仕留めろ……か」



 奥歯を噛んで、シロワニは真剣に考え込んだ。

 中途半端な攻撃は出来ない。ならばラブカの言う通り、一撃で仕留めなければならないが……まともな武器はなく、頼れるのは己だけ。



「……ねえ~! ちょっと、鮫人間くん!」



 壊れた潜水艦から這い出たガスタが、シロワニの脚に縋すがりついてきた。なんだこいつ、生きていたのか……うんざりしながら足元を見ると、ガスタは泣きそうな顔で懇願する。



「助けてくれ! こんな場所で鮫に喰われて死ぬなんて、あまりにも僕が可哀想だ!」



 潜水服を着ているようで窒息はしていない。しかし、あまりにも無防備だ。



「……なぜ助ける義務がある。さんざん強そうな言葉を吐いておいて、鎧を脱いだらこのザマだ。俺は、ダサい男は大嫌いだ」



 そう言い捨てて、男の頭を軽く蹴る。しかしガスタは、それでもしつこく言い寄ってくる。



「そう言わないでさあ! ねえ鮫人間くん、それなら司法取引をしようよ」



「……司法取引?」



「ここであいつを倒したら、君に空層の居住権をあげよう。僕みたいな上級国民の口利きがないと、とても手に入らない権利だよ? どうだい、悪くない話だろう?」



「……そんなもの、俺はいらない。その代わり……あいつを倒したら、カグラに新しい戸籍を作ってくれ」



「はああーん⁉ なんでよ、なんであいつに――」



「じゃあ助けない。このまま喰われて死ねばいい」



「……ッ……分かったよ、分かりました! 鮫人間くんの言う通りにする! あいつを倒してくれたら、カグラちゃんの戸籍を作ります! 約束は守るよ、法律家だもん。僕にだってプライドは――」



「……ってわけで、ラブカ? 今の言葉、ちゃんと録音したな?」



『はいっ! わたしたちの通信は、常に高音質でアジトに保存してあります♪』



 歌うようなラブカの声に、ガスタは小さく舌打ちをした。



「……抜け目のないヤツめ」



 気持ちを切り替えて、シロワニはメガメガロドンに向き直る。

 改めて見ると、やはり足がすくむほどの大きさだ。中途半端な攻撃では倒せない、相応の覚悟が必要だ。



「……カグラ、ひとつだけ教えてほしい」



 戦闘の直前――俯いたままの少女に問う。



「あの日、俺をヘドロザメに襲わせたのも……君なのか?」



「……ッ! 違う! 断じて、それはないと誓う‼」



「……そうか。それじゃあ、何も変わらないな」



 軽く微笑み、震えるガスタに視線を向けた。



「そこの男。俺のことを、さんざん鮫人間と呼んでくれたが……そんな呼び名で、俺を呼ぶな。俺にはちゃんと名前がある。命の恩人に貰った、大切な名だ」



 続けて、巨大鮫に視線を移す。悠々と泳ぐ、あいつの心臓だけが標的だ。



「覚えておけ。俺の名前は――シロワニだッ‼」



 大声で宣言し、シロワニは全身の筋肉に力を込めた。

 脚、胴体、腕――毛穴という毛穴から、大量のヘドロが湧き上がる。そのまま力を込め続けたら、やがてヘドロ同士がくっついて、ひとつの大きな球体となった。

 生物のように蠢く、漆黒の艶やかな球体だ。その表面にわずかに触れると、触れた部分が渦巻いた。何かが、急速に形作られてゆく。

 やがて組みあがったのは、巨大な剣だ。シロワニの身長の何倍もある、鋭利に研ぎ澄まされた、漆黒の刃ヘドロ――それを両手で握りしめ、シロワニはゆっくりと息を吸った。

 目を閉じれば、心臓の音が聞こえてくる。どくん、どくん。あの巨大な肉体全体に血を巡らせる、化け物じみた心臓ポンプの音。どくん、どくん。狙いを定めろ、確実に。チャンスは、たった一度きり――。



「――そこだッ‼」



 覚悟を決め、一気に剣を振り下ろす。

 刃が、滑らかに肉を引き裂く感覚があった。剣先が巨大な心臓を捉え、真っ二つに切断する。おびただしい量の血液が噴出し、深海を鮮やかに染め上げた。

 切断されたメガメガロドンは、ほんの一瞬、呻うめくような声をあげた。しかし間もなく動かなくなり、海底へドスンと倒れ込む。舞い踊る砂を眺めながら、シロワニは足の力が抜けるのを感じていた。



「……倒した……」



 ぽつりと呟く。自分でも、まだ信じられなかった。



「倒した……やったぞ、カグラ!」



「……やるじゃん、シロワニ。さすが……うちの、自慢のメンバーだよ」



 親指を立てて、カグラがにっこりと微笑んだ。

 少し泣いているようにも思えたが……どんな顔をすれば良いか分からないので、気付かないふりをしておいた。



 ***



 カグラの怪我は、1週間かけてゆっくりと治った。

 約束した、カグラの戸籍については審査中だ。ただ少なくとも、ガスタ=ユスリカによって申請はされたことを確認している。

 あの男はヘタレのクズだが、こちらに弱みを握られていては妙な動きも出来ないはず。あいつはその程度の臆病者だ。



「……ね、シロワニ? ちょっと行きたいとこがあるんだけど……一緒に来てくれない?」



 ある日。カグラに連れられ、シロワニは小高い丘に来ていた。

 見晴らしがよく、真正面に海が見える。瑞々しい葉を輝かせる樹木や、可愛らしい花々が辺り一面に生えている。その中に、小さな石碑が立っていた。



「……やっと来れたよ、パパ」



 柔らかく微笑み、カグラは石碑にちょっと上質なクラゲパイを供える。



(例の父親……亡くなっていたのか……)



 石碑に手を合わせたカグラの横顔は穏やかだった。

 その横顔を見て、ふと思う。なぜカグラは、父親の真似をして再生治療など始めたのだろう。軍から逃げるだけならば、そんな手間を掛ける必要など無かったはずだ。



(……まあ、でも。たぶん……)



 答えは、すぐに頭に浮かんだ。

 カグラは居場所が欲しかったのだ。家族を失い、人間社会そのものから弾き出され、孤独に思い悩んだ少女が出した結論――きっとそれが、死にかけた人間を“鮫”にして救い、共に戦うという選択だったのだ。まあ……これも結局、憶測の域を出ないのだが。



「……カグラ」



「ん?」



 つい呼びかけてしまってから、何もセリフを考えていないことに気付いて焦る。

 伝えたい言葉はあった。君の居場所はここにある。俺の居場所もここにある――でも、いざ改まって言おうとすると、口が痒くてとても言えない。

 そのまま、しばらく照れ臭さと格闘していたが……やはり打ち勝つことは出来なかった。

 不思議そうに首をかしげたカグラを直視できず、シロワニは目を逸らしながら、どうにか言葉を紡ぎ出す。



「……明日も、明後日も――俺と一緒に、鮫を狩ろう」



 世界には、まだまだたくさんの鮫がいる。

 だから、この日々はいつまでも続く。それで良いのだ。いつか世界中の鮫をすべて倒し切り――平和な世界で、自分自身が鮫の王に至るまで。



「……っ!」



 透き通ったスカイブルーの瞳が、はっと驚いたように見開かれた。

 色白な頬に、桜色の紅潮が浮かぶ。目をきょろきょろさせながら、カグラは石碑にこっそりと話しかけた。



「……ぱ、パパ? 今の聞いた? 私、プロポーズされちゃったかも……」



「へ? いやいやいや、そういう話じゃ――」



「違うの? もしかして年下は嫌い?」



「いや、だから! 違う――」



「あはは! シロワニ、照れてる~!」



 ――ケラケラと笑いながら、丘の上を楽しげに駆け回る少女。

 ――顔を赤くしながら少女を追いかけ、必死に否定する青年。

 他愛のない日常を繰り広げる二人の姿を――海だけが優しく見守っていた。
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10、作家名
三浦勇雄
MIURA ISAO

