2018-9-28 08:16 /
うつむいた視界の中を無数の脚が通り抜けていく。
大半はこの一年で常に見かけた、歩き方からしてくたびれた様子の人々だ。それでも今日は休日ということもあり、普段よりは少ない方かもしれない。他にもショッピングバッグ片手の女性、子連れの夫婦、視野を横切っていくのに時間がかかる老人など様々だった。
季節柄それに加え、旅立ちや出会いを控えた学生服。
しかし俺が望んでいる姿ではない以上、どれも大衆に過ぎないことに変わりはない。
ここに立ち尽くしてからどれくらいの時間が立っただろうか。
ざわついた声と構内アナウンス混じりの雑音は意味なき情報として耳が受け流している。しばらく鼻腔をくすぐっていた小麦の香りにもいつのまに慣れたのか、既に感じられなくなっていた。
何者でもない脚が目の前を過ぎゆくのを、頭を垂れたままただひたすら眺め続けている。
そんな意識をふいに引き戻したのは、もぞもぞと大げさに鞄を揺らしながら俺を呼ぶ声だった。
 
「アキラ。……アキラ!」
「ん……、ああ、ごめんモルガナ。どうした?」
「どうしたじゃねーーよ、それはこっちのセリフだぞ。さっきからずっとぼんやりして……大丈夫か?早く挨拶を済ませにいこうぜ」
「それはもういいんだ。『挨拶』なら全部終わったよ」
「……だ、だよな。ワガハイが見てた限りでもアキラが世話になっていた顔はほぼ拝めた気がしてたんだ。でも、他に用事なんてあったか?」
 
今日のモルガナは朝からというもの、いつにもまして無駄のない行動をするよう迫ってきている。用事があるから一旦散歩してきてくれと言ったところで聞かない可能性が大だ。
明日にはルブランを出るというのに、まだ俺がちっとも荷物をまとめていないのも原因だろう。確かに怪盗団の皆に送ってもらう予定もあるため、当日待たせるわけにはいかない。特に運転を引き受けてくれた真には説教されてしまいそうだ。
しかし俺にはどうしても、今日この場所にある程度留まっていたい事情があった。

「悪い、ここで少しだけ時間をくれ。待っている間……そうだな、これを読んでいてもいいから」
「こ、これはっ……!アキラがもらった物なのにワガハイが先に読んじゃってもいいのか?」
「モルガナは早く見たいだろ、全然構わないよ。俺は明日ゆっくり読むつもり」
「じゃあお言葉に甘えて……アン殿……!けど、オマエの用事もなるべく手短になっ」
 
鞄に入っている雑誌を指してそう提案すると 、彼は見るからに目を輝かせた。数時間前に杏がくれたばかりのものだ。彼女が大きく特集されているらしく、モルガナは特に喜んで確認しようとするだろうと思った。さっそく鞄の中でごそごそとページをめくっている振動が伝わってくる。
これでもうしばらく、俺が時間を持て余していても許してくれそうだ。
手近な柱に軽く背中を預け、再びここで佇むことにした。

正午はとっくに過ぎた。休日なのもあいまって行き交う人々はさらに数を増している。
俺が求めているものがこの群衆に紛れていることを一心に望んでいる。だがそのほとんどが改札や商業施設への通路を抜け、皆思い思いに消えていく。
長らく意識を張り詰めているおかげで、少なからず疲れも生じていた。周りをよく見据えようにも、またうつむきがちになってしまう。
眼前を過ぎていく幾多の姿は相も変わらず無関係だ。緩く溜め息すら漏れた。時々もぞりと動く鞄の重みを感じることで、集中が途切れそうな意識を立て直している。
それでも、目に入るのはひたすら知らない影だけだ。状況が変わる気配はない。
無尽蔵の人波が流れていくのをただ、見つめていた。
……思えば、昼食も取っていないままだった。自分は空腹感すら忘れていたがモルガナはどうだろう。俺に付き合わせてしまっている以上、せめて彼にだけでもそこでサンドイッチを買ってやるべきだろうか。
そうぼんやり考えながら延々と続く光景を眺めていた時――ふと、こちらに向かって歩を進めてくる脚に見覚えがあるような気がした。
変わりばえのなかった視界に突如映り込んだ、懐かしい制服。
一瞬で心拍数が跳ね上がる。
 
「!!…ッあけ…、…」
 
はっとして瞬時に頭を上げた。
……しかし、そうして瞳に映ったのは想定していた顔ではない。
求めていた者と同じ高校の生徒ではあるが、全くの別人だ。よく見れば両親と思われる大人に連れ添われながら、黒い筒と紙袋片手に仲睦まじく話している。最初からその大人の存在も認識出来ていたなら、こんな勘違いをすることもなかっただろう。
小声ながら口をついて出そうになった名前はすぐに引っ込んだ。そうしているうちに、見知らぬ彼も俺の横を通り過ぎていく。
久しぶりに現物を目にしたその制服の胸元には、記念のコサージュが華やかに咲き誇っていた。
   
