2018-9-28 08:10 /
シャワーすらない喫茶店はセックスの前後においてとても都合が悪い。
とはいえ、あの屋根裏も含め本来ここは人が常時住むような場所ではないのだろうから仕方がないのかもしれない。前科の有無に関わらず、こんな場所でゴミみたいに暮らすのは俺でもごめんだ。
事後に使えるような設備といえばせいぜいこの洗面所程度だった。
手と顔を冷水で清めれば、茹っていた頭も多少平静を取り戻してきたように感じる。鏡に一人映る自分の表情も酷く冷ややかだ。
水では罪までは洗い流せない。手を汚し続けるうちにいつしか世への失望で濁った瞳。……あいつとは大違いだな。
長い溜め息を吐きつつも、取りあえず状況を整えることにした。
暁をベッドに連れ込むまでのやりとりにおいて、今思えばかなり冷静さを失っていたと自省する。判断力を欠いていた時の頭というのは、後に自分でも理解に苦しむ思考に陥っているものだ。
 
暁が何に気づいていたとしても、俺がやるべきことは変わらない。鎌かけに見えなくもない言動をヘタに気にして混乱するのは無駄だ。お前が廃人化に関わっているのかと証拠片手に問い詰められでもしない限り、どちらにしても例の日までは手を下せない。
万が一何らかの違和感を察知していたとしても、獅童の息がかかっている状況で逮捕や尋問を回避出来る策など誰も持ちえないだろう。
暁を自室に連れ込んだことはない。……異世界での探索の様子に加え、居候の身で一階の店内をやたら細かく物色している手癖の悪さを知っていたからだ。部屋に入れようものなら不都合な品々を嗅ぎつけられそうで恐ろしかった。自分から訪ねていく分には、鞄や服のポケットの中身を注意するだけでよかったため毎回念入りに確認した。
よって俺と廃人化との繋がりの物的証拠を握られている可能性はあまり考えられない。とすれば、今出来ることは一つだ。
――例の日までの残り少ない期間、俺はただ善良な交際相手を演じ切るだけでいい。
一通り思考を整理し終えた後、上に戻る決心をした。
その前にいつもの好青年の表情を取り繕えているかどうかを鏡で念入りに確認する。
そうしているうちに、ふと近くにタオルが畳んで置かれているのが目に入った。真っ白に輝いていたそれを手に取ってみると、薄手だが大判だ。暁の身体を拭いてやるため、濡らして持っていってやることにした。気が利く恋人を装うためだ。
 
ゆっくりと階段を軋ませながら屋根裏へと上がる。電球は消えたままだが、外からの青白い明かりのおかげで部屋の奥の暁の姿も認識することが出来た。
下に降りる前に見た彼は確かベッドにくったりと寝そべっていたが、今は身体を起こしていた。窓が少し開けられていることから、どうやら夜風に当たっているらしい。下は全て履いていたが上はシャツ一枚を雑に着ただけなので少々肌寒さを感じる。暁に至っては未だ最中の格好同様で、制服のハイネックのみを着ている状態だ。……冷えるんじゃねえのか。
彼はベッドの上に座って窓辺に腕を乗せ、じっと外を見つめていた。
お世辞にも景色がいいとは言えない薄汚れた路地裏……ではなくどうももっと上、空の方を眺めているようだ。
絞り切れなかった水がタオルから床へと吸い込まれていく。その微弱な音が耳に届くほどの静寂。
同じ男であっても挿れられる側はずいぶん身体の負担が違うという。毎回空イキも含めて幾度も達している暁の方が俺よりも回復に時間がかかるらしい。ただ後ろから様子を見る限り、今はすっかり落ち着いている。最中に見せていた饒舌さはもう期待できそうにないだろう。
粗雑なベッドに無言で膝を乗せると、俺の体重による微動を感じ取ったのか暁の肩がぴくりと反応した。しかし顔も身体も相変わらず窓へと向けられたままだ。取りあえず隣に並んで腰を下ろし、暁の顔をそっと覗きこんだ。
初めて会った時よりも少し伸びた癖っ毛が、妙な色香と共にそよいでいる。
 
