2023-12-21 21:43 /
一、

 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと――それだけだった。僕は線のフェルトを貼ったビリヤード台や、赤いN360や机の上の白い花や、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。火葬場の高い煙突から立ちのぼる煙や、警察の取調べ室に置いてあったずんぐりした形の文鎮や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。

 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり(死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ)と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。

 しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。

 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。

二、

 彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室にひきあげてしまうと、僕はブランディーを少し飲み、ソファー・ベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそりとして、物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じると暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳ちとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかなかった。眠りがやってきて、温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さな鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒きれを持って近くの枝を叩いてみた。島を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛びたつかわりに烏たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。

 目を覚ましたとき、僕はまるでその夢のつづきを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上に鳥のかたちをした金属を探し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤児のようにその上に顎をのせていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の乾きを感じたが、僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪どめを外していたのだ。

 直子は同じ姿勢のままぴくりとも動かなかった。彼女はまるで月光にひき寄せられる夜の小動物のように見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。

 僕は喉の乾きを癒すために唾をのみこんだが、夜の静寂の中でその昔はひどく大きく響いた。

 すると直子は、まるでその昔が何かの合図だとでも言うようにすっと立ちあがり、かすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつき、僕の目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけれど、その日は何も語りかけてはいなかった。瞳は不自然なくらい澄んでいて、向う側の世界がすけて見えそうなほどだったが、どれだけ見つめてもその奥に何かをみつけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十センチくらいしか離れていなかったけれど、彼女は何光年も遠くにいるように感じられた。

 僕が手をのばして彼女に触れようとすると、直子はすっとうしろに身を引いた。唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にそれを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれおちて間のない新しい肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすと――それはほんの僅かな動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染める影のかたちが変った。丸く盛りあがった乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い影はまるで静かな湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えていった。

 これはなんという完全な肉体なのだろう――と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全な肉体を持っようになったのだろう? そしてあの春の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったいどこに行ってしまったのだろう?

 その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったとき、僕は彼女の体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。乳房は固く、乳首は場ちがいな突起のように感じられたし、腰のまわりは妙にこわばっていた。もちろん直子は美しい娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興奮させ、巨大な力で僕を押し流していった。しかしそれでも、僕は彼女の裸の体を抱き、愛撫し、そこに唇をつけながら、肉体というもののアンバランスについて、その不器用さについてふと奇妙な感慨を抱いたものだった。僕は直子を抱きながら、彼女に向ってこう説明したかった。僕は今君と性交している。僕は君の中に入っている。でもこれは本当に何でもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れあわせることでしか語ることのできないことを語りあっているだけなんだ。こうすることで僕らはそれぞれの不完全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしもちろんそんなことを口に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子の体を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いていると、僕はその中に何かしらうまく馴染めないで残っているような異物のごつごつとした感触を感じることができた。そしてその感触は僕を愛しい気持にさせ、おそろしいくらい固く勃起させた。

 しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子の肉体はいくつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月の光の中に生まれ落ちたのだ、と僕は思った。まずふっくらとした少女の肉がキズキの死と前後してすっかりそぎおとされ、それから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子の肉体はあまりにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。

 彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か六分くらいのものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガウンを再びまとい、上から順番にボタンをはめていった。ボタンをはめてしまうと直子はすっと立ちあがり、静かに寝室のドアを開けてその中に消えた。

 僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思いなおしてベッドから出て、床に落ちていた時計を拾い上げ、月の光の方に向けてみた。三時四十分だった。僕は台所で何杯か水を飲んでからまたベッドに横になったが、結局夜が明けて日の光が部屋の隅々にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去ってしまうまで眠りは訪れなかった。

三、

 手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくなった庭を眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近いところまで咲いていた。風はやわらかく、光はぼんやりと不思議な色あいにかすんでいた。少しすると「かもめ」がどこかからやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、僕の隣りで気持良さそうに体をのばして眠ってしまった。

 何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいのかわからなかった。それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに何かを考えざるをえない時がやってくるだろうし、そのときにゆっくり考えようと僕は思った。少くとも今は何も考えたくはない。

 僕は縁側で「かもめ」を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めていた。まるで体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮がやってきて、やがてほんのりと青い夜の間が庭を包んだ。「かもめ」はもうどこかに姿を消してしまっていたが、僕はまだ桜の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして僕は直子の肉体を思った。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はどこかから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておいてはくれないのだ?

 僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生まれてこのかた、これほどまで強く何かを憎んだのははじめてだった。

 それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聴こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼らはそれを聴きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまったような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こういう風にしている限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。

 僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへんにあるものをかじり、水を飲み、哀しくなるとウィスキーを飲んで眠った。風呂にも入らず、髭も剃らなかった。そんな風にして三日が過ぎた。

四、

 直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんて言えばいいのだ? それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界には存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。

 八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終ってしまうと、僕は東京に戻って家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申しわけないが当分来ることができないと言った。そして緑に今は何も言えない、悪いとは思うけれどもう少し待ってほしいという短かい手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。

 いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せない。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思い出せないのだ。順番も思い出せない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安ウィスキーをごくごく飲んで、すぐに寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。

 金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いだ。どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々が充ち充ちていた。僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらなく聞きたかったからだ。

「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「レポート提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ、いったい? あなたこれでもう三週間も音信不通だったのよ。どこにいて何してるのよ?」

「悪いけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」

「言うことはそれだけなの?」

「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら――」

 緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。

 僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊って風呂に入り髭を剃った。鏡を見ると僕は本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。ついさっき暗い穴の底から這いあがってきた人間のように見えたが、それはよく見るとたしかに僕の顔だった。

 僕がその頃歩いていたのは山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸かそのあたりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のどこかには必ず気持よく眠れる場所があったからだ。流木をあつめてたき火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べたりすることもできた。そしてウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができずにいた。

 僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のペニスをそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。僕はそれをまるで五分前のできごとのようにはっきり思い出すことができた。そしてとなりに直子がいて、手をのばせばその体に触れることができるような気がした。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。

 僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出さないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの少しの隙間をもこじあけて次から次へと外にとびだそうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。

 僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた光景を思いだした。半分崩れたバースデー・ケーキと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思いだした。そうあの夜も雨が降っていた。冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも髪どめをつけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。

 そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と。

 そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょ? と直子は恥かしそうに笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこう思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。

 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くというよりはまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。

 キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。

「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」

 たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。

五、

 一ヵ月の旅行は僕の気持をひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一ヵ月前とあまり変りない状態で東京に戻った。緑に電話をかけることすらできなかった。いったい彼女にどう切り出せばいいのかがわからなかった。なんて言えばいいのだ? 全ては終ったよ、君と二人で幸せになろう――そう言えばいいのだろうか?もちろん僕にはそんなことは言えなかった。しかしどんな風に言ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は死に、緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。

 僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っても、一人で部屋の中に閉じこもって何日かを過した。僕の記憶の殆んどは生者にではなく死者に結びついていた。僕が直子のためにとっておいたいくつかの部屋は鎧戸を下ろされ、家具は白い布に覆われ窓枠にはうっすらとほこりが積っていた。僕は一日の多くの部分をそんな部屋の中で過した。そして僕はキズキのことを思った。おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽したんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方をうちたてようと努力したんだよ。

 でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらんとした博物館でね、俺は俺自身のためにそこの管理をしているんだ。
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