2021-6-26 15:37 /
1、弾ける水の音。
とめどない笑声。
やんわりと流れる時間を思わせて、優しい。
優しい世界の一場面。
日記に書こうと思った。
この気持ちを、忘れないよう。
俺はずっと、二人の少女が戯れる様子を眺めていた。
2、フェンスから外界を見渡している。
既視感が、俺の意識を過去昔へと連れ去った。
夏も終わりかけていた。
蝉たちも一際うるさかった。
叩きつけるような鳴き声。
最後の命を振り絞っていると知れる。
命の残滓に彩られる夏。
霧は屋上にいた。
一人だ。
泣いていた。
背後からでも、肩の震えを見ればわかる。
[太一]「霧……」
[霧]「……黒須……先輩?」
涙を隠すこともなく。
[霧]「豊……豊が……ここから落ちて……」
[太一]「ああ……」
知っていた。
知らない者はいなかった。
この街には。
世間一般では、学生が一人飛び降り自殺をすれば、それなりに話題になる。
保護者は学校を問いつめ、誰が悪いのか、白日のもとにさらそうとする。
学校も責任を回避しようとする。
群青ではそれがない。
世間の誰も問いつめてはこないし、学校も逃げない。
何人かの人間が責任を取った。
世間は群青の危険な少年少女たちのことなど、どうでも良かった。
悲しむ者は、わずか。
[霧]「誰も……誰も……悲しまない……わたしたちがどういう気持ちで……生きてきたのか……誰もっ」
珍しく興奮していた。
豊の死から、すでに一週間が経過していた。
霧の悲嘆は遅れてきていた。
[太一]「なあ霧……豊は、幸せだったのかな」
[太一]「あいつはあいつなりに、幸せだったのかな?」
ありがちな問いかけ。
けど。
意味はまったく逆だった。
[霧]「……ずっと、つらい思いをしてきたんです」
[太一]「本当にずっとつらかった?」
[太一]「一瞬でも、幸せな時間はなかった?」
[霧]「それは……」
あったに違いない。
[霧]「……先輩と友達になってからは……笑うように……」
[霧]「けど全然取り戻してないっ」
語調が強まる。
[霧]「受けた苦しみを、ちっとも取り戻してないっ」
[太一]「じゃあ霧ちんは、豊の人生が取るに足らないものだったと思ってるわけか」
[霧]「そうじゃ……ないですけど……」
[太一]「……と言ってはみたものの、悲しいのは理屈じゃないものな」
俺も迷っていた。
霧の処遇に。
[太一]「泣けばいいさ」
空を見あげる。
視界を埋めた純白が、巨大な入道雲と理解できるまでの刹那。
[太一]「せめて夏が終わる前に」
蝉たちの最期とともに。
万感こもごも含んだ意味に、霧には聞こえたのだろう。
[霧]「……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
目を伏せ、俺のシャツの裾を掴んで、声を張り上げた。
[霧]「ゆたにぃが……死んじゃった……死んで……」
嗚咽。
[太一]「…………」
ゆたにぃ。
大好きな、お兄ちゃんだったわけだ。
片足でも立派に生きて。
霧の両親―――
豊の葬式で見た二人の顔には、軽い安堵があった。
霧はそのことに気づいているのか。
おそらく、悟っているに違いなかった。
いろんなつらい目に遭っても、二人で支え合ってきたんだろう。
いわば半身だ。
霧は半分なのだ。
俺と同様に……。
ただ霧は、望んでそうなった。
今は強い感情が気力を剥奪している。
が、いずれ悲しみが薄れれば、あるべきはずのもう半分を求めるだろう。
豊と霧。
一心同体だった二人。
霧に罪はない。
けど俺は……俺の怪物は、身じろぎしてしまった。
[太一]「霧……」
背中に手をまわす。
激情が索敵を甘くして、霧は気づかない。
[霧]「ううう……うぁぁぁぁ……」
少しずつ、情緒は沈静化していく。
その頃には、俺はすっかり霧を抱きしめていた。
[太一]「霧……寂しい?」
[霧]「……?」
[太一]「寂しい、よな」
[霧]「……黒須先輩?」
[太一]「俺は虚しいんだ。とてもね」
見下ろせば小さな面差し。
深みをたたえた黒曜石がふたつ、表面を薄い塩水で濡らす。
[太一]「豊は幸せだったと思うよ。霧もいたし、イヤなことは忘れてたし」
[太一]「最期まで、幸せだったって、俺は思ってる」
顔を近づける。
3、人は群れる。
群れることを渇望する。
そして同時に、聖域を持とうとする。
侵害されない自分のための場所を欲する。
しかし人と接すれば境界線は揺らぐ。
領土は減ったり増えたりする。
不快。
矛盾。