「あんまりそうしていると風邪引くよ。……どうしたの?」
「ん」
 
無難に声をかけてみたが、暁はこちらには目を向けない。代わりにわずかに顎だけを動かして上部を指し示した。
示された先を確認すると、今暁の意識を独り占めしているものの正体がわかった。
月だ。
……しかし今日は満月ではなく、かといって三日月というわけでもない。流行りの写真映えもしなさそうな、なんとも中途半端な姿だ。正直特筆すべき形貌ではないように感じる。
冬を待ち侘びる澄んだ大気の恩恵により曇りなくはっきりと目視は出来るが、ただそれだけだ。隣にいる俺を差し置いてまで目を奪われるほどの価値があるとは思えなかった。あまり納得がいかない。
 
「そんなに熱心に眺めているからてっきり満月なのかと思った。違うんだね」
「形は関係ないよ。見た目が整っていても中は意外といびつかもしれないから。……でも、俺はそれでもいいと思ってるんだ。何かに惹かれる気持ちに理由なんてあってないようなものだろ」
 
そうぽつぽつと呟いた声は、心なしかいつもの暁に比べると弱々しい。すきま風にすらかき消されてしまいそうだ。慎重に耳を傾けながら彼の横顔を注視する。
ただ俺はこの時、暁はピロートークの延長のような事後特有の感傷に浸りたい気分なのだろうくらいにしか思っていなかった。
暁がゆっくりと瞬きをした。そして月に注がれていた視線が顔ごとこちらにそっと向けられる。情事の余熱が淡く垣間見える瞳。やっと俺を見てくれた。
彼の意識の対象が自分へと戻ってきたことにこんなに安堵するなんて変な気分だ。まあこれでまたさっきみたいに甘えて身体を擦りよせてくるのだろう、そう考えていた。
しかしいくら待ってみても暁がそれ以上を語る気配はない。身体も窓辺に腕を預けたまま動かない。
 
窓から吹き込む風が時々前髪を弄び、月下にその表情を露わにしていた。
暁は静かに笑みを湛えたまま俺を見つめている。それは数時間前のような強く何かを見出そうとするような目ではなく、ただ柔らかい。
笑みとは言っても、しげしげと観察しなければわからないほど微々たるものだ。他人よりも近く長く、普段表情の変化に乏しい暁と過ごしてきたからこそ気づけたのだと思う。
そう自惚れても許される程度には、俺はこいつの恋人役をきちんと務められていただろうか。
しかし、表情をいくら解釈出来たところで乗り切れない問題も生じていた。暁に加え俺まで未だ口を開いていない状況がひたすら続いている。会話というより独白にも似た先ほどの抽象的言葉を受け、どんな反応が適切なのかわからなかったからだ。
視線は繋げたまま、この場における探偵王子として正しい返答を脳内で必死に企てる。『月より君の方が綺麗だよ』……、今は何か違う気がしたので口に出すことはなかった。いつもだったら素知らぬ顔で採用していたかもしれない。
他にも色々、その大多数は軽薄な台詞が頭の中に提示されたがどれも使えそうにないものばかりだ。
夜風と時だけが互いの間をすり抜けていく。
 
口をつぐむ俺に対し暁は変わらず微笑を浮かべたままだった。とはいえ、少々困っているような雰囲気も滲み始めていた。眉と首がわずかに傾いている。
俺からの反応を見込めないと悟ったのだろうか。依然として沈黙を分かち合いながら見つめ合っているうちに、ある時暁が目を細めた。
ふ、と小さく吐息を漏らして笑ったその顔はどこか切なげで――瞳の奥に温かさだけでなく一種の諦念すら抱いていたことに気づいた時はもう遅かった。
暁はゆっくりと、また窓の方へ顔を背けてしまう。
その所作はあまりに物憂げで儚かった。青白い月色に紛れ、このまま消えてしまいそうな畏怖さえ覚えた。
言いようのない感情に突き動かされ、目の前の暁を勢いよく抱きしめる。
驚いて跳ねた身体をさらに強く、胸中の恐れごとまとめて掻き抱いた。最初からこうしてしまえばよかったんだ。
 