参加作品
ぼくらのプロローグ
ぼくらのプロローグ
     1



 赤羽あかばねアゲハはいつだってひとりだった。休み時間はもっぱら自分の席で読書に勤しみ、帰りの会が終わればすぐに姿を消してしまう。僕は彼女が誰かと談笑しているところを見たことがない。最初は「あの子いつもひとりだな」程度の認識だった。

 でもある日ふと、彼女の読んでいる本が僕の目に留まった。正確にはその本にかけられたブックカバーが、だ。カバーは布製で、表紙の部分に紫色の花が刺繍されていた。

 あれは何の花なんだろう?――何故だか無性に気になった僕は帰りの会が終わってから図書室に駆け込んだ。大判の植物図鑑を借り、翌日それを教室で開きながら、読書にふける赤羽の手許を彼女のやや後方から何度も覗き見て、カバーと図鑑を比較しながら確かめた。僕は完全な不審者だったけれど、幸いにして彼女がそれに気付いた様子はなかった。

 そして――ブックカバーに刺繍された花の名前がライラックだとわかった瞬間、どういうわけかわからないけど、僕の目に赤羽の姿が妙にはっきりくっきり映るようになった。

 少し赤みがかかり、櫛目の通ったさらさらの髪。黒目の大きな瞳で真っ直ぐに本を見つめる横顔。背筋をすっと伸ばして座る様子は、植物図鑑で見たカラーの花みたいだった。

 それから僕は赤羽アゲハから目が離せなくなった。友人たちと話しているときも、授業中も、給食を食べているときも、無意識に彼女のほうを見ていて、何度見ても少しも飽きなくて、ただただ彼女の姿を目で追い続けて、でも話しかけることはずっとできなくて。

 気が付くと三年が経っていて。

 そして小六の春、僕は赤羽と初めて隣同士の席になる。僕らの物語はここから始まる。



 ある日の、給食後のお昼休みのこと。僕の席の周りには友人たちが集まっていた。

 みんなの話題はこの春に始まった新アニメのことで持ちきりだった。

 アニメのタイトルは『最強魔法使いの世直しぼっち旅』。



「『ぼっち旅』、やばいくらい面白くない? 話が燃える」「主人公のチヨチヨがカッコよすぎ。変な名前だけど」「女子なのに男子よりも男子してる。変な名前だけど」



 うんうんと相槌を打っていた僕は、はたと気付いた。

 右隣の席。赤羽がいつも通り読書にふけっている……と思ったのだけど、なんだか様子がおかしい。よくよく見ると彼女の身体が少しこちら側に傾いているような気がした。

 まるで僕らの話に聞き耳でも立てているみたいに。



「ハルタは『ぼっち旅』、どう思う?」



「え? あ、ああ」



 赤羽に気を取られていた僕は、うわの空で頷き、つい口を滑らせた。



「あの主人公、エロいよな」



 教室の喧騒の中、僕らのいる一角だけが水を打ったように静まり返る。友人たちの凍りついた表情を見てようやく、僕は自分の失言に気付いた。

 もちろん僕らだって、ごくまれに、エロについて熱く議論することはある。ただそれは誰が聞いているかもわからない、ましてや女子のいる教室でするような話題じゃない。

 でも――でも、だ。女主人公チヨチヨがエロい。これは僕の正直な感想なのだ。

 困ったことに僕というやつは、物語の中に少しでもエロい要素があったりすると、話の筋がこれっぽっちも頭に入ってこなくなる。話の筋を追うことよりもエロいシーンを探すことに意識がいってしまうからだ。『ぼっち旅』でも、胸とお尻が無駄に大きくて不自然なほど露出の多い鎧を着たチヨチヨの動きにばかり目が行ってしまう。みんなは一体どうやってあの数々の誘惑を断ち切ってストーリーを楽しんでいるんだ?

 僕の疑問はさておき、失言は失言だ。僕の声は言うほど大きくはなかったけれど、それでも隣の席の赤羽には聞かれたはずだ。友人たちは声もなく一様に顔面を蒼白にしている。

 誰もが動けずにいた中、他のクラスメイトが僕らのところへ駆け寄ってきた。



「グラウンド行こうぜ!」



 友人たちは渡りに船と言わんばかりに教室の外へと飛び出していった。

 僕は咄嗟に席から離れられなかった。隣の席から赤羽が僕のことをじっと見ていたからだ。真っ直ぐな視線に射抜かれて、僕は全身が痺れるような感覚に襲われて動けなかった。

 僕らはどれくらい見つめ合っていただろう。しばらくして赤羽は何やら机から一冊の本を取り出した。いつも通りライラックのブックカバーがかけられた本。

 赤羽はそのカバーを外し、本の表紙を僕に見せてきた。表紙に描かれていたのは僕らが今しがた話題にしていたアニメの主人公、チヨチヨだった。つまり――



「……漫画版?」



 違う、と赤羽はすぐに否定してきた。



「これは小説」



「小説。へー。あのアニメ、小説にもなってるんだ」



「違う。こっちが原作」



 へー。相槌は打ったものの、何が違うのか僕にはよくわからなかった。



「好きなんだ? それ」



「うん。好きすぎて、作品とか主人公が褒められると自分のことのように嬉しい」



「……へぇ?」



 僕が返事に困っている間にも、赤羽はさらに畳みかけてくる。



「だからさっきの、本気で言ってるのかなと思って」



「さっきの?」



「主人公チヨチヨがえっちだって」



「……あ、うん……ええと、うん……」



「ほんとにアニメ見たの?」



「み、見ました」



「見たのにあの感想なの?」



 この話題を掘り下げられると個人の尊厳が危うい。僕は誤魔化すよりなかった。



「ほ――他にはどんなの読んでるの? やっぱり同じようなファンタジー系?」



「これしか読んでない」



「……え?」



「全十巻。ずっとこのシリーズだけを読んでる」



「ずっと……そのシリーズだけを?」



「うん。今は三十五周目、だったかな」



 赤羽アゲハはやばいやつなのかもしれない。そう思った矢先、はたと気付く。僕は読書する彼女のことを三年前から見続けてきた。つまり「ずっと」というのは、少なくとも。



「三年間、ずっと?」



「うん。三年前に始まったシリーズだからそれくらいかな。……どうして知ってるの?」



 赤羽アゲハはやべーやつだ。僕は確信に至った。



「……なんかすごく失礼なこと考えてそうだけど、あなたも同じでしょ?」



「僕?」



「隣の席になってから知ったけど。いつも同じ本、読んでるじゃない。あなたも」



 虚を突かれている僕に、赤羽が手を差し出す。見せてよ、と言うように。

 僕は操られたみたいに机の中から一冊の本を取り出す。赤羽の文庫本よりも何倍も大きくて分厚い植物図鑑。三年前に図書室で借りた物と同じ図鑑で、あれから気に入って何度か借り直していたんだけど、今年とうとう我慢できずにお年玉で購入してしまった。

 植物図鑑を赤羽の手に載せると、彼女はパラパラとページをめくる。



「いつもこの図鑑を眺めてるよね。好きなんだ?」



「……うん。特に花のページが好きで……写真がすごくキレイだから」



「この図鑑すごく重いけど、いつも学校に置いてるの?」



「……毎日持ち帰ってる。家でも見たいから」



 赤羽は図鑑から顔を上げ、にやりと笑った。



「ほら。私と同じだ」




 それから僕と赤羽はちょっとだけ親しくなった。当たり前に挨拶をし合い、休み時間になれば僕は植物図鑑の話をしたり、赤羽は『ぼっち旅』の話をしたりするようになった。

 軽口だって平気で叩けるようになった。



「昨日の『ぼっち旅』のアニメ見た? 魔法の構成も表現も完璧な原作再現だった」



「爆風でチヨチヨのスカートがまくれてお尻が丸出しだったのも原作再現?」



「ばか。すけべ。もう話さない」



 そんなふうに怒っても、赤羽は次の休み時間には普通に話しかけてくれた。

 そういえば赤羽に『ぼっち旅』の原作小説を薦められて読んでみたけど、一巻の途中で挫折した。やっぱりエッチな挿絵に気を取られて中身がまったく頭に入ってこなかった、と赤羽に素直に白状したらこっぴどく怒られた。



 そうしていつしか僕が赤羽のことを「アゲハ」と呼ぶようになり、赤羽が僕のことを「ハルタ」と呼ぶようになった頃――季節は夏を迎えていた。

 ある日の放課後のことだった。その日はひどく蒸し暑くて、でも窓から入ってくる風はとても涼やかで、ぽつりぽつりとする会話が妙に心地よくて、なんとなく帰るタイミングを逃してしまって、いつの間にか僕とアゲハだけが教室に残っていて。

 ふと会話が途切れたとき、アゲハがそっと言った。秘密を打ち明けるように。



「ここは私の本当の居場所じゃない。そんな感覚がずっとある」



 それは唐突極まりない告白だった。僕は一瞬面食らうも、その戸惑いを呑み込む。すぐに察したからだ。彼女は今、彼女にとってとても重要なことを伝えようとしていると。



「いつもなんだかものすごく物足りなくて。ずっと空腹が続いているような状態なんだ」



 ひどく抽象的な物言いだったけれど、僕は不思議と彼女の言いたいことが理解できた。

 物足りなくて、ずっと空腹が続いていて――たぶん退屈で仕方がなくて。



「だからずっと同じ本を読んでるの?」



 だから大好きな本ぼっち旅でそれを誤魔化しているの?