一般的な価値観では、豪壮なる千の軍隊より、一人の英雄が好まれる。
単一の絶対者。英雄。
人の望むもの。
憧れという形をとった、願望に過ぎない。
一人で生きたいのか、群れて生きたいのか。
閑話休題。
図書室では、彼女の読んだ本を追って読んだ。
憧れから。
あるいは少女の完璧さへの嫉妬から。
書物の内容は高度過ぎてほとんどわからなかった。
けど読み続けた。
図書室では何百回となく出会い、すれ違った。
一度の会話もない空間を、俺たちは共有し続けた。
4、
[太一]「よく晴れた日だったよ」
[太一]「おまえが見たとおり、あの時の屋上ですべて話した」
[霧]「……う……」
[太一]「あいつは言った。どうすれば許してくれるって?」
[太一]「許すも許さないもない。犯した罪は永遠にそのままだ。触れることなんてできない。変質させることもだ。俺もそこを責める気はなかった」
[太一]「……ただ、一つ疑問があってさ」
[太一]「問いかけたんだ」
[太一]「なあ、ひとつ質問なんだけど……どうして今すぐにでも死なないんだ?」
[太一]「……って」
[霧]「ああぁ……」
[太一]「そしたら……あいつ本当に自殺しちゃったんだ」
霧は崩れ落ちた。
その脇にしゃがみ込む。
俺の顔には、憫笑が刻まれている。
[太一]「いずれにせよ、真実は一つだけさ」
あと一押しで、砕ける。
知っているのに、俺は。
耳元に囁く。
本物の刃物を突き立てるために。
[太一]「おまえの兄さんは薄汚い最低のレイプ猿だ」
[霧]「……………………」
プツン、と。
霧の内部で糸が切れるのがわかった。
5、
人は大切だろう。
家族や友人は大切だろう。
自分が人である限り。
[太一]「……全員、健康状態は良好です」
人でなくてもいいのなら、孤独という生き方もある。
でも俺は人が良かった。
本能じゃなくて、理性の怪物になりたかった。
そうすれば、もっと完璧に無害なものになれたはずなのに。
足りなかった。
接触が。触れあいが。
[太一]「ええと……」
家族は。
……いない。
箱庭の楽園で、空気みたいに薄い人々との交友。
……顔さえ忘れそうだ。
曜子ちゃんとの出会い。
……彼女は俺を他人とは見ない。
新川の人々。
……人間が敵だということを学ばされた。
幼少期の、もっとも多感な時期、俺は人に触れなかった。
[太一]「昔、俺は罪を犯しました」
リン、と鈴が鳴った。
六対の視線が集まる。
[太一]「友達を、死なせてしまいました」
[桜庭]「……太一?」
[太一]「直接手を下したわけじゃないけど……結果的に死なせました」
[太一]「その友達は昔、俺を傷つけた人間の一人で」
[太一]「記憶を失って、俺の前にあらわれました」
[太一]「記憶とともに罪も消えてしまったかのように、振る舞って」
[太一]「最初は俺も気づかなかったんです。何年も前のできごとだったんで」
空気が変わる。
六人の人間の、不安や疑問が渦巻く。
じき、落ち着くだろう。
つらい空気になるかも知れないが。
[太一]「けどある時、はずみで気づきました」
[太一]「実際、そいつに受けた傷なんて、今の俺には全然たいしたものじゃないはずでした」
[太一]「不肖黒須太一、酸いも甘いも噛み分けたヤングアダルトを目指しております」
[太一]「けど」
霧が身じろぎした。
口元に手を当てた。
[太一]「けど俺は、どうしてもそいつを友達として見ることが、できなくなりました」
[霧]「……う……」
[美希]「霧……?」
[太一]「ものみたいに、見てしまうようになりました」
[太一]「許せない、という感情論とは違うと思うんですが」
[太一]「俺の中で、そいつの価値が変わってしまったのは確かです」
[太一]「いや……変わったなんてものじゃない……無価値になったんです」
[太一]「興味が失せたんです」
[太一]「そいつが自分の記憶を取り戻した時、許してくれと言いました」
[太一]「もしかしたら……許してくれなんて言わなければ、結果は違ったのかも知れません」
[霧]「……!」
[太一]「どうやったって、過去は改ざんできないからです」
[太一]「罪は受け入れるか敵視するか、それだけだと思います」
[太一]「……そいつの罪自体は……別に、たいしたことじゃありませんでした」
[太一]「いつもみたいに冗談で流して、友達づきあいしていけばよかったんです」
[霧]「……せん、ぱい……」
涙。
涙か。
それもまた、俺にはないものだ。
[太一]「どうしてその時、気にするなよ、って言ってやれなかったのか……自分でもよく考えます」