「!……っどうした、突然……」
「ねえッ……、せっかく一緒にいるんだからちゃんと僕を見て。月に帰るだなんて言わないだろう?」
「俺は勝手にいなくなったりしないよ。……お前がそう望んでくれるなら」
 
一度動き出してしまえば、至極簡単に互いが言動を取り戻す。ついさっきまでの膠着状態が嘘だったかのようだ。
両腕の中に収めた身体は案の定すっかり冷えていた。まるで動かなくなった母さんにも似た――嫌な記憶を呼び起こさせる感触にぞわりと悪寒が走る。
そのままきつく抱きしめていると、苦しいと呟きながら暁が小さく笑い声を上げた。腕を緩めさせようと軽く身じろぎ始めた彼に対抗しぎゅうぎゅうと力を込めていると、もはやじゃれあっているも同然だ。……何だか馬鹿みたいだな。思わず自嘲が零れた。彼に聞こえていないことを願っておきたい。
そんなことをしているうちに、じわりとした体温が徐々に暁から湧き出るのを感じ取れるようになっていく。同時に、それを確かめて少しほっとしてしまった自分に対しては嫌悪が湧いた。
あろうことか、失いたくないという考えが一瞬よぎったのだ。自分がいずれ殺す暁を。
 
抱き寄せていた身体がささやかな温もりを持ち始める。
それに応じて拘束していた腕から力を抜いてやると、なけなしの抵抗と笑い声も止んだ。
暁は肩口に埋まっていた顔を上げ、密着していた身体を名残惜しそうに少しだけ離していく。そして両腕をそっと俺の首に回し、今日だけで幾度目かの視線を結んできた。
……こいつはいつもそうだ。俺と正面から向き合おうとする。
何かを探るような――時に何かを訴えるような目で捉えてくる。
これ以上僕の性根を見出そうとするな。
もっと俺を見てほしい。
そんな相反した欲求が迷宮のごとく俺の中で渦巻いている。
一方で、至近距離の暁はどことなく普段より真摯な面持ちだ。
あけち、とふいに小さな唇が語り掛けてきた。
 
「なあ。新島さんを改心し終えたら、怪盗団は解散することになってたよな」
「そうだね」
「……俺達はどうなる?」
「……」
「それが終わった後も、俺と一緒にいてくれるのか?明智は」
 
……解散よりも先にリーダーが失われるのを知っている身では考えたことがない問題だ。そんな心配事を真面目に吐露されるのは少し予想外だった。
確かに表向きは怪盗団を糾弾する探偵として対立していた時期がある。それを踏まえると、暁が言うような不安が生まれるのも妥当かもしれない。
やたらと物哀しげだったのは、このことをずっと憂慮していたのが理由なのだろうか?
それならば、事後からの一連の様子についていかにも説明はつく。
……そう読み取ることにした。
となると、何も裏がない関係を装うためには即座に肯定するのが自然な反応に違いない。ここでさっきのように沈黙してしまうと不信感を抱かせる可能性があった。適切な答えがはっきりしているならば、このような場を穏便に切り抜けるのは慣れている。
 
「そんなの当たり前じゃないか。怪盗団がどうとかもう関係なく、僕と君の仲は変わらないよ。ずっとそばにいてね」
 
嘘をそうとはバレないよう吐くことなどもうお手の物だ。……そのはずだった。
しかし作り笑いで白々しい台詞を囁くと同時に、何かがじくりと痛み出す。胸の隅に雑巾みたいに打ち捨てられ、とっくの昔に感覚を失っていたはずの心の一部がひりつき始めていた。
また、しかるべき虚言に対して暁は浮かない表情のままだ。間違いなくあれが暁の望む答えだったはずなのに、彼の小さな呼吸が溜め息にすら聞こえた。どうも先ほどの言葉だけでは手放しに喜べないと言いたげな様子が滲んでいる。
普段は大人しくもあんなに不敵な言動を見せているというのに、今の暁はどうしようもなく不安げな姿だ。それほどまでに俺なんかと一緒にいられなくなることを恐れているということだろうか。そう考えたところでまた胸がじわじわと締まりだしていく。
 