「……うん。そうなのかもしれない」



 僕は少し寂しい気持ちになった。僕は君と過ごす時間がこんなにも愛おしいのに、君はそうじゃなかったのか。……なら、なおさら見過ごすわけにはいかない。君の退屈を。



「夏の定番は向日葵だよね。見てるだけで元気になる」



「……え?」



「低学年の子たちが朝顔を育ててるけど、あれもいい。全部表情が違う」



 僕は花が好きだ。植物図鑑を開くときも花のページばかり見てるし、通りがかりに花壇や花を咲かせた雑草があるとついつい立ち止まってしまう。ただただ目を奪われてしまう――気が付けばアゲハのほうを見てしまうように。



「雨の日の帰り道はよく紫陽花を探す。今朝、近所の庭に咲いてたマリーゴールドがまたいいオレンジ色してた。バス一本で行ける距離に植物園があるんだけど、毎年そこの池にきれいな睡蓮が浮かぶんだ。植物園には今言った花も全部あって……だから、その、さ」



 目を瞬いているアゲハに、僕は勇気を振り絞って言った。



「今度、一緒に行かない?」



 アゲハはしばらく無言で僕のことを見つめてから――うつむいた。



「……ごめんね。私、いきなり変なこと言って」



「そんなことない」



「さっきみたいなことをね、毎日ずっと考えてたらさ、気付いたらひとりぼっちになってて。友達の作り方もわからなくて。……最近ちょっと、本当にちょっと、寂しかった」



 顔を上げたアゲハは薄く笑っていた。はにかんだみたいに。



「行こうね、植物園。連れていって」



 僕は頷く。首が折れそうなくらい強く、何度も。




     2



 僕らの住む町は、全国的に見ても雨の日が多い地域らしい。

 なのにアゲハは傘やカッパをよく忘れる。というか僕と仲良くなってから彼女が雨具の類を持ってきているところを見たことがない。雨が降ったら当然のように僕の傘の中に入ってくる。上手く利用されている感が否めない。……まあ、不満は全然ないのだけど。

 その日の雨も突然だった。お昼を過ぎた辺りからパラパラと降り始め、帰りの会になる頃にはざあざあ降りになっていた。ぬかりなく傘を持ってきていた僕を、アゲハは「さすがだねハルタ」と褒めてくれた。僕はチョロい。

 僕らは小さい傘の下で肩をくっつけ合いながら帰り道を歩く。

 雨脚はどんどん強くなっていった。バケツになみなみ貯めた水を延々とぶちまけ続けるような土砂降り。風は行く手からびゅうびゅうと吹きつけてきて、僕らの小さな身体なんて今にも吹き飛んでしまいそうだ。ほとんど意味を成していない傘を一緒に支えながら、僕は「やべー!」と笑い、アゲハも「やばいね!」と笑って、嵐の中を少しずつ進んだ。

 アゲハの家の近くには川がある。急な土手に挟まれ、海まで続く大きな川――その川沿いを歩いていたときだった。ごう、と一際強い風が吹き、僕らの傘が弾き飛ばされた。

 ぱっと開ける視界。同時、僕らは目撃した。茶色く濁った水の塊が土手から這い上がる瞬間を。それは地鳴りみたいな轟音とともに、あっという間に僕らを呑み込んでいった。



 甘い香りが鼻をくすぐった。ライラックの香りだ、と僕は目を開けた。

 直後に息を呑む。花、花、花──無数の花たちが視界の隅々までを埋めていたからだ。

 赤、青、黄、橙、白、黒。色取り取りの花たちはどれもこれもライラックに似ていて、でも何処かライラックとは違う形をしていた。少なくとも図鑑では見たことがない。甘い香りは僕の知るライラックよりももっとずっと濃厚な匂いで、思わずむせそうになる。

 のろのろと上体を起こすと目映い光が目に刺さった。頭上には絵具で塗ったような青空とコンパスで描いたような丸い太陽。僕は目を細めながら辺りを見回し、ぼんやりと呟く。



「花が……浮いてる?」



 高さは僕の膝上くらいだろうか。ライラックに似た、色の異なる花たちが空中をふわふわ漂っている。それは群れとなって広がり、いっそ高級な絨毯のような模様を描いていた。

 漂う花畑の下には草原が続いている。不意に大きな影が落ちたのが見え、顔を上げる。

 青空を泳ぐように鳥が飛んでいた。……いや、鳥にしては大きすぎる。あれはまるで。



「…………ドラゴン?」



 ひどく現実感のない景色の真ん中で、僕は金縛りに遭ったように動けなかった。



「おはようハルタ。気分はどう?」



 声に振り返るとひとりの大人の女性が僕を見下ろしていた。



「…………アゲハ?」



 彼女――アゲハは大きく目を見張った。



「どうしてわかったの?」



 なんとなくというか、直感が働いたというか。平たく言うとアゲハは大人になっていた。腕も脚も背丈もすらりと長く伸びて、高い位置から僕を見下ろしている。丸っこかった顔立ちは少し痩せてシャープになり、その分、目鼻立ちがくっきりしたように見えた。

 服装も彼女がいつも好んで着ていたシャツとスカートの組み合わせではなく、ゆったりとして丈の長い、黒いローブを被っている。まるで魔法使いみたいだった。

 見た目は違う。けれど目の前の女性は赤羽アゲハの面影を確実に残していた。三年間、盗み見ばかりしてきた僕だからわかる。ただし街中をすれ違うだけだったら気付けなかったと思う。すぐに察することができたのはこの異常な状況があったからに他ならない。

 川の氾濫に飲み込まれ、目覚めたらこの不可思議過ぎる景色だ。常識とか現実感とかそういうものは脇に置いやられ、何よりも直感が先に立つのもおかしな話じゃない、と思う。実際、僕の意識はまだふわふわとして夢見心地だった。



「……アゲハ。僕らは死んだのか?」



「死んでないよ。生きてる。私もハルタも」



「じゃあ……ここはどこ?」



「異世界だよ」



 アゲハの手を借りて立ち上がりつつ、事もなげに言われ、僕は瞬きを繰り返す。



「いせかい」



「うん、異世界。私は来るの二回目。異世界での記憶って、元の世界に戻ると薄れちゃうらしくて。だからずっと忘れてたみたい。私は前にもここに〝招かれた〟ことがある。そして今日また〝招かれた〟」



「それは……アゲハが大きくなったことと関係があるの?」



「ある。この世界に〝招かれた〟人間は、その招待に適した姿に変化へんげする……らしいよ」



「招待に適した姿……」



 僕ははっとして自分の身体を確かめる。が、アゲハと違って子どもの姿のままで、服も母がセールで買ってきたTシャツとパンツから変わっていない。少しがっかりした。



「ハルタは〝招かれて〟いないから。私の招待に巻き込まれたんだと思う。ごめんね」



 僕は首を横に振った。がっかりしている場合じゃない。訊きたいことはまだまだある。



「アゲハはなんでこの異世界に〝招かれた〟んだ?」



 アゲハは答えず、ローブの袖から何かを取り出した。一冊の本。紫のライラックが刺繍されたブックカバー。『ぼっち旅』の文庫本だ。



「〝招かれた〟ときに身に着けていた物はこっちの世界にも持ち込めるみたいでさ。私たちの鞄は肩掛けのやつだから流されちゃったけど、この本はポケットに入れっ放しにしてたから無事だった。……ねえ、この表紙のチヨチヨ、誰かに似てると思ったことない?」



