#1 - 2024-3-21 00:32
仓猫
雨の日の通学

「こはる~、今日は雨よ~」

朝起きるとおかあさんの声がした。

どうやら今日は雨が降っているらしい。リビングのテレビから、「気温は高く、梅雨の前触れか、走り梅雨なんですかね~」と声がした。

雨か~いやだな~って思いながら朝ご飯を食べていると、おかあさんが「タクシー呼ほうか?」と聞いてきた。

「んㄧん。いいよ~。近いし、ふつうの大学生したいもん」

「けど、あぶないでしょ」

「こういうことにも慣れないと」

私がそう言っても食い下がるおかあさん。心配してくれていることは十分伝わった。

目が見えない私を心配してか、このまま私に着いてきそうだったので、

「大丈夫、ひとりで行かせて」

と、釘を刺すことにした。

む~、とむくれた声を出すおかあさんに、「このたまごのサンドイッチ、すごくおいしいね」と言うと、ばつと明るい声をだしてくれた。

それからおかあさんは、鼻歌を歌いながらあまいミルクティーを用意してくれた。



マソションを出ると、小雨がばらばらと降っているようだった。

どのくらい降つているのかわからないけど、いつもの薄い海の匂いに混ざって、雨の匂いがした。傘を差して、手のひらを傘から出してみると、ちいさな雨粒がぼつぼつと手のひらの上に落ちる。

大雨じゃなくてよかったと安心した。滑らないように気をつけないとって気を引き締めた。

大学まではすごく近い。

根生橋を渡ったすぐのところに大学の正門があって、晴れた日は家から正門まで二十分もかからない。けど、雨の日はゆつくり歩くから、もう少しかかる。

雨の日は、左手に傘と右手に白杖。

両手がふさがると、たとえばつまずいたときとか、とっさに手が出なくなる。

少しハラハラするけど、こういうことにも慣れていなきやいけないんだと思う。

雨の日に每回タクシーに乗るわけにもいかないし、なにより、雨の日の匂いとか、音とか、そういうものが感じられなくなってしまうから。

白杖を地面につけたまま私は杖先を滑らせる。雨の日、この杖先は滑りやすくてスイーって進む。足下も滑りやすく、ゆっくりと私は歩いて行く。橋のつるつるした石つぼい材質を感じながら歩いて行く。ときどき強い風が吹いて、立ち止まって両手で傘を支えた。

自動車がさざさ-って水を切りながら走る音がする。たまにぎいぎいと銷び付いた自転車をこぐような音がする。風の音もする。

相生橋は横から見ると大きく湾曲しているような橋なんだと思う。最初は上りで、真ん中を過ぎると下り坂になる。これで大体、自分がどのくらい進んだかわかる。ようやく半分だ。

弱い雨だったけど、足元は降られ、靴の中まで水が人り込んでいた。

やつばり、雨はいやだな~って思った。

よし、下り坂も気合い入れて行こう。

そう思ったときだった。

「冬月?」

と、なんだろう。空野くんの声が聞えた気がした。

気のせいかな。空野くんは大学の寮暮らしだから通学路じやないだろうし。

そう思っていると、また空野くんの声がした。

「冬月?」

傘で空野くんの声が小さく聞こえた。

元。幻聴?