俺がすべきことは誠実な交際相手を演じ続けることだ。それは変わらない。暁を失うことを恐れるなどという愚考が今更染みを作り出そうが、それはもう変えられない。
ただ、暁から伝わってくる俺への気持ちが確かなものであることも変わらないのだ。身体のみならず心から存在を求められていることは、これまで過ごした日々を通じて沁み渡っている。
暁からの想いに免じ、たとえ一時であってもそれに値する何かを示してやりたい。そんな気持ちが俺の中に思いがけず芽生えた。
恋人という立場から暁に示すことが出来る、何かしらの想いの証。少し思考を巡らせて一つ、思いついた。普通だったら相当の決意と覚悟が必要であろう表現ではあるが……どうせ叶わないのならば関係ない。ちょうどおあつらえ向きの小道具もあったはずだ。
傍らに適当に置いたはずのタオルを、彼に気づかれないよう手探りで拾い上げる。本来の目的を忘れ長らく放置したままだったそれは既に水分を失い、元通り乾ききっていた。これなら利用できそうだ。
少々お粗末なのは否めないが、意図は伝わるだろう。
 
「そんな顔しないで、暁。あともう一つだけ聞いて。君が怪盗じゃなくなったあと、よかったら――」
 
顔は隠れないよう、純白のそれをふわりと彼の頭に被せる。
どうせ嘘しか吐けない身なのであればその大小はもはやどうでもいい。
いっそ大げさすぎる虚言であっても、暁に束の間の夢を見させてやるくらいは許されると思いたかった。
飾れるような思い出を贈る機会を持ちえなかった――そんな恋人の贋作でしかない俺からの、無形の餞。
 
「僕と結婚してください」
 
これも結局は嘘に過ぎない。
指輪のような形はないとはいえ、怪盗団をはじめとした他の奴らでは真似できないプレゼントだ。そんな優越感も完全には捨てきれていない以上、自己満足の一端でもあるのかもしれない。それでも、俺の中から突如湧いたなけなしの優しい嘘のつもりだった。暁の想いを精一杯汲んだ仮初めの誓いだ。
また、自分でも驚くくらいやけに真剣な声色で告げてしまったのを感じていた。今まで嘘を吐いた時にはなかった不思議な感覚で胸が満たされていく。
そしていつも通りの空っぽの笑顔ではなく、穏やかな微笑が勝手に零れていった。
瞬間、暁はハッと目を見開いて――ほどなくぽかんと呆けた。
ぱちぱちと何度も瞬きが繰り返される。穴があきそうなほど俺の顔を凝視しているのがわかる。
そのうちに彼が一際息を飲んだ。
一気に顔を歪めた暁を見て苦笑されるのかと思いきや、露わになったのは意外な表情だった。

「……なんて、唐突な……申し出だ……はは、は」
 
降り注ぐ月明かりを孕みながら雫がぽろぽろと流れ落ちていく。
暁が泣いたのを見たのは初めてだった。
快楽に伴う生理的なものを除けば、異世界でどんなに痛々しい怪我を負おうが、全滅寸前まで追い詰められようが彼が泣くことはなかった。そんな暁がふいに決壊させた涙は、宝石にも代えがたい輝きをしている。
綺麗だ。露のように溢れるそれを指が拭っていくのが惜しいと感じるほどに、純粋に美しいと思った。涙をさらけ出したことへの驚愕よりも先にそんな印象が先立ち、月下に淡く照らし出される彼を微笑んだまま見入っていた。
やはり、嬉しくてつい泣いてしまったのだろうか。だとしたらこれは俺なんかを信じたばかりに流されたものということになる。そう推し量ったところで心の奥に殊更ずきりと痛みが走ったが、どうすることも出来なかった。
 