「え? ないけど」



 身も蓋もないことを言ってしまったらしい。話の腰を折られたアゲハは唇を尖らせる。



「……私に、似てると思わない?」



「アゲハに?」



 本を受け取り、カバーを外して改めて表紙を観察してみる。写実的な絵ではなく、いわゆる萌え系のデフォルメされたイラストではあるけれど……なるほど、そう言われてみれば特徴は捉えているのかもしれない。しかし僕ははっきりと断言した。



「似てないよ。アゲハはもっとかわいい」



 また口が滑った。



「……ハルタ。話が進まない」



「ご、ごめん」



 アゲハはため息をつくけど、彼女の頬が赤らんでいるのを僕は見逃さなかった。



「この本の内容は憶えてる? 大筋だけでもいいから」



 僕は拙い記憶をたどる。脳裏にちらつくチヨチヨのエロいシーンを振り払いながら。



「ええと、確か……魔法使いがひとり旅をしながら悪い魔王を倒しに行くみたいな、今どき珍しいくらいに捻りのない王道ファンタジーだったような……」



「魔王じゃなくて『禍王かおう』。『禍王』は世界そのものを壊そうとしていて、この本の主人公はそれを食い止めるために冒険を始めるの」



 よかった。大体合ってた。



「で、その主人公が私」



「……うん?」



「三年前、私は『禍王』を倒すためにこの異世界に〝招かれた〟。脚色はされてるけど、この本はそのときの私の旅路を描いてる。記憶が戻ってわかった――これはたぶん、現地の作家が私の噂話をかき集めて執筆したものなんだと思う。それがどうして私たちの世界で出版物として売られてアニメ化までしちゃってるのかはわからないけど」



 彼女の言葉を咀嚼し、飲み込むまでには少々の時間を要した。



「つまり……アゲハは昔、この異世界に来たことがあって」



「うん」



「異世界で悪さをする、えっと、かおーを倒すために旅に出て」



「倒したよ。その後はすぐに元の世界に帰れた」



「元の世界に帰ってきたら、いつの間にか異世界のことを忘れていて」



「うん。今までなんで忘れていたんだろって不思議に思うくらい」



「そして……自分の活躍が描かれた本にどハマりして何年も読みふけっていた」



「わ、私のことを書いた本だって知ったのはついさっきだから」



「でも前に、主人公が褒められると自分のことのように嬉しい、って……」



「実際、自分のことだったんだからいいじゃない!」



「ぼっち旅だったの?」



「ぼっち旅だったよ!」



 強気に言い返すも、アゲハの両脚はがくがくと震えていた。下半身にきているのだろう。

 ふと、違和感に気付く。アゲハの証言には決定的な矛盾がある。



「おかしいよ。話が違う」



「え?」



「チヨチヨの格好はもっとエロい!」



 表紙を飾る女主人公。彼女が身にまとっているのは鎧と呼ぶにはためらってしまうような、不自然なほど肌の露出が多い、秀逸なデザインをした鎧だ。にもかかわらずそのモデルとなったはずの大人のアゲハは、身体のラインすら出ないような、不自然なほど肌の露出が少ない、とても野暮ったいローブを身にまとっている。これは大いなる矛盾と言えた。



「こんなスカスカの鎧で戦えるわけがないじゃない。本の主人公の衣装は作家の脚色。私がこの作品で唯一不満だった部分だよ。明らかに世界観にそぐわない格好なんだもの」



「……ちなみにその黒いローブは何処で手に入れたの?」



「作った。魔法で」



「つ――作った? 作れるの? 服を?」



「作れる。……死んでも作らないよ?」



 この世界に神はいないらしい。僕は話を戻すために「そういえば」と辺りを見回す。



「アゲハをこの世界に〝招いた〟のは誰なんだ? 何処かの国の王様とか?」



「私を〝招いた〟のは人じゃない。この異世界だよ」



「……うん?」



「この異世界は生きている。一個の生命として意思を持っている。だから自分を壊そうとする『禍王』に脅威を覚えて、別の世界の私に助けを求めた。『禍王』は一度私に倒されてるけど、最近復活の兆しがあるだとかで私がまた呼ばれたみたい」



 アゲハは別に、具体的に誰かから説明を受けたりお願いをされたりしたわけではないらしい。彼女はただ、知っていた。前回も今回も異世界にやって来た瞬間に、異世界がどんな状況なのか、『禍王』がどれほど危険な存在なのか、そして自分に何ができるのか――そういった必要最低限の情報がすでに頭の中にあったのだという。

 人ではなく、世界そのものが赤羽アゲハを〝招いた〟。



「じゃあ、もしかしてアゲハは、ぶっちゃけ戦わなくてもいいのか?」



「ハルタは本当に察しがいいね。そうだよ。私は呼ばれただけ。誰かに何かを強制されてもいないし、義理もない。ここで何をするも私の自由なんだ。あえて『禍王』と戦わないことだって……たぶん、この世界でずっと暮らしていくことだってできる」



 僕は思い出す。アゲハが前に打ち明けていたこと。

 ――――『ここは私の本当の居場所じゃない。そんな感覚がずっとある』

 でも、と僕は言う。半ば確信を持って。



「アゲハは行くんだろ? 『禍王』ってやつを倒しに」 



「……わかる?」



 わかる。だって僕は知っている。アゲハの大好きな本があること。アゲハがそれを何年もずっと、何度も読み返し続けていること。そんな彼女が旅に出ないなんてあり得ない。



「行こう。一緒に」



 差し出す僕の手に、アゲハは恐る恐る手を伸ばす。



「いいの? ハルタは私に巻き込まれただけなんだよ。元の世界に戻る方法なら私が」



 空中で迷う彼女の手を強く取った。大人になっても彼女の手は細く、儚げだ。



「行こうぜ。アゲハ」



「……うん」



 こうして――僕らは冒険の旅に出る。



「……でも実際、大丈夫なのか? 結構危険な旅になるんだろ?」



「……ハルタはどうして私が〝招かれた〟んだと思う?」



「え? な、なんでだろ?」



 アゲハは少し得意気に口の端を上げた。大人の顔で、子どもみたいに笑う。



「才能があるから。この異世界を救う、ね」



 アゲハの言葉の意味はすぐにわかった。異世界を救うことにおいて、彼女は最適の才を持っていた。それは異世界のあらゆる魔法を持ち、使いこなすことができるということ。

 件の『禍王』復活の兆候を受けて魔物たちの活動も活発になっているらしく、道中では何かの漫画やアニメで見たような魔物たちと何度も遭遇した。九つの頭を持つ大蛇、強靭な爪を持つ獅子頭の鷲、見上げるような巨人の鬼、八本の足で空中を奔る馬、触れるだけで滅びをまき散らす死の鳥――そのどれもが、アゲハにはまるで敵わなかった。

 風を起こせばどんな巨体も吹き飛ばし、火を起こせばどんなに硬い皮膚でも焼き尽くす。アゲハは出会うそばから魔物たちを易々と蹴散らしていった。彼女はその身体一つで最強で、僕らは実に危なげなく旅を続けることができた。



 僕らの旅はもっぱら徒歩だった。



「アゲハは空を飛んだりとかはできないの?」



「できるよ。できないけど」



「どっちだよ」



 アゲハはおもむろに上を指差す。見上げると高い空をドラゴンの群れが泳いでいた。



「基本的に魔物は『禍王』が産み出すものだけど、ドラゴンだけは別なんだ。ドラゴンはこの世界に古くから暮らしていて、常に空を飛び続けて、死ぬまで一度も腹に土をつけることがないとされる高貴な生物。空は彼らの住処ものなの。だから私が空を飛べば彼らと敵対してしまう。それは私の望むところじゃない」



