2023-12-28 20:07 /
 結局のところ何もかも演技に過ぎなかったのではないかと思うこともあった。僕らは自分たちに振り当てられた役柄をひとつひとつこなしてきただけのことではなかったのか。だからそこから大事な何かが失われてしまっても、技巧性だけでこれまでと同じように毎日を大過なく過ごしていくことができるのではないか。そういう風に考えると辛かった。このような空虚で技巧的な生活はおそらく有紀子の心を深く傷つけていることだろう。でも僕にはまだ彼女の問いに答えることができなかった。僕はもちろん有紀子と別れたくはなかった。それははっきりしていた。でもそんなことを言えるような資格は僕にはなかった。僕は一度は彼女と子供たちを捨てようとしていたのだ。島本さんがどこかに消えてしまってもう戻ってこないから、またすんなりともとの生活に戻るというわけにはいかない。ものごとはそれほど簡単ではないし、またそれほど簡単であってはならないのだ。それに加えて僕はまだ島本さんの幻影を頭の中から追い払うことができずにいた。それはあまりにも鮮明でリアルな幻影だった。目を閉じれば島本さんの体のあらゆる細部を刻明に思いだすことかできた。手のひらに、彼女の肌の感触を思い出すことができた。彼女の声を耳のそばに聞くことができた。僕はそんな幻影を抱えたまま有紀子の体を抱くわけにはいかなかった。

 できるだけ一人になりたかったし、他に何をすればいいのかもわからなかったから、毎朝、一日も休まずにプールにかよった。そしてそのあとオフィスに行って、ひとりで天井を眺め、いつまでも島本さんの幻想に耽りつづけた。僕はそんな生活にどこかでけりをつけたかった。僕は有紀子との生活を中途半端に放り出したまま、彼女に対する答えを保留したまま、ある種の空白の中で生きつづけているのだ。そんなことをいつまでも続けているわけにはいかない。それはどう考えても正しいことではなかった。僕は一人の人間としての、夫としての、父親としての責任を取らなくてはいけないのだ。でも実際には何をすることもできなかった。幻想はいつもそこにあり、それは僕をしっかりと捉えてしまっていた。雨が降ると、状況はもっと悪くなった。雨が降ると、島本さんが今にもここを訪れてきそうな錯覚に僕は襲われた。雨の匂いを携えて、彼女がそっとドアを開ける。僕は彼女の顔に浮かんだ微笑みを想像することができた。僕が何か間違ったことを言うと、彼女はその微笑みを浮かべたまま、静かに首を振った。そして僕のあらゆる言葉はその力を失い、窓にはりついた雨の水滴のように、現実の領域からゆっくりとこぼれ落ちていった。雨の夜はいつも息苦しかった。それは現実を歪め、時間を狂わせた。

 幻想を見ることに疲れ果てると、僕は窓の前に立っていつまでも外の風景を眺めていた。ときどき自分が、生命のしるしのない乾いた土地にひとりで取り残されてしまったように感じられた。幻影の群れが、まわりの世界から色彩という色彩を残らず吸い尽くしてしまったようだった。目に映るすべての事物や風景が、まるで間に合わせにつくられたもののように平板であり、うつろだった。そしてそれらはみんなほこりっぽい砂色をしていた。僕はイズミの消息を僕に教えてくれたあの高校時代の同級生のことを思いだした。彼はこう言った。「みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ」

 その次の週には、まるで待ち受けていたようにいくつかの奇妙なことが続けて起こった。月曜日の朝に、僕はふと思いついて十万円が入った例の封筒を探してみた。とくに何か理由があったわけではないのだが、なんとなくその封筒のことが気になったのだ。僕はもう何年も前から、それをオフィスの机の引き出しにしまっておいた。上から二番目の引き出しで、そこには鍵がかかるようになっている。僕はオフィスに越してきたときにその引き出しに他の貴重品と一緒に封筒を入れ、ときどきその存在を確かめる以外一切手を触れなかった。でも引き出しの中には封筒は見当たらなかった。それは非常に奇妙で不自然なことだった。というのは、その封筒をどこかに移動した覚えはまったくなかったからだ。それについては百パーセント確信があった。念のために机の他の引き出しを全部引っばりだして、隅から隅まで調べてみた。でもやはり封筒はどこにも見つからなかった。

 最後にその金の入った封筒を目にしたのはいつのことだっただろうと僕は考えてみた。僕には正確な日にちは思い出せなかった。それほど昔のことではないけれど、かといってついこのあいだというわけでもない。ーカ月前かもしれないし、二カ月前かもしれない。あるいは三カ月くらい前かもしれない。でもとにかくそれほど遠くない過去に僕は封筒を取りだし、その存在をはっきりと確認したのだ。