暁は嗚咽を押し殺しながら、なんとか雫を制しようと試みているようだった。そういえばまだ答えを聞いていない。話し出そうにもまだ声が詰まってしまっている様子だ。焦ってタオルの端で目元を拭き取ろうとするものだから、頭にかけてやっていたそれは早々にずり落ちていった。
やがてしばしの間を置き、ある程度涙を抑え込んだらしい暁が改めて俺に向き直った。目は少しだけ腫れてしまったが、静やかな笑みを湛えている。今までと同じようにまっすぐこちらを見据えながら、そっと沈黙は破られた。
 
「……ありがとう。でも、悪いけど……今は答えられない」
 
即了承される可能性も一応考えてはいたが、比較的想定通りの回答だった。
互いの年齢と短い交際期間を考慮すれば、俺の言葉があまりに突拍子のない申し出であったことは明白だ。普通ならもう少し時間と段階を重ねてから考えるようなことだと思われる。仮に裏のない正常な恋人関係だったとしてもこの反応は賢明なものだろう。指摘はされなかったが、そもそもこの国では同性で書類上の婚姻は出来ないという根本的な弱点もある。
どちらにせよ俺達が今すぐどうこうするには少々非現実的なことを見越した上での、大げさな演出だった。
それでも暁の浮かない様子は鳴りを潜めたことから、目的は達成出来たと思われた。偽りでしかなかった恋人面ではあるが、それに見合った泡沫の夢を彼に見てもらいたいという責務は果たせただろう。
あとは返事の保留をしおらしく受け入れつつ、もう少し甘いお喋りをしてやれば充分誠実な奴を装えるはずだ。とりあえずその泣き顔を拭いてやって、そろそろ眠るアプローチもかけようか。そう自分の中で勝手に完結して実行しようとした時だった。
思いがけない言葉が暁から続いたのだ。

「そうだな……。せめてお前が高校を卒業してから――もし、もし本気でそう思ってくれていたなら、俺が東京を離れる頃にもう一度聞かせてくれ。返事はその時までに考えておく」
 
暁は真剣に、俺と共に生きる未来を考えようとしてくれている。
その意志をひしひしと感じられる律儀な提案だった。それも成熟した大人になるまで数年待てというわけではなく、たった数ヶ月で。
――しかしそのたった数ヶ月の猶予が、俺には許されていない。
幾度となく滲んだ不穏な躊躇を押し殺しながら方針を整理したのに、ここで覆そうものなら台無しになってしまう。
いくら二人で人並みの甘い未来を描いたところでどれも虚像に過ぎない。結局俺達の前に横たわっているのは、叶わない絵空事だけ。それでも今は、暁に合わせてつらつらと不毛な仮定の話を語り合うしかなかった。嘘は嘘でしか取り繕えないからだ。
 
「前向きに検討してくれるみたいで嬉しいよ。でも僕が卒業しても、その時君はまだ十七歳だよね。もう一年待たなくてもいいのかい?」
「言質を取っておくくらいいいだろ。地元に戻ったら今ほどは会えなくなる」
「確かにそうだね。じゃあ、改めて返事を聞かせてもらうのはどこにしようか。やっぱりルブラン?」
「ここは……惣治郎や双葉がいるだろうからお前以外にも聞かれてしまいそうで居たたまれないな。そういえば、明智の部屋とかどうなんだ?一度も行ったことないけど」
「僕の部屋はちょっと殺風景だから……来てもらうのはもう少し落ち着いてからがいいかな。食べ物だっていつも林檎一つとか、せいぜい食べかけのヨンジェルマンのパンくらいしか置いてないからろくにおもてなし出来なさそうでね」
「お前の食生活が少し心配になるけど……ヨンジェルマンは何だか懐かしいな。付き合う前にあそこで鉢合わせたのがもう遠い昔みたいだ。……ああ、なんなら帝急ビルでもいいぞ、場所」
「えっ、あんな公衆の面前で……さっきみたいなことを言えっていうの?あはは、それはさすがに恥ずかしいなぁ」
「目立つのが好きな明智なら大丈夫そうだ」
「そう?僕って結構謙虚な方だと思ってるけど」
「ふふ」
 