「……なるほど」



 歩く道中、あちこちで花畑を見た。やっぱりどの花もライラックに似ているけれど、花びらの形が微妙に違っていて――そして必ず宙に浮いていた。



「異世界の花って、ずっと浮いてるみたい。ドラゴンと同じように古くから異世界にある植物で、その性質から飛花ひばなって呼ばれてる。ハルタ、飛花の花畑で目が覚めたでしょ? 私も前に異世界に来たときは飛花の花畑で目が覚めたの。もしかしたら飛花には私たちの世界と異世界をつなぐ道のような役割があるのかもしれない」



 僕はふと植物図鑑のことを思い出す。やっぱり鞄と一緒に流されちゃったのだろうか。



 アゲハの魔法があれば路銀の調達には事欠かなかった。魔物退治以外にも様々な人助けで報酬を得た。農家の畑に魔物除けの魔法陣を張ってあげたり、橋が落ちて立ち往生している商人のために橋を直してあげたり、青年が婚約指輪を失くしたというので落とし物の痕跡を魔法で探って見つけ出したり。基本的に宿や食事に困ることはなかった。

 立ち寄った街で食事を取りつつ、僕はアゲハに訊いてみた。



「アゲハは前に『禍王』を倒して、本にもなるくらい有名になってるんだろ?」



「うん。装丁は違うけど、同じ内容の本が何処の街でも売られてた」



「じゃあ名乗り出れば、わざわざ働かなくても何処でも歓迎されるんじゃないの?」



「たぶん、信じてもらえない。さっき街の本屋さんに行ったときにお店の人に確認したの。びっくりしたんだけど――私が『禍王』を倒したのは何百年も昔のことになってた。この異世界は私たちの世界と時間の流れが違うみたい。考えてみたら前回は何か月も旅をしていたはずなのに、元の世界に戻ったときは二日ぐらいしか経ってなかった」



 僕らの世界での三年が、こちらの世界では数百年――だとすれば大昔の伝説として語り継がれていた人物が名乗り出たとしても、信じてもらえるわけがない。『禍王』の復活も三年どころかもっともっと長い年月がかかっていたということになる。



「本音を言うと、『禍王』がたった三年で復活したのかと思ってげんなりしてた」



「だろうな」



 とにもかくにも――道中はアゲハの魔法さえあれば困ることはなかった。

 それに比べて僕は、足手まといにもほどがあった。アゲハと違って〝招かれた〟わけでもない僕は彼女のように異世界に適した能力を何も持っていなかった。小六の身体では戦うことなんてできないし、それどころか異世界の人々の言葉すらも理解できなかった。

 でもただ彼女の足を引っ張るのは嫌だったから、食料の買い出しや荷物持ちなど、僕でもできるような雑用は何でもやるようにした。お遣いや宿を取るときはとにかく身振り手振り、大仰な動きで自分の意図を伝えて、積極的にお店の人とやり取りをした。

 上手くいかないことは少なくなかった。初めての街で理解できない言葉で罵倒されたこと。人里にたどり着けず何日も野宿が続いたこと。毎日歩き続けて足の裏にいくつもマメができたこと。アゲハと同じものを食べたのに僕だけお腹を下したこと。こっそり野ションしていたときに魔物に殺されかけてウンコ漏らしたこと。それがアゲハにバレたこと。

 挙げればキリがない。でも断言できる。僕はこれっぽっちも辛くなかった。

 アゲハとお揃いの黒いローブを作ってもらったこと。キラキラと輝く湖で一緒に水浴びしたこと。僕が飛花で作った花冠を照れながらもアゲハが被ってくれたこと。街中の人込みではぐれないように手をつないだこと。野宿の夜、背中をくっつけ合って寝たこと。

 大人の姿に成長したアゲハは本当にきれいで。でも中身はやっぱり小六のままだからかわいくて。露出の多い服を着ていなくたって、彼女との冒険は最高にハッピーだった。



 足手まといな僕でも、一度だけ自分の力でお金を稼げたことがあった。

 小さな町で宿を取ったとき、ちょうどお祭りが開かれるということでその準備を手伝った。アゲハは魔法で櫓やぐら作りを、僕は御馳走作りを手伝った。大人数の料理はとにかく人手がいるらしく、小さな僕でもやれることはたくさんあった。

 お祭りは泰平を祈るもので、メインイベントとして数百年前に『禍王』を退治した英雄チヨチヨの活躍を基にした演劇が催された。アゲハは「『ぼっち旅』の二次創作だ!」とよくわからない喜び方をしていた。演劇が終わると町の人々は踊りや飲み食いに興じ、僕とアゲハは同い年くらいの子どもたちと仲良くなって遊んだ。

 異世界ではお祭りの最後に櫓やぐらを燃やすのがお決まりらしい。日が暮れて辺りが夜闇に包まれる中、炎上する櫓やぐらは美しく映え、櫓やぐらの周りにはたくさんの人だかりができていた。

 人込みの中、僕は炎を眺めるアゲハを見つけた。駆け寄ると彼女も気付いて振り返る。



「ハルタ。何処行ってたの?」



 僕は身長差のあるアゲハを見上げながら、無言で手を差し出す。アゲハは目を瞬いた。



「…………指輪?」



 僕の手の上には、表面に飛花の花びらが彫られた、小さな指輪が載っていた。

 店じまいを始めていた露店で見つけた売れ残りだ。僕は、以前指輪を失くし、それを見つけてくれたアゲハに泣いて感謝する青年のことが妙に記憶に残っていた。大の大人が大泣きしてまで取り戻したかったもの。お祭りのお手伝いでもらったお駄賃だけじゃ足りなかったみたいだけど、身振り手振りで粘りに粘って値切ってなんとか買うことができた。



「……私にくれるの? どうして?」



 感謝してるから。好きだから。結婚してほしいから。添える言葉はいくらでも思い浮かんだ。でも何故だろう、そのどれも言えなかった。僕は黙ってアゲハを見つめ続けた。

 アゲハはぐっと口を噤み、少し迷ってから僕の手から指輪をつまみ上げる。そしてそれを左手の何処かの指に合わせようとして――笑った。でも僕は笑えなかった。

 小さいと思った指輪は、それでも彼女の指には大きかったから。

 ごめん、と謝る僕にアゲハはかぶりを振る。そして今度は彼女のほうから手を差し伸べてきたかと思うと――僕のローブの襟元から何かをかすめ取った。それは夜闇に溶けてしまいそうな一本の黒い糸。彼女はその糸を指輪に通し、首に下げた。

 アゲハが優しく指輪に触れると、指輪が淡く光った。



「私の魔力を込めた。これで絶対に失くさない。一生、大事にする。……返さないから」



 そんな殺し文句の背後で、櫓やぐらが崩れ、火花が舞った。さらに町人の誰かが撒いたのか、知らないうちに飛花が僕らの周りをふわふわと漂っていた。火花と飛花に彩られたアゲハの笑顔はまるで輝いているみたいで、僕はまた言葉もなく見惚れるばかりだった。



 僕らはやがて目的の地にたどり着き、そして旅は終わる。

 魔物を率い、異世界に災厄をもたらすという『禍王』。

 そいつは古い廃城にいた。いや、もっと正確に言えば廃城に寄生していた。

 廃城の隅から隅まで満たすほどの体積を持った魔物――僕らの世界では〝スライム〟と呼ばれるモンスターが近いと思う。それが廃城全体に寄生し、卵を産み、延々と魔物を作り続けていた。『禍王』の正体は異世界にいるすべての魔物の苗床だった。



「『禍王』には、触れるものから生命力を吸い上げる習性がある。今こうしている間にも『禍王』は大地から生命力を吸収し続けている。だから」



 廃城の前に立ったアゲハは高々と右手を掲げる。すると唸り声のような地響きが鳴り、廃城が風船のように浮かび上がり始める――それに巣食う『禍王』とともに。



「浮かせて、弱体化させる」



 浮遊する廃城の周りを、自分たちの領域を侵されたと思ったのかドラゴンたちが回り始める。だが彼らが警戒する必要はない。アゲハが掲げた手を握ると、廃城はその中の『禍王』ごと潰れ、凹み、何処までも縮んでいき――やがては塵も残さず消失した。