とめどない笑声。
やんわりと流れる時間を思わせて、優しい。
優しい世界の一場面。
日記に書こうと思った。
この気持ちを、忘れないよう。
俺はずっと、二人の少女が戯れる様子を眺めていた。
2、フェンスから外界を見渡している。
既視感が、俺の意識を過去昔へと連れ去った。
夏も終わりかけていた。
蝉たちも一際うるさかった。
叩きつけるような鳴き声。
最後の命を振り絞っていると知れる。
命の残滓に彩られる夏。
霧は屋上にいた。
一人だ。
泣いていた。
背後からでも、肩の震えを見ればわかる。
[太一]「霧……」
[霧]「……黒須……先輩?」
涙を隠すこともなく。
[霧]「豊……豊が……ここから落ちて……」
[太一]「ああ……」
知っていた。
知らない者はいなかった。
この街には。
世間一般では、学生が一人飛び降り自殺をすれば、それなりに話題になる。
保護者は学校を問いつめ、誰が悪いのか、白日のもとにさらそうとする。
学校も責任を回避しようとする。
群青ではそれがない。
世間の誰も問いつめてはこないし、学校も逃げない。
何人かの人間が責任を取った。
世間は群青の危険な少年少女たちのことなど、どうでも良かった。
悲しむ者は、わずか。
[霧]「誰も……誰も……悲しまない……わたしたちがどういう気持ちで……生きてきたのか……誰もっ」
珍しく興奮していた。
豊の死から、すでに一週間が経過していた。
霧の悲嘆は遅れてきていた。
[太一]「なあ霧……豊は、幸せだったのかな」
[太一]「あいつはあいつなりに、幸せだったのかな?」
ありがちな問いかけ。
けど。
意味はまったく逆だった。
[霧]「……ずっと、つらい思いをしてきたんです」
[太一]「本当にずっとつらかった?」
[太一]「一瞬でも、幸せな時間はなかった?」
[霧]「それは……」
あったに違いない。
[霧]「……先輩と友達になってからは……笑うように……」
[霧]「けど全然取り戻してないっ」
語調が強まる。
[霧]「受けた苦しみを、ちっとも取り戻してないっ」
[太一]「じゃあ霧ちんは、豊の人生が取るに足らないものだったと思ってるわけか」
[霧]「そうじゃ……ないですけど……」
[太一]「……と言ってはみたものの、悲しいのは理屈じゃないものな」
俺も迷っていた。
霧の処遇に。
[太一]「泣けばいいさ」
空を見あげる。
視界を埋めた純白が、巨大な入道雲と理解できるまでの刹那。
[太一]「せめて夏が終わる前に」
蝉たちの最期とともに。
万感こもごも含んだ意味に、霧には聞こえたのだろう。
[霧]「……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
目を伏せ、俺のシャツの裾を掴んで、声を張り上げた。
[霧]「ゆたにぃが……死んじゃった……死んで……」
嗚咽。
[太一]「…………」
ゆたにぃ。
大好きな、お兄ちゃんだったわけだ。
片足でも立派に生きて。
霧の両親―――
豊の葬式で見た二人の顔には、軽い安堵があった。
霧はそのことに気づいているのか。
おそらく、悟っているに違いなかった。
いろんなつらい目に遭っても、二人で支え合ってきたんだろう。
いわば半身だ。
霧は半分なのだ。
俺と同様に……。
ただ霧は、望んでそうなった。
今は強い感情が気力を剥奪している。
が、いずれ悲しみが薄れれば、あるべきはずのもう半分を求めるだろう。
豊と霧。
一心同体だった二人。
霧に罪はない。
けど俺は……俺の怪物は、身じろぎしてしまった。
[太一]「霧……」
背中に手をまわす。
激情が索敵を甘くして、霧は気づかない。
[霧]「ううう……うぁぁぁぁ……」
少しずつ、情緒は沈静化していく。
その頃には、俺はすっかり霧を抱きしめていた。
[太一]「霧……寂しい?」
[霧]「……?」
[太一]「寂しい、よな」
[霧]「……黒須先輩?」
[太一]「俺は虚しいんだ。とてもね」
見下ろせば小さな面差し。
深みをたたえた黒曜石がふたつ、表面を薄い塩水で濡らす。
[太一]「豊は幸せだったと思うよ。霧もいたし、イヤなことは忘れてたし」
[太一]「最期まで、幸せだったって、俺は思ってる」
顔を近づける。
3、人は群れる。
群れることを渇望する。
そして同時に、聖域を持とうとする。
侵害されない自分のための場所を欲する。
しかし人と接すれば境界線は揺らぐ。
領土は減ったり増えたりする。
不快。
矛盾。
一般的な価値観では、豪壮なる千の軍隊より、一人の英雄が好まれる。