 僕はわけのわからないままに椅子に腰を下ろし、その引き出しをしばらくじっと眺めていた。あるいは誰かが部屋に入って、引き出しの鍵を開けてその封筒だけを盗んでいったのがもしれない。それはまずありえないことだったけれど(というのはそれ以外にも机の中には現金や金目のものが入っていたから)、可能性としてまったくないというわけではなかった。あるいは僕が何か重大な思い違いをしているのかもしれない。僕は自分の知らないあいだにその封筒を処分して、それについて記憶をすっかりなくしてしまったのかもしれない。そういうことだって起こりえないわけではないのだ。まあなんだっていいじゃないか、と僕は自分に言い聞かせた。そんなものどうせいつか処分するつもりでいたんだ。そのぶんの手間が省けただけじゃないか、と。

 でもその封筒が消えてしまったという事実を僕が認識し、僕の意識の中でその不在と存在とが位置をはっきりと交換してしまうと、封筒が存在するという事実に付随して存在していたはずの現実感も、同じように急速に失われていった。それは眩暈にも似た奇妙な感覚だった。僕がどのように自分に言い聞かせようとしても、その不在感は僕の中でどんどん膨らんで、僕の意識を激しく浸食していった。その不在感はかつてそこに明確に存在したはずの存在感を押しつぶし、貪欲に呑み込んでいった。

 たとえば何かの出来事が現実であるということを証明する現実がある。何故なら僕らの記憶や感覚はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。僕らが認識していると思っている事実がどこまでそのままの事実であって、どこからが
「我々が事実であると認識している事実」
 なのかを識別することは多くの場合不可能であるようにさえ思える。だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、それを相対化するべつのもうひとつの現実を――隣接する現実を――必要としている。でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、僕という存在が成り立っていると言っても過言ではないだろう。でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。すると途端に僕は途方に暮れてしまうことになる。中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか。

 僕がそのときに感じたのはそういった種類の途絶した感覚だった。僕は引き出しを閉め、何もかもを忘れてしまおうとした。そんな金は最初から棄ててしまうべきだったんだ。そんなものを持っていたこと自体が間違いだったんだ、と。

 同じ週の水曜日の午後、外苑東通りを車で走っているときに、僕は島本さんにとてもよく似た後ろ姿の女を見かけた。その女は青いコットンのズボンにベージュのレインコートを着て、白いデッキ・シューズをはいていた。そして片脚をひきずるようにして歩いていた。その女の姿を目にしたとき、僕のまわりにあるすべての情景が一瞬にして凍りついてしまったように感じられた。僕の胸の中から空気のかたまりのようなものが喉もとまでせりあがってきた。島本さんだ、と僕は思った。僕は彼女を追越し、バックミラーでその姿を確かめようとしたか、他の通行人の陰になって彼女の顔はよく見えなかった。僕がブレーキを踏むと、後ろの車が激しくクラクションを鳴らした。いずれにせよ、その背格好や髪の長さは島本さんにそっくりだった。僕はその場ですぐに車を停めようと思ったのだが、道路は目につくかぎり駐車中の車でいっぱいだった。二百メートルほど進んだところにぎりぎり車一台駐車できる場所をみつけて、そこに強引に車を入れ、彼女を見かけたあたりまで走って戻った。しかしもうそこには彼女の姿はなかった。僕は必死になってそのあたりを探してまわってみた。彼女は脚が悪いのだ。そんなに遠くまで行けるはずがない、と僕は自分に言い聞かせた。僕は人々を押し分け、道路を無理に横断し、歩道橋を駆け登り、高いところから道を行く人々の顔を眺めた。僕の着たシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。でもそのうちに、僕が目にした女が島本さんであるはずがないということにはっと思い当たった。その女は島本さんとは逆の脚をひきずっていたのだ。そして島本さんの脚はもう悪くない[#「島本さんの脚はもう悪くない」に傍点]。

 僕は頭を振り、深いため息をついた。僕は本当にどうかしている。まるで立ちくらみのように、体から急速に力が抜けていくのが感じられた。僕は信号機にもたれかかり、しばらく自分の足元を見つめていた。信号が青から赤に変り、赤からまた青に変った。人々が通りを渡り、信号を待ち、そして通りを渡った。僕はそのあいだずっと信号機の柱にもたれて息をととのえていた。

 ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。イズミは僕の前に停まっているタクシーに乗っていた。その後部座席の窓から、彼女は僕の顔をじっと見ていた。タクシーは赤信号で停車していて、イズミの顔と僕のあいだにはほんの一メートルほどの距離しかなかった。彼女はもう十七歳の少女ではなかった。でも僕にはその女がイズミであることが一目でわかった。それはイズミ以外の誰でもありえなかった。そこにいたのは僕が二十年も前に抱いた女だった。それは僕がはじめて口づけをした女だった。僕が十七歳の秋の昼下がりにその服を脱がし、カードルの靴下どめをなくしてしまった女だった。二十年という歳月がどれだけ人を変えたとしても、その顔を見間違えることはなかった。「子供たちは彼女のことを怖がるんだよ」と誰かが言った。それを聞いたとき、僕にはその意味が掴めなかった。その言葉が何を伝えようとしているのか、うまく呑み込むことができなかった。でも今こうしてイズミを前にすると、僕には彼が言わんとしたことをはっきりと理解することができた。彼女の顔には表情というものがなかったのだ[#「彼女の顔には表情というものがなかったのだ」に傍点]。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは[#「彼女の顔からは」に傍点]、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた[#「表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた」に傍点]、と。それは僕に家具という家具がひとつ残らず持ち出されてしまったあとの部屋を思い起こさせた。彼女の顔には感情のかけらすら浮かんではいなかった。まるで深い海の底のように、そこでは何もかもが音もなく死に絶えていた。そして彼女はその表情のかけらもない顔で、僕をじっと見つめていた。彼女はおそらく僕を見つめていたのだと思う。すくなくともその目はまっすぐ僕の方に向けられていた。でも彼女の顔は僕に向かって何も語りかけてはいなかった。もし彼女が僕に何かを語ろうとしていたのだとすれば、彼女が語りかけていたものは果てしのない空白だった。