「これが『禍王』の倒し方」



 感慨にふける間もない。突然僕らの身体を淡い光が包み始めた。



「え。な、何これ?」



「戻るんだよ、元の世界に。私たちは役目を果たしたから」



 わかってはいたけれど、ひどく名残惜しかった。アゲハとの冒険が楽しすぎて、旅が終わるのがすごく寂しかった。でも僕は土壇場で気付いた。アゲハがなんだか泣きそうな顔をしていたこと。下から見上げているからこそよくわかった。僕らは同じ気持ちなんだ。

 僕らはどちらからともなく手をつなぐ。不意に甘い香りが鼻をかすめた。見るといつの間にか足許に飛花がいくつも咲いていた。アゲハが身を屈め、花びらを一枚ちぎり取った。

 瞬間、僕らの身体を包む光が輝きを増し――そして僕らは元の世界へと帰っていった。




     3



 異世界での冒険を通して、僕らは確実に仲を深めた――けれど。

 僕らは『禍王』を倒すまで半年近くかかった。時間の流れが違うせいで元の世界に戻ると数日しか経過していなかった。でもその数日の間、僕らは行方不明とされていた。

 行方不明の間に何があったのか、帰ってきた僕らは大人たちに上手に説明することができなかった。黙ることしかできなかった。双方の親は僕らの沈黙を良くない方向に解釈して――それからはお互いの子どもが極力接触しないよう、手を回した。

 その上――異世界から戻れば、異世界で培った記憶は徐々に薄れていく。

 かつてアゲハが忘れ、そうとは知らずに自分の英雄譚を読みふけっていたように。

 僕らは忘れ、疎遠になった。アゲハはまたひとりで読書にふけるようになった。

 僕はあのお気に入りの植物図鑑を失くして以来、図鑑の類を見ることはなくなった。



 僕とアゲハはそれぞれ別の中学校に入った。……正直この頃のことはよく憶えていない。

 彼女の言葉を借りれば、ただただ〝物足りなかった〟ということだけ記憶に残っている。



 中学を卒業する頃になると、さすがに親たちも油断したらしい。

 僕とアゲハはたまたま同じ高校に入学して――たまたま同じクラスになった。

 けれど僕らは以前のような関係には戻れなかった。

 僕は一番後ろの窓側の席で、アゲハは一番前の廊下側の席。教室の中で最も離れた席同士。その距離が深く大きな崖のように立ちはだかって越えられない。同じクラスになってひとつ季節が過ぎても、僕らは挨拶ひとつ交わすことができなかった。

 ただし……一日一回、ほんの一瞬だけ、必ず、目は合った。



 高一、十六歳の夏。連日猛暑が続いていた中、何の不幸か僕らのクラスだけクーラーが故障し、それでも授業は義務的に行われ、誰も彼もが朦朧もうろうとした意識で過ごしていた午後。

 クラスの中で真っ先に異変に気付いたのは僕だった。



「……?」



 たぶん、最後列の席にいたから気付けたのだと思う。天井に黒い染みのようなものが張り付いていた。それは不気味に蠢うごめき、少しずつ、少しずつ膨らんでいるように見えた。最初はピンポン玉くらいの大きさだったのが、いつしかドッジボールくらいになっていて。

 その蠢うごめく染みが、アゲハの真上の天井に張り付いているのだと気付いたとき――

 ライラックのような甘い香りが僕の鼻孔をくすぐった。

 僕は椅子を蹴り倒して走り出していた。身体をぶつけながら机と机の間を駆け抜ける。クラスメイトたちの困惑の声。誰かが僕の名前を呼んだ。最前列のアゲハが振り返る。目が合う。彼女の身体を抱き締め、引っこ抜くかのように席から引っ張り出した――刹那。

 アゲハの席の机が爆発した。破片が飛び散り、周りの席のクラスメイトたちが悲鳴をあげて倒れ込んだ。僕はアゲハをかばって背中で破片を受けた。奔る激痛。叫ぶ。



「爆弾だ!」



 咄嗟の嘘っぱちだったけど効果はあった。「教室の外へ――」と教師が慌てて誘導すると、クラスメイトたちが一斉に教室の出入口に殺到した。



「大丈夫かアゲハ!? 怪我はないっ?」



 身体を離しながら訊く。アゲハは何処かきょとんとした顔で頷いた。

 僕は――こんな状況にもかかわらず見惚れてしまった。ぼやけていた異世界での記憶が鮮明に蘇る。四年ぶりに間近で見るアゲハの顔。その四年分、彼女は確実に成長していて、異世界で一緒に冒険した女性とよく似た顔がそこにあった。

 その束の間、扉の閉まる音がつんざく。次いで薄暗くなる室内――見れば教室と廊下をつなぐふたつの引き戸が閉じ、すべての窓が黒い幕に覆われていた。蛍光灯が点いていなければ真っ暗になっていただろう。教室には僕とアゲハだけが取り残されていた。

 そして――アゲハの机の残骸の上で例の黒い染みがのたうっている。不定形に蠢動しゆんどうしていたそれは次第に形を成し始める。四足歩行の獣の形。僕はアゲハをかばいつつ後退した。



「アゲハ。ひょっとしてあれって」



「うん。たぶん――異世界の魔物だよ」



「なんでそんなのがここに……」



「わからない。でも私たちが異世界に行けるんだったら、向こうからこっちの世界に来ることだってできるのかもしれない。……それより」



「それより?」



 背後から首に腕を回され、ぎゅっと強く抱き締められた。



「ハルタだ。ハルタだよ」



「ア、アゲハっ? 僕もすんごく嬉しいんだけど今はそんな場合じゃ――」



「それは今すぐ終わらせる」



 アゲハは後ろから僕を抱き締めたまま、獣の形を取り、今にもこちらに襲いかからんとしている黒い染みに向かって右手を差し伸べる。その手が――ぎゅっと握られた。

 黒い染みが内側から爆ぜるように破裂し、霧散した。教室の窓を覆っていた黒い幕もどろりと剥がれ落ちて消え、薄暗かった室内が眩しいほどの明るさを取り戻した。



「…………え?」



「実はさ、ほんのちょっとだけ異世界の魔法が使えるの。こっちの世界に帰ってきた日から。異世界で使っていたときみたいに何でもはできないけど」



「そ、そうなんだ?」



 頭が追いつかない。と、そこで背中に激痛が走って僕はうめいた。今さらアゲハをかばって怪我をしていたことを思い出す。アゲハが慌てて僕から離れた。



「ごめん! 今治すね!」



 治癒の魔法を施してくれたのだろう。痛みが和らいでいくのを感じた。

 僕の呼吸も落ち着いていく。でも僕はすぐに振り向けなかった。



「……ハルタ? こっちを見て。お顔、見せて」



 恐る恐る身体を向ける。目に涙をためてはにかむアゲハを見て、僕は震える息を吐いた。



「アゲハ――やっと会えた」



「やっと会えたね――ハルタ」



 僕らは子どもだった。こんな異常なきっかけがないと向き合えないくらいに。

 アゲハがスカートのポケットから何か取り出した。一冊の文庫本。ライラックの花が刺繍されたブックカバーを見たとき、僕はなんだか無性に泣きたくなった。



「読む? 新シリーズだよ」



「……新シリーズ? 新刊、じゃなくて?」



「新シリーズ、だよ。私とあなたの冒険が書かれた」



 かつてアゲハの活躍が本になっていたように、僕らの冒険も本になっていたらしい。

 本を受け取ったとき、不自然な膨らみに気が付いた。本に何か挟まっている。開くと栞と指輪が一緒に入っていた。栞はライラックにとてもよく似た、紫色の飛花を押し花にした物。そして指輪は僕が異世界でアゲハにプレゼントした、飛花の絵が彫られた物――

 この四年でアゲハは確実に大人に近付いた。

 そして僕もこの四年で大人に近付いたから、言える。あのとき言えなかった言葉。



「好きだ。小三のときからずっと好きだった。結婚しよう、アゲハ」




 僕らの異世界での冒険を描いた新シリーズ『最強魔法使いの世直しぼっちじゃない旅』は、やっぱり主人公が露出過多な格好になっていて、案の定、僕は一巻で挫折した。ちなみに作中の僕は主人公の従者として登場するらしい。最後にふたりはどうなるのか訊ねたが「ネタばれはダメ」と教えてくれなかった。そう言う彼女の顔は何故か赤らんでいた。