明智が予定通り怪盗団を離れた後は一切連絡を取れていない。決別後に顔を見たのも今のところ船が最初で最後となっている。
先月に一度だけ、意を決してSNSで文章を送ることを試みたが案の定送信エラーになった。
……幸か不幸か、それらしき遺体が見つかったという話は聞いていない。
ただ、世間的にあれほど認知されていた探偵王子としての存在は、大衆の中で穏やかに亡びつつある。
そんな状況が変わらないまま、とうとうこの日を迎えてしまった。俺がお世話になった皆に挨拶回りをすることに加えて、もう一つ引っ掛かっている予定がある。
自身には関係ない学校でも、サイトを確認すれば大きな行事の日程を調べるのは簡単だ。先程見かけた生徒の様子を見てもそれは確実となった。
今日が、明智が通っていた高校の卒業式の日だ。
 
悪神が倒れ佐倉家と過ごした聖夜、それに竜司を宥めたバレンタインの日にはモルガナを双葉に預けたうえで一晩中起きていた。どちらも、恋人がいれば多少は意識するであろう日だ。閉店後に明智がひっそり現れる可能性を考えていたのだ。
しかし両日ともルブランには誰も訪れることなく、灯りを付けたまま朝を迎えた。その他の日も寝ている間に何者かがやって来た形跡はない。
昼前後のルブラン周辺は惣治郎はもちろん、双葉をはじめとした怪盗団の仲間に鉢合わせる確率も充分にある。よって閉店後に現れないのであれば、開店中はなおさらそこには姿を見せないだろうと推測した。
明智の家には結局招かれたことがなく、場所がわからずじまいのため行きようがない。新島さんが把握していたのも俺がもらったのと同じ連絡先のみで、住所までは知りえなかったようだ。思えば仮にも付き合っていたにも関わらず、あいつについて肝心なことはほとんど打ち明けてもらえないままだったなと自嘲した。
その二ヶ所を除くと、あの夜話題に出したうえで――木を隠すなら森の中――この人混みに紛れて明智が表れる可能性がわずかにでも考えられるのは、もうここしかなかった。
帝急ビル、ヨンジェルマン前。
 
「……今日はいっぱい思い出をもらったな、アキラ」
 
ふいにモルガナが肩越しにおずおずと声をかけてきた。恐らくとっくに雑誌を読み終えたうえでしばらく様子を見ていたのだろう。声色に少し戸惑いのようなものが混ざっている。
俺が何もしないまま長らく立ち尽くしているのもそろそろ疑問に思われる頃だ。
彼が鞄の中でゆさゆさと動くたびに、今日もらったばかりの品々もじゃらりと揺れていた。
この一年で得た大小多数の絆の証、それらの重みが肩を通じて伝わってくる。

「そうだな。屋根裏に戻ったらこれらをまず整理しないと」
「時計やピンズみたいな細々したものも多いし、荷造りには時間がかかりそうだぜ。ユースケがでっかい絵を直接持ってこなかったことにも感謝しないとな」
「それは本当に同感だ」
「部屋に置いてあるものだってまだ全然片付けられてないだろ。彫像とかどうやって包めばいいのかワガハイ見当もつかないぞ……でも、来たばっかりの時に比べたらずいぶん賑やかな部屋になったよな」
「……ああ……」
「あっ、アン殿から貰ったっていうチョコファウンテンもしっかり包むんだぞ!オマエの家についたらあれで一緒に打ち上げしたいんだ」
「……うん」
「アン殿からのプレゼントだけじゃない。どれもオマエの大事な思い出だ。みんな壊れないよう持ち帰らないとな。でもそのためにはそろそろ……」
「……」
「…………なあ、アキラ。一体何を待っているんだ?」
 
この場所で明智と顔を合わせたのは一度だけ、それも半年以上前の話だ。だからモルガナが特に繋がりを覚えていないのも無理はなかった。そもそも一時とはいえ明智と恋仲だったこと自体、未だにモルガナ含め誰にも打ち明けていない。
放課後にここで偶然会った時はまだ知り合い程度の関係だった。俺の方から話しかけられたという点を心なしか明智が嬉しそうにしていたのが印象に残っている。偽りの関係が始まったのはそれからもう少し先の話だ。
長いようで短かった恋人としての日々は、自分の中では色あせないまま残っている。ただ明智との間にだけは、屋根裏や鞄に詰まっているような贈り物という形での思い出が手元に残っていない。
交際を秘密裏にしていたことから、恋仲だった事実自体がもはや俺達二人の中にしか存在していない。
 