 僕はそこに呆然と立ちすくんだまま、言葉というものを失っていた。僕はただ自分の体を辛うじて支えながら、ゆっくりと呼吸をしているだけだった。その時、僕は自分というものの存在を本当に文字通り見失っていた。しばらくのあいだ、自分が誰かということさえ僕にはわからなくなってしまった。まるで僕という人間の輪郭が消滅して、どろどろした液体になってしまったようにさえ感じられた。僕は何を考える余裕もなく、ほとんど無意識に手をのばして、そのガラス窓に触れた。そして僕は指先でその表面をそっと撫でた。その行為か何を意味するのか、僕にはわからなかった。何人かの通行人が立ち止まって、驚いたように僕の方を見ていた。でも僕はそうしないわけにはいかなかったのだ。僕はガラス越しに、イズミの顔のない顔をゆっくりと撫でつづけた。それでも彼女は身動きひとつしなかった。彼女はまばたきひとつしなかった。彼女は死んでいるのだろうか? いや、死んでいるわけじゃない、と僕は思った。彼女はまばたきをしないまま生きていた。その音のない、ガラス窓の奥の世界に彼女は生きていた。そして彼女の動かない唇は、限りのない虚無を語っていた。

 やがて信号が青に変わり、タクシーは去っていった。イズミの顔は最後まで表情をなくしたままだった。僕はそこにじっと立ちすくんで、そのタクシーが車の群れの中に吸い込まれて消えていくのを眺めていた。

 僕は車を停めた場所に戻り、シートに身を落とした。とにかくここを離れなくてはいけないと僕は思った。エンジン・キイを回そうとしたところで、僕はひどく気分が悪くなった。激しい吐き気がした。でも吐くことはできなかった。ただ吐き気がするだけなのだ。僕はハンドルに両手をかけて、十五分ばかりそこにじっとしていた。汗が僕の脇の下ににじんできた。僕の体じゅうから嫌な匂いが漂ってくるように感じられた。それはかつて島本さんが優しく舐めまわしてくれた僕の体ではなかった。それは不快な匂いのする中年の男の体だった。

 しばらくあとで交通巡査がやってきて、ガラス窓をノックした。僕は窓を開けた。ここは駐車禁止だよ、あんた、と警官は中を覗き込むようにして言った。すぐに車どかしでよ。僕は頷いてエンジン・キイを回した。
「顔色悪いけど、気分でも悪いの?」と警官が訊いた。
 僕は黙って首を振った。そしてそのまま車を走らせた。

 それから何時間か、僕は自分というものを取り戻すことができなかった。僕はただの脱け殻であり、体の中には虚ろな音が響いているだけだった。僕には自分が本当にからっぽになっていることがわかった。さっきまで体の中に残っていたはずのものが、なにもかも全部外に出ていってしまったのだ。僕は青山墓地の中に車を停めて、フロント・グラスの向こうの空をぼんやりと眺めていた。イズミはそこで僕を待っていたのだ、と僕は思った。彼女はおそらくいつもどこかで僕のことを待っていたのだ。どこかの街角で、どこかのガラス窓の奥で、彼女は僕がやってくるのを待っていたのだ。彼女はじっと僕を見ていたのだ。僕にはそれを見ることができなかっただけのことなのだ。

 それから何日かのあいだ、僕はほとんど誰とも口をきくことかできなかった。何かを言おうとして口を開きかけるのだが、そのたびに言葉はふっと消えてしまった。まるで彼女の語りかけていた虚無が僕の中にすっぽりと入り込んでしまったみたいに。

 でもイズミとのその奇妙な邂逅のあと、僕のまわりを取り囲んでいた島本さんの幻影と残響は、ゆっくりと時間をかけて薄らいでいった。目にする風景はいくらか色を取戻し、月の表面を歩いているような頼り無い感覚もだんだん治まってきたようだった。重力が微妙に変化して、自分の体にしっかりとしがみついているものが少しずつ、ひとつひとつ引きちぎられていくのを、僕はまるで他人の身に起こっている出来事をガラス越しに見ているようにぼんやりと感じていた。

 おそらくそれと前後して、僕の中にあった何かが消えて、途絶えてしまったのだ。音もなく、そして決定的に。
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