     4



 十六歳。付き合い始めてすぐ、僕はあの植物図鑑をネットの中古本サイトで買い直した。

 十七歳、高二。僕らは初めて身体を重ねた。

 十八歳、高校卒業後。アゲハは大学に進学し、僕は就職した。同時期に同棲も始めた。

 二十歳。アゲハの妊娠が発覚。アゲハは大学を休学し、僕はアゲハの親にぶん殴られた。入籍はその翌日。結婚式については出産後、落ち着いてからまた話し合うことに決めた。

 二十一歳、妊娠八か月。それは記録的な嵐が僕らの町を襲った日だった。僕が仕事に出ている間、自宅にいたはずのアゲハはどうしてか外出し、九年ぶりに氾濫した川に飲み込まれた。嵐の過酷さを伝えるためだろう、ニュース番組に投稿されたドライブレコーダーの撮影動画の中に、身重のアゲハが濁流に連れ去られる様子が偶然映っていた。

 アゲハは帰らぬ人となった。



 僕はほとんど死んだように日々を過ごした。アゲハと暮らした部屋にこもり続け、喪服のスーツも脱がず、仕事も休み、風呂にも入らず、床の上にただただ横になった。

 無気力に時間をやり過ごすだけだった。だから――発見が遅れた。

 床の上で寝返りを打った拍子にテーブルに足がぶつかり、テーブルの上から目の前に何かが転がり落ちてきた。それは黒い糸が通され、花びらの絵が彫られたあの指輪だった。

 …………アゲハがいつも肌身離さず首から下げていた指輪が、何故ここにある?

 僕は弾かれたように起き上がり、部屋の中を見回す。目についたのはテーブルの上に置かれた本……ライラックの刺繍がされたブックカバー。何かに導かれるようにその本を開いた。押し花の栞が挟まっていた。押し花にされているのはライラックに似た異世界の花。その花びらは何年か前に見たときは紫色だったはずだが、今は黒く濁っていて――

 僕は指輪と本と栞を持って部屋を飛び出した。時刻は深夜。屋外に人の姿はない。僕は夜道をひた走る。ある予感が僕を貫いていた。

 ――――アゲハは異世界に〝招かれた〟のではないか?

 近頃は異世界の記憶がいよいよ希薄になっていた。あの冒険は本当にあった出来事だったのかと疑ってしまうほどに。例えばそう、あれは当時川の氾濫に飲まれて死にかけて、意識が混濁していたときにたまたま見た夢なんじゃないか、と。でもそうじゃない。僕とアゲハは同じ体験を認識していた。それだけじゃなく、高校生のとき、僕らは誰もが目撃する形で異世界の魔物に襲われた。僕らが異世界でした冒険は絶対に幻じゃない――

 僕は肩で息をしながら、アゲハを呑み込んだ川の前で立ち止まった。憎き川は夜闇の中でどす黒く横たわっている。ほんの一週間前、暴れていたのが嘘だったみたいに穏やかに。

 僕は考える。高校生のとき、教室に現れた魔物。あれは何のために僕らの世界にやって来たのか。あの魔物は真っ先にアゲハに襲いかかってきた。つまりアゲハが狙いで異世界から送り込まれた? そして――アゲハは今回〝誰〟に〝招かれた〟?

 僕は川に向かって叫ぶ。



「異世界! 僕を連れていけ!」



 もしもアゲハの身に何か危機が訪れているのだとしたら、僕は行かねばならない。



「アゲハは二回もそっちの世界を救った! なら、いいだろ! 僕みたいなオマケだって一度くらい連れていってくれても!」



 僕の声に呼応するように、静かだった川がにわかに騒ぎ出し、波打つ。黒い川の中に淡く光る花を見つけ、そしてライラックの香りが鼻を突いたとき、すべては確信に変わった。



「僕を――〝招け〟」



 僕は土手を駆け下りる。生き物のように隆起し始めるどす黒い川の中へと身を投じた。




     5



 異世界に〝招かれた〟者は異世界の言葉を理解することができ、その〝招き〟に適した肉体を得る――これが基本的なルールだったはずだ。加えてアゲハが言っていた。異世界にやって来た瞬間に、そこがどんな状況なのか、『禍王』がどれほど危険な存在なのか、そして自分に何ができるのか――そういった必要最低限の情報がすでに頭の中にあったと。

 気が付けば飛花の花畑の中に立っていた僕は、確認する。肉体は二十一歳のままで、服も着たきりだった喪服のまま。アゲハの魔法のような特別な力は自分の中に感じない。あれはやっぱり彼女自身の才能だったのだ。それに今回の僕は〝招かれた〟のではなく〝招かせた〟形だ。ここに来られただけでも御の字だろう……いや、来られただけじゃない。

 今の僕はたぶん、異世界の言葉がわかる。異世界の言葉がわかるということがわかる。

 わかることは他にもあった。この異世界は僕が前回来たときよりも数千年が経過していて、再び危機に陥っている。『禍王』が長い年月をかけて力を蓄え、復活していたのだ。

 そして『禍王』は今、この異世界にとって過去最悪の災厄と化している。

 その体内に無尽蔵の魔力の塊――アゲハを取り込んだことによって。

 アゲハは『禍王』に〝招かれ〟――今なお『禍王』の養分となって生かされている。

 彼女がさらわれたのは元の世界では一週間ほど前の出来事だったが、この世界では約一年前の出来事。もっと早く気付くべきだったが、後悔で立ち止まっている場合ではない。

 僕の手には僕の世界から持ち込んだ指輪と本と栞がある。これは推測だが、アゲハは『禍王』の再復活を予見していたのではないか。だから再復活を知らせてくれるセンサーとして異世界の花を密かに持ち帰っていた――が、折あしく『禍王』に先手を打たれた。

 栞を挟んだ本をポケットにねじ込み、指輪を首に下げ、僕は行く。



 僕自身は『禍王』のような怪物と戦う術を持たない。けれどこの異世界に〝招かせた〟ことで唯一備わった能力がある。それは〝異世界の言葉がわかる〟というもの。

 異世界の言葉がわかる、というのは単純に異世界の人々と会話ができるという意味に留まらなかった。異世界に存在するすべての言葉が理解できる――つまりどんなに難解な魔法書でも解読することができるということでもあった。

 前回から数千年も経過した異世界は、人々の着る服や建築物が様変わりしていた。魔法は生活の基盤を支える手段として扱われ、魔法書が一般的に流通していた。僕は最初に立ち寄った町で販売されている魔法書を手に取り、それが難なく解読できることを知った。

 僕は魔法書を探す旅に出た。求めたのは広く流通している物ではなく、異世界の先人が遺した有力な魔法だ。火や風を自在に操る魔法、何か月も寝ず、飲まず食わずで過ごせる魔法、遠視、透視の魔法――アゲハが元々持っていたものを片っ端から集めていく旅。

 有力な魔法ほど獲得は困難を極めた。峻烈な雪山の奥に赴くこともあれば、魔物の巣に飛び込むこともあった。偏屈な魔法使いに、引き換えに自分の左眼球を差し出すことも。

 魔法書の蒐集と同じくらい、その修得にも時間を費やした。何年も歩き続け、また何年もこもり続けた。魔法の事故で右手は義手になり、異世界で流通している中でも特に効果の強い、肉体を強化する薬や魔力を増幅する薬を多用したせいで僕の髪は白く染まった。

 準備には実に十年を要した。十年かけて、これ以上ないほど入念に備えた。

 大量の食料と水、薬物その他を背嚢に詰め込み、僕は万全を期して『禍王』に挑んだ。



 アゲハの魔力を取り込んだ『禍王』は膨大に過ぎた。前回は廃城に寄生していたが、今回は国――異世界でも有数の大国を丸ごと呑み込み、超々巨大なスライムと化していた。

 その正体は魔物の苗床であり、工場だ。卵を産み、延々と魔物を作り続ける。アゲハの魔力を取り込んだことでその産卵の数と速度は凄まじいものとなり、『禍王』が寄生した大国の周辺一帯は魔物どもの群れで長大な壁ができるほどだった。