付き合うどころか、出会った時から不穏な違和感は拭えていなかった。にも関わらず、何度も接触されるうちに生まれた興味めいた気持ちは、いつしか別の感情に変化してしまった。関係を深めた後も、特にベッドにおいて時々探偵王子らしからぬ言動が垣間見えていることには気づいていた。
それでも――あいつが何者だったとしても、共に居たいと願ってしまったのだ。
胸の内におぞましい真意を飼っていることを知ってもその望みを捨てられなかった。想いを伝えれば明智の中でわずかにでも何かが変わるんじゃないかと、心身全てを使って示していたつもりだ。
歪み切った本性を知っていると暗に匂わせるような、少々深入り気味の鎌かけも試していた。ただその折々の明智の様子を注意深く見ていた限りでは、あいつは俺の意図に気づいていなかったように思う。いっそ気づいてくれていたら、腹を割って交渉することも出来ていたかもしれない。もし復讐の過程で少しでも迷いが生じていたならば、一時でも力になってやりたいと考えていたからだ。
しかしそんな気持ちもついに明智に届くことなく、二度も決別の時を迎えてしまった。
 
もっと早く俺と出会いたかったと嘆いていたのは本当だろうか。嘘を言っているようにはあまり見えなかった。
母親については、船においても夏休みに来た時と同じ事情を話していた。本当なのかもしれない。
仲間なんていらないという叫びは少し悲痛にも聞こえた。あれは嘘だったのだろうか。
俺のことを好きだと言ってくれたのは?それも嘘か、それとも本当だったのか。
じゃあ、愛していると囁いてくれたのは?
……人生を共にしたいと申し出たも同然の告白をしてくれたのは?
 
何もかも結局、真偽は分からずじまいだ。もしかしたら俺を殺すまでの言動全てが偽りで、内心ずっと嘲笑っていたことすらあり得るだろう。
ただ万が一そうだったのだとしても――あの夜、二人での未来の約束を語り合ってくれたのが嬉しかった。
同時に、苦しくてたまらなかった。本来ならそんな仮定の話を紡いだところで不毛なことを知っていたからだ。
その前の想定外の告白と表情も相まって、やるせなさと仮初めの喜びがぐちゃぐちゃになってしまった。気が早いぞなどと理由をつけ笑ってごまかそうとしたのに、感情の方が先に溢れ出ていった。その結果涙を見せてしまう羽目になったのが不甲斐ない。互いに事実を話せない以上共に生きられないという運命にそのまま従うことが、この時ますます惜しくなった。
だからわざとその場では答えを示さず、先送りにする選択をした。約束という形で、俺が生きていなければ成立しない未来における予定を設けたのだ。
あいつがわずかでも同じ気持ちだったなら、俺を始末しようとする行動に躊躇が生まれるかもしれない。実際はそうならなかったが……その後今度は船にて心情が変化したことで、こっそり返事を確かめに現れるかもしれない。そんな幻に等しい希望の数々を捨て去ることが出来なかった。
だから今も、俺はここから動けないままでいる。
 
憎んでいた男の心の底へ沈んでしまったのか、はたまた精神と物質の狭間を永劫彷徨っているのか。どこかに身を潜めている可能性も否定は出来ず、いずれも定かではない。
ただ、仮に生きて自由に動ける状況にあったならば――明智は今日までのどこかのタイミングで一度は姿を見せていたのではないかという憶測を抱いていた。とはいっても明確な根拠があるわけではなく、単なる俺の過信にすぎないかもしれない。
だが明智が求婚そのものな言葉をくれたあの時、俺は彼の表情に変化を見出していた。
いつも通りの空虚な笑顔ではなく、あいつ自身の心が伴っていた微笑みのように感じられた。
その申し出が成就することはないのはわかっていたのに、まるで本心からの告白と笑顔をやっと得られたような気がして――つい嗚咽を漏らしてしまったのだ。
笑みとは言っても、しげしげと感じ取らなければわからないほど微々たる変化だった。他人よりも近く長く、明智の嘘と向き合ってきたからこそ気づけたのだと思う。
そう自惚れても許される程度には、俺はあいつに騙されている恋人役をきちんと務められていただろうか。
 
ほどなく日が暮れる。
待ち人は現れない。
明智が来ずとも、俺には明日が来てしまう。
俺の憶測がもし正しいのなら、明智は既に約束を果たすのが不可能な状況にある。
心のどこかでは、これ以上待っていたところで何も変わらないことを悟っていた。
何が嘘でどれが本音だったのか、もう確認する術はない。
あの夜から変わらぬまま用意しておいた「答え」も、伝えることすら叶わない。
 
「……王子だと自称するならこんな約束くらい守ったらどうだ。返事……させてほしかったのに。……馬鹿野郎」
 
喉奥で苦く震える声は、別れの季節に呑まれて消えた。