そう思って声の方ヘ顔を向ける。

「冬月。止まってくれるとうれしい」

やつばり、空野くんの声だった。

「空野さんですか?」

「そう。空野です」

「ど、どうしたの?」

「いや、朝から散歩してて」

「寮と反対方向だよ」

「早く目が覚めたんだよ。鳴海がごそごそしてて」

「そうなんですね」

嘘かな? って思った。嘘ならいいなって思った。

「傘、大変でしょ。差すよ」

そう言って、私の手から傘を取っていった。

「ありがとう…ございます」

「ついでだから」

そう言って、行こっかと空野くんは私を傘に人れてくれる。

うれしいな。うれしくない、わけがない。

「やさしいんですね」

「いやいや、たまたま冬月が通りかかって、両手が塞がって大変そうだったから」

ふふ。声が半音上がった。やつぱり嘘なのかなって思った。私の心にうれしいが満ちていく。

なんだろう。上手く言葉が出なくなった。

ふたりで黙って雨の道を歩いていく。

空野くんは私が黙っていても、それを受け人れて、なんてことない顔をしているのかな。

表情が見えなくても、なんだか安心できた。

この空気感が好きだなって思う。

左側に空野くんの気配を感じる。歩くペースを合わせてくれている気がする。

肘を掴ませてほしい。

そんなことを言ったら、空野くんは迷惑だろうか。

自由になった左手で、肩にかけた鞄の紐を握った。

自動車がざざざーって水を切りながら走る音がする。たまにぎいぎいと錆び付いた自転車をこぐような音がする。風の音もする。足元はしっかりと降られて、やつぱり、靴の中まで水が入り込んでいた。

それでも、空野くんと登校できるなら、雨でもいいなって、思った。

白杖の先にかつっと当たる感触がした。相生橋と道路を接続する金属のパーツかな。足元の感触が、つるつるとした石材の感覚から、アスフアルトのような感覚に変わる。

もうすぐ大学の正門に着くのかな。

「雨だし、正門入ったら一号館を通って教室向かおうか」

この時間が終わることが、少し残念だった。もう少し、続けばいいのにと思った。

「ねえ、空野さん?」

気づけば、そう呼びかけていた。

「ん?」

私はなんて言おうとしたのか急にわからなくなった。

またいっしょに歩きたいですね。

それとも、肘を掴んでいい?

空野くんとの距離は、まだこういうことをお願いするには、早い気がした。

「私たち、名前で呼び合いませんか」

散々言葉を探して、口をついて出た言葉は、こんな言葉。

「え」

うん。私も、「え」って思った。けど、ロから出た言葉は戻すことはできない。

「私たち、知り合って一カ月は経ちますし。こうやって、よくもしてもらってますし」

自分で言っていて顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。空野くんの表情が見えなくて、これほど不安なことはなかった。なにか言って~って心の中で叫んだ。

すると空野くんは、「じや、じやあ」と声を一音も二音も上げてこう言った。

「あだ名とかだったら…」

「じや、じやあ、こはるん……とか?」

「無理無理無理! やつぱ名字で呼ぶのが限界だって。あ、ごめん、傘、ちゃんと差せてない」

一瞬空野くんの声が遠くなって雨粒が頬に当たった。そして、すぐ空野くんが傘を差し直してくれたのか、雨に降られなくなった。

きっと傘を差し忘れて、私を傘に入れてくれたんじやないかなって思った。

「急にどうした」

まだ空野くんの声が遠かった。もしかするとって、空野くんが傘を持ってくれている手を、両手で探した。

ふらふらと手が空を切って、そして空野くんの手を見つける。

どうした?

そう聞かれたけど、答える前に確かめたかった。

傘を持っている拳はぐっと力が人っている。その拳の先を手でなぞる。すると、やっばり。空野くんは手を伸ばして、私だけを傘の下に人れてくれているようだった。

もう。この空野くんは。

この、自分が濡れることをいとわず、人に傘を差し出すような人と、私は、きっと。

もっと仲良くなりたいんだって、気がついた。

空野くんが傘を持ってくれている手を両手で掴んで、ぐっと空野くんの体の方に押し返した。押し返した分だけ近ついて、空野くんにぶつかってしまった。

「ぷたりとも、ちゃんと傘に人れていますか?」

「あ、ああ、うん」

空野くんと向き合つているのだろうか。声が正面から聞こえる。右手で空野くんの左肩を触る。やつばり、ぐっしょりと濡れていた。

うれしいなあ。

こんなことしてもらったことは、はじめてだ。

「空野さんはいままでどおり、『冬月』でいいので」

頰がゆるんでいる気がした。

「私は、『かけるくん』って、呼んでいいですか」

いいけど……と、言葉が返ってくる。

「今日はありがとうございました」

私の声は弾んでいた。

「いきましょうか。かけるくん」

ロにした『かけるくん』を喘みしめる。

今日は、『空野さん』が、『かけるくん』に変わった日だった。

《雨の日の通学 了》