 僕はその壁を、魔法と薬物を駆使して削り、『禍王』の許を目指して進む。

 初日。不眠の魔法を使用。また、魔力増幅の薬を継続服用。ひたすらに魔物を殺す。

 七日目に食料が尽き、九日目に水が尽きた。飲まず食わずの魔法を使用。

 二十五日目。物量で押し込まれ、大きく後退。魔力回復の薬を大量に消費。

 二十六日目。前日の不覚を取り返すため、大規模な爆炎魔法を使用。前進。

 三十二日目。隙を突かれて負傷。治癒魔法と興奮剤で意識を保つ。前進。

 四十七日目。歩行中、左脚が不意に骨折。治癒魔法と興奮剤で意識を保つ。前進。

 五十日目。閉ざされた正門を前にして、僕は地に膝をついた。胃の奥から込み上げる感覚に襲われ、えずくも胃液すら出なかった。正門の周りにいた魔物どもは一掃したが、またすぐに新たな魔物どもで埋められるだろう。猶予は幾ばくもない。

 今や僕の魔力は枯れ、それを回復する薬は残り一回きり。震える手で丸薬を口の中に放り込み、奥歯で噛み砕く。使う魔法はふたつ――血を吐くような旅の中で手に入れた遠視と透視の魔法。魔法の同時使用は大きな反動を伴う。眼球が直接炙られているかのような激痛に軋むほど歯を食いしばり、瞼を大きく開いて〝視る〟。

 正門の内側は予想通り『禍王』の粘液で満たされていた。粘液は大国の全域に及び、あらゆる建築物を圧し潰して瓦礫と化し、夥しい数の人間の死体を浮かべている。

 この国の地理は頭に叩き込んであり、そしてある程度当たりもつけてある。僕は〝視〟続ける。城下町、繁華街、王城、その中央で朽ちかけつつも突き立つ尖塔――見つけた。

 僕はうめき、右目から涙を流した。枯れ果てたはずの身体でも、涙は出た。



「ああああ……」



 ここから遥か遠く、朽ちかけた尖塔の中で――ひとりの女性が粘液の海を漂っていた。

 眠るように閉ざされた瞳。赤みがかった髪。皺だらけの顔。ボロボロの貫頭衣から覗く皮膚はしなび、四肢が枯れ木のようにやせ細っている。ただし彼女の腹だけは染みひとつなく若々しい肌を保っていて――あまりに大きく膨れ上がっていた。



「君なら……そうするだろうと思ってた」



 そして僕は透視の魔法で知る。その腹の中で丸くなって眠る、少女の存在に。



「きっと守ってくれていると」



 アゲハは『禍王』に力を吸い取られながらも、ずっと守り続けていた。

 その腹の中で、我が子を。成長し続ける娘を。『禍王』の搾取が及ばぬようにと強力な魔法の膜を張って僕らの子どもを守り続けていた。自分のことを捨て置いてでも、だ。

 アゲハは母親としての役目を立派に果たした。ならば父親の僕もその役目を果たそう。

 食料も水もなくなって荷物はずいぶんと軽くなっていたが、背嚢の奥にはまだ丸薬が数十個残っている。魔力を回復する類でも増幅する類でもないそれをひとつ手に取り、僕は正門に走る亀裂から中へと投げ込んだ。またひとつ、もうひとつと続ける。



「……僕は魔法書を探すために異世界中を渡り歩いた」



 変化は七個目から生じた。唸り声のような地響きが鳴り出したのだ。



「その旅の中で、ある石碑を見つけた。大昔に異世界を救った英雄チヨチヨのことを祀った物だった。古くからある石碑らしく細かな文字は風化して読めなかったけれど、その土地の人間には大事にされているみたいだった。きれいに磨かれ、飛花が供えられていた」



 八個目、九個目。正門がひび割れ、崩れ落ちる。大地が猛烈に震え始める。



「飛花が供えられた石碑はほんの少しだけ浮いていた」



 十個目。鼓膜を叩き割るような轟音をあげ、『禍王』が大国の土地ごと浮上を始める。



「それから僕は、魔法書の蒐集と並行して異世界中の飛花をかき集めた。何千何万という飛花を煎じて、魔法で圧縮して、この丸薬をいくつも作った」



 手が届かない高さになる前に、残る丸薬を背嚢ごと『禍王』の中に放り込んだ。

 地上から切り離された『禍王』はいよいよ高度を上げていく。

 すると自分たちの領域そらを侵されたことを察してか、何処からかやって来たドラゴンたちが『禍王』の周りを飛び回り始めた。異世界の竜たち。彼らは死ぬまで飛行を続ける生物として知られている。彼らは死ぬと、墜ち、土に還る。そして――飛花を咲かせる。飛花とはドラゴンの死骸を養分として生まれ、育つ植物なのだ。



「『禍王』。僕はお前の倒し方を知っている。アゲハが前に教えてくれた」



 ドラゴンの花が持つ魔力により強制的に浮遊させられたことで、『禍王』は大地から生命力を吸い上げることはできなくなった。あとは奴の最後にして最大の供給源を絶つだけ。

 僕は胸元に左手を当てる。そこには例の指輪が下げてある。……僕は憶えている。

 ――――『私の魔力を込めた。これで絶対に失くさない』

 僕は指輪を握り、魔力を込める。僕の生命力を還元した魔力を。瞬く間に枯れ果てていく左手で黒い糸を引き千切り、指輪を投げ放った。指輪は、アゲハの魔力によって元の主の許を目指し、僕の魔力によって『禍王』の体液を光の如き速さで貫いていく。



「後は任せたよ、アゲハ。そしてまだ名前のない僕らの子ども」



 僕は知っている――透視の魔法でついさっき知った。僕らの娘がアゲハの才能を余すことなく継承し、さらにはそれを凌駕せんとする力を秘めていることを。



「お母さんを、手伝ってあげて」



 僕は焼ける右目で最期に〝視る〟――光の矢と化した指輪が尖塔に突き刺さり、アゲハたちの許へと届いたのを。その瞬間に僕の魔力が弾け、アゲハたちを取り囲んでいた粘液を一滴残らず払い除けたのを。十一年ぶりに粘液から解放された直後、アゲハの閉じていた瞼が大きく開いたのを。その母を追うようにアゲハのお腹が目映く光り始めたのを。

 輝きは闇を押し退けるように爆発的な広がりを見せて。

 瞬く間に『禍王』を、僕を、世界を包み込み――そこで僕の意識は終わった。




     6



 小六の夏、転校生が僕らのクラスにやって来た。

 彼女はよくわからない子だった。休み時間は誰ともつるまずに読書に勤しみ、本の内容に熱中してか周囲もはばからずゲラゲラと笑い、時にはグスグスと泣く。そのくせ喋るのが苦手なのか、話しかけてもほとんど会話にならない。クラスメイトとの距離は開くばかりだったけれど、彼女自身はそれを気にしたふうもなく飄々としていた。

 彼女は本にいつも同じカバーをかけていた。紫の花が刺繍された、布製のブックカバー。

 時々、ずいぶんと古い植物図鑑を楽しそうに広げていることもあった。

 たまたま同じ出版社の動物図鑑を持っていた僕は、彼女のことが気になって仕方がなくて──目が離せなかった。



 その日は授業参観だった。帰りの会の後の玄関にはたくさんの親子が集まっていて、僕はその中でトイレに行った親をひとり突っ立って待っていた。そしていつものように何とはなしに見ていた。玄関の手前の廊下で祖母らしき女性と話す、転校生を。



「あの子が気になるのかい?」



 びっくりした。振り返ると、いつの間にか知らないおじいちゃんが横に立っていた。



「ずいぶん熱心にあの子のほうを見ていたからさ。違ったらごめんよ」



「……ち、ちがわない、です」



 何故か、思わず否定してしまった。おじいちゃんは「そうか」と目を細める。



「なら、ぜひ友だちになってやってくれ。あの子はまだ友だちの作り方を知らないから。……でもそうだな、付き合うとなったら話は別だ。悪いがそう簡単にはやれない」



 僕が何も言えないでいると、当の彼女がこちらに向かって手を振ってきた。



「おとうさん――」



 おとうさん、と呼ばれたおじいちゃんは、僕のほうを振り返って、子どもみたいに笑う。



「僕らはまだ始まったばかりだから」