単一の絶対者。英雄。
人の望むもの。
憧れという形をとった、願望に過ぎない。
一人で生きたいのか、群れて生きたいのか。
閑話休題。
図書室では、彼女の読んだ本を追って読んだ。
憧れから。
あるいは少女の完璧さへの嫉妬から。
書物の内容は高度過ぎてほとんどわからなかった。
けど読み続けた。
図書室では何百回となく出会い、すれ違った。
一度の会話もない空間を、俺たちは共有し続けた。
4、
[太一]「よく晴れた日だったよ」
[太一]「おまえが見たとおり、あの時の屋上ですべて話した」
[霧]「……う……」
[太一]「あいつは言った。どうすれば許してくれるって?」
[太一]「許すも許さないもない。犯した罪は永遠にそのままだ。触れることなんてできない。変質させることもだ。俺もそこを責める気はなかった」
[太一]「……ただ、一つ疑問があってさ」
[太一]「問いかけたんだ」
[太一]「なあ、ひとつ質問なんだけど……どうして今すぐにでも死なないんだ?」
[太一]「……って」
[霧]「ああぁ……」
[太一]「そしたら……あいつ本当に自殺しちゃったんだ」
霧は崩れ落ちた。
その脇にしゃがみ込む。
俺の顔には、憫笑が刻まれている。
[太一]「いずれにせよ、真実は一つだけさ」
あと一押しで、砕ける。
知っているのに、俺は。
耳元に囁く。
本物の刃物を突き立てるために。
[太一]「おまえの兄さんは薄汚い最低のレイプ猿だ」
[霧]「……………………」
プツン、と。
霧の内部で糸が切れるのがわかった。
5、
人は大切だろう。
家族や友人は大切だろう。
自分が人である限り。
[太一]「……全員、健康状態は良好です」
人でなくてもいいのなら、孤独という生き方もある。
でも俺は人が良かった。
本能じゃなくて、理性の怪物になりたかった。
そうすれば、もっと完璧に無害なものになれたはずなのに。
足りなかった。
接触が。触れあいが。
[太一]「ええと……」
家族は。
……いない。
箱庭の楽園で、空気みたいに薄い人々との交友。
……顔さえ忘れそうだ。
曜子ちゃんとの出会い。
……彼女は俺を他人とは見ない。
新川の人々。
……人間が敵だということを学ばされた。
幼少期の、もっとも多感な時期、俺は人に触れなかった。
[太一]「昔、俺は罪を犯しました」
リン、と鈴が鳴った。
六対の視線が集まる。
[太一]「友達を、死なせてしまいました」
[桜庭]「……太一?」
[太一]「直接手を下したわけじゃないけど……結果的に死なせました」
[太一]「その友達は昔、俺を傷つけた人間の一人で」
[太一]「記憶を失って、俺の前にあらわれました」
[太一]「記憶とともに罪も消えてしまったかのように、振る舞って」
[太一]「最初は俺も気づかなかったんです。何年も前のできごとだったんで」
空気が変わる。
六人の人間の、不安や疑問が渦巻く。
じき、落ち着くだろう。
つらい空気になるかも知れないが。
[太一]「けどある時、はずみで気づきました」
[太一]「実際、そいつに受けた傷なんて、今の俺には全然たいしたものじゃないはずでした」
[太一]「不肖黒須太一、酸いも甘いも噛み分けたヤングアダルトを目指しております」
[太一]「けど」
霧が身じろぎした。
口元に手を当てた。
[太一]「けど俺は、どうしてもそいつを友達として見ることが、できなくなりました」
[霧]「……う……」
[美希]「霧……?」
[太一]「ものみたいに、見てしまうようになりました」
[太一]「許せない、という感情論とは違うと思うんですが」
[太一]「俺の中で、そいつの価値が変わってしまったのは確かです」
[太一]「いや……変わったなんてものじゃない……無価値になったんです」
[太一]「興味が失せたんです」
[太一]「そいつが自分の記憶を取り戻した時、許してくれと言いました」
[太一]「もしかしたら……許してくれなんて言わなければ、結果は違ったのかも知れません」
[霧]「……!」
[太一]「どうやったって、過去は改ざんできないからです」
[太一]「罪は受け入れるか敵視するか、それだけだと思います」
[太一]「……そいつの罪自体は……別に、たいしたことじゃありませんでした」
[太一]「いつもみたいに冗談で流して、友達づきあいしていけばよかったんです」
[霧]「……せん、ぱい……」
涙。
涙か。
それもまた、俺にはないものだ。
[太一]「どうしてその時、気にするなよ、って言ってやれなかったのか……自分でもよく考えます」