暁が三月を迎えることはない。答えが聞ける日など来ない。
もの柔らかい彼の声と語らいを受け止める度に、胸がぎりぎりと悲鳴を上げそうになっている。
こんな話をした後で銃を向けられることになるなんて誰が想像できるだろう。想い人に心を撃ち抜かれるとはよく言われるものだが、頭を撃ち抜かれる奴はそういない。暁への最終的な仕打ちが変わらない以上、あれは優しいどころかむしろ最も残酷な嘘に等しい。このことにはどこかで気づいていながらも、そうするよりほかがなかった。
暁の気持ちを一時でも汲みたいという塵のような良心に従うことすら――嘘という手段を使わなければ、自分には何も出来やしないのだ。
 
帰するところ、何もかも嘘。
俺はどうしようもない嘘つきだ。
はたして暁に真実を話したことなどあっただろうか。出会ってからの短いようで長かった日々を自嘲しながら想起した。
取りあえず、母さんに関する話は本当だ。……ああ、暁の身体が気持ちいいことも事実だった。ところが指折り数えてみようにも、それ以外が浮かんでこない。いかに彼に虚偽ばかり繰り返していたのかを思い知ることになっても、俺にはもはや流す涙すらなかった。人生の大半をそうやって紡いできたせいで、息を吐くように虚飾することが当たり前になってしまったからだ。
だから暁のことが好きだの愛してるだの、そんな言葉もどうせ虚言の一端だ。ましてや結婚してくれなどという言葉だって、嘘として吐いたに決まっているじゃないか。
……しかし実際のところは、今まで彼に話したうちのどこまでが正直な気持ちだったのか判断を付けかねていた。
あまりに嘘を重ねがけし続けた心は、もう自身ですら本音の在処がわからなくなってしまったのだ。
 
総理の座をほぼ手中にした獅童。俺を愛してくれる暁。
来月末に自分の隣に在ってほしいのはどちらかと聞かれたら、元々の望みは確かに前者だったはずだ。今も本当に同じ答えだろうか。
嘘と恨みに囚われたこのゴミみたいな人生から俺を奪い取ってほしい、そして俺の家族になってほしいのは――そう自身に問いかけて導き出る答えは本当に前者のままなのだろうか。
あらゆる本音は、無造作に積み上げられた虚言の山に埋もれてしまっている。今更ながらそれを拾い集めようかという発心がじわりと生まれ始めていた。けれども山積みの嘘の中を漁ろうとしたところで、どうしようもないことを足枷がついていたことを思い出す。
……嘘つきであるだけなら、まだよかったのだ。実害が軽微な虚偽であれば、今からでも暁に真摯に謝り事実を話せばいい。そうしていくうちに徐々に信用を取り戻し、やり直していくことも不可能ではなかっただろう。
そう、俺が「ただの」嘘つきだったのならば。

しかし「嘘」を償えども、「罪」までは消えない。
見目麗しく飾り立てた林檎でも、芯から腐っているのが知れたら誰も口にしてくれない。
選択肢など初めから残されていなかった。
 
「……少し夜更ししすぎたみたいだ。明智、そろそろ寝よう。あまり先の話をすると鬼が笑うって言うしな」
「はは……それもそうだね」
「お前が連絡をよこさなかったとしても俺、待ってるから。……忘れないで」
「約束するよ。君からの返事が今から楽しみだな」
 
暁の答えを聞くより先に死が二人を分かつことになる。
それを知っていながらまた無残な嘘をつくことしか、もう俺に出来ることはなかった。
 
 
 
この左手には、指輪より銃の方がお似